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tofubeatsのトキメキとアイ

 

 

ところで、tofubeatsは優れた編集者でもある。

近年の出版業界を見渡せば、以下の3つの現象を流行の中に捉えることができるのではないだろうか。

一つ目に挙げたいのは、特に人文系の書籍に特徴的な「対談本」の増加だ。一般読者の活字離れが進行し、読書リテラシーが低下する現在、口語を活用して内容を届けることのできる「対談本」は流行を見せている。書籍が平均して分厚いのは、固い文体で表現してきたような内容を対談フォームへ落とし込んでいる証拠だ。

ここで強調されているのは、あえて「未完成」な商品を受容者に届けることの価値だと言えよう。インターネット市場が人々の購買行動を変化させた現在、もはや博士論文などの「完成度の高い議論」だけを届けることが市場での有効策なのではない。もちろん完成した作品を目指して制作を行うことは大事なのだが、それ以外にもあえて「スキマ」を設けたコンテンツが広く受け入れられるようになった。なぜかといえば、商品が発売された後でも、作家や受容者がそれぞれカスタマイズを行って〈動的なコンテンツ〉を育てていくことに、人々が慣れてきているからである。私たちは「対談本」を次なる議論の入り口にすることで、Twitterやweb記事などの活字メディアはもちろん、トークイベントなどから、文脈をさらに充実させていくことができるのだ。

二つ目には、章の手前に用意された「はじめに」部分のネット無料公開が挙げられる。書籍によっては第1章なども無料公開しているものもある。本体から切り取られた「部分的な文章」であれ、書籍の内容そのものへの「手触り」を読者は受け取ることができる。三つ目に、これは二つ目のケースの延長でもあるのだが、「コンテンツの完全無料化」を挙げる。完全な商品が発売される前に、あえてネットから無料のコンテンツを配布してしまうのである。内容を全て読んだ後に、気に入れば喜んでお金を払う人々もいるし、他の読者へとオススメしてくれるかもしれない。本の内容が読者層に刺さるという自信があるからこそ選択できるマーケティング手法だ。もはや「はじめに」だけでなく、コンテンツの本体そのものに触れてもらう。ネットで無料コンテンツに触れる人々以外にも消費者は数多く存在するために、このような回路が設計されることもある。

完全と思われてきたやり方をあえて脱臼させること。コンテンツの内外に意識的に「穴」を作ること。断じて言うが、もちろんこの行為が完成度の高い作品を粗末にすればよいという議論には繋がらない。ここで言いたいのは、あくまでもコンテンツ内外の意識的な脱臼がインターネット時代のマーケティングとして幾らかの有効性を見せつつあり、書籍出版という伝統を重視した旧来型のビジネスモデルの中でもようやく行われるようになっているということだ。

話を進めよう。様々なジャンルと比較すれば、音楽業界は、出版業界やその他の業界と比べても、新しい時代のインフラに適用する動きが早い。コンテンツの完全データ化やサブスクリプションサービスなどの例から想像しやすいはずだ。

出足の早い音楽業界の中でも、コンテンツ周りの脱臼に関して、日本で一番初めに具体的な動きを見せたのがtofubeatsである。2011年の春にアルバム『lost decade』がリリースされ、同時に日本人アーティストとしては初の全曲先行フルストリーミングがiTunes Storeで行われた。さらに、彼のYoutube公式アカウントには、オノマトペ大臣との『水星』練習動画までもがアップロードされている。Tofubeatsも曲を歌い始めるタイミングを間違え自身にツッコミを入れるなど、その一部始終が「パッケージ」化されている。85000回以上視聴されているこの動画に人々が魅了されるのは、良い意味でのゆるさ(=穴)をこの動画が持っているからであり、それが十分に許容可能なコンテンツだからである。

 

 

すでに明らかだろう。編集者といえば一般的に「本」のプロデューサーを指すことが多いが、現在流行する全てのベースはこのようにして、およそ7年前のtofubeatsによって意図的に実践されていたのである。だからこそ、彼を優れた〈編集者〉だと呼べるのであり、彼が批評的な視点やブランディングを実践する背景も理解できる。

tofubeatsは、〈編集者〉と〈作家〉の特徴を持ち合わせる稀有なクリエイターだ。音楽の制作自体は〈作家tofubeats〉によって真剣に行われるはずだが、作曲とは別に、作家が今どのようなコンセプトで何をしているのか整理するのが〈編集者tofubeats〉の仕事である。

彼を批評するにあたって、作曲それ自体には影響せずとも、作曲のコンセプトに影響する〈編集者〉の側面を分析することは可能なのではないか。そうすることで、楽理分析からは語れない社会とより深く結びついた「作品」の様相が明らかになるのではないか。

つまり本稿で注目するのは、tofubeatsという人間の、創作にまつわるコンセプトワークなのである。

 

 

 

 

そんなtofubeatsの原点とは何か。blackfilesstv「オタク IN THA FOOD」での彼の一瞬の言及によれば『ブラスト公論』、特に「なんだよ安室ぉ〜!」の巻にヒントがあるようだ。印象的なエピソードトークに注目してみよう。

「ときめきが多い人生が実り多い人生に決まってんだろ!」というテーマのもと、どういうシチュエーションが人間をときめかせるかを考えるコーナーでは、男女共学の修学旅行で同級生の安室奈美恵と夜を過ごすという架空の設定が当てられる。[i]

最終日の夜、トランプなどで盛り上がった後に友人らは就寝。寝れずにこっそり起きていると、そこまで仲良くはない関係の安室に出会い、隣同士で話し合うという設定である。会話を楽しんだ後、気がつくと互いの手が僅かに触れている。イタズラ心で手を押せば、彼女も手を押し返してくる。手が重なる面積が徐々に増え、顔と顔が近づいてきた時に、「オハヨウゴザイマス、朝食ノ準備ガデキマシタ」というアナウンスが流れ、みんなも起き出してしまう。

宇多丸らがいうように、この話の肝は、「結局2人がくっつかなかった」ところにある。なんでもない人同士が非日常的な空間に置かれることによって、いきなりお互いの気持ちが通じあったような感覚に陥ること。そしてこの話は、相互理解の深まる手前で終わらないといけない。相互に深く理解している関係から、ときめきは生まれない。「この人とコミュニケーションがとれるかも?の感じがときめき」なのである。

おそらくここで語られている他者をつなぐ「ときめき」の感覚こそが、tofubeatsの中心コンセプトとしてデビュー当時から潜在している。

では、彼はどのようにして、他者と他者の感覚がいきなり繋ぎ合わさるような回路を設計し、「ときめき」の場を表現しているのか。

 

 

tofubeatsが用意する「ときめき」は、普段交わることのない他者同士を出会わせる。それが可能なのは、彼が編集者−作家とは異なるレイヤーにおいても、複数の〈表情〉を持っているからだ。半ば強引な分け方を承知で、以下に体系化してみる。

10代の早い時期からネットの世界に触れ、音楽を作り、広げてきたトラックメイカーは、まさにネットの申し子としての側面を持つ。そんな彼は、アイドル文化に詳しい「オタク」であることも公言している。誰もが夢見ることのできる内的な世界、そこに浸ることの楽しみを隠さない。

一方で、彼は都会のクラブで人々を熱狂させるDJでもある。多くの踊り手が魅了される音楽を作って、ステージ上でカッコよく振る舞う彼の姿は、間違いなく「リア充」だ。現実の社会的な関係、外の世界においてもバチっとキメることができる。

ひきこもりがちなオタクの世界にも、本格的に編み込まれた良質の音楽を届けること。カッコ良さを重視するリア充の世界にも、アイドルなど個人の妄想や夢と結びついた表現を届けること。例えばこのようにして、tofubeatsは「誤配」を生み出している。その「誤配」がなぜ「ときめき」へと効果的に繋がるのか、もう少し説明が必要だろう。

端的に言えば、それは彼が〈残念〉でいることの価値を深く体現しているからである。そして〈残念〉とは、まさに2000年代後期から2010年代にかけてその意味合いを変化させてきた、最新の時代状況を表すに象徴的な言葉なのである。

 

 

評論家、ライターのさやわかは、『一○年代文化論』の中でとりわけゼロ年以降の文化を取り上げながら、「何とも言えない、微妙な気持ち」を呼び起こすものが人を惹きつける現象に注目し、「残念」という言葉がその現象の核となっていることを主張する[ii]。

彼によれば、2006年くらいから「残念」という感性が世の中に広まってきた。興味深いのは、もともと「残念」とはネガティブな意味合いを持つ言葉だったものの、2007年にはかろうじてネガティブとは言い切れない例が現れてくることである。お笑い芸人「千原兄弟」の弟ジュニアが、兄のせいじのことを「残念な兄」と表現し、どうしようもない兄のことを面白おかしく語ったのだ。ここには「笑う対象に対する積極的な好意」が感じられる。「残念な兄」というネタが度々披露されたお笑い特番「人志松本のすべらない話」が高視聴率を記録していたことに、さやわかは「残念」におけるポジティブな意味合いの可能性を見出している。

2018年現在、この「残念」の持つポジティブさに共感できる人々の数も多いのではないか。私たちは「残念」な要素を「キャラ」として受け入れることで、深刻さを回避する。そこにあるのは、「否定的な部分を含めた全体の肯定」なのである。ダメな部分はダメだと認めつつ、自分の一部として単純に受け入れること。さやわかによれば、近年における「残念」とは、言ってみれば「清濁併せのむ」という思想なのである[iii]。

そこでこのように述べてみよう。2010年代を生きる人々にとっては、清濁併せのむ「残念」の感性を持つことがもはや「魅力的」になっているのではないだろうか。その代表例がtofubeatsだ。

「残念」であることが「イケている」に繋がる瞬間をtofubeatsの姿勢から感じ取ることができる。アイドルに対するオタク的な熱量を強調すること、その「残念さ」がもはやポジティブに振れカッコ良さに繋がっているからこそ、リア充はtofubeatsの音楽に夢中になる。また、カッコ良く本格的に作られた音楽が、なぜオタクに受容されるか。tofubeatsを快く受け入れるのは、彼がポジティブな「残念」さを持ち続けているからである。

「残念」であること、「残念」さを使いこなせることは、普段出会わない他者同士を結びつけるためのフックとなる。オタクもリア充も「残念でいて大丈夫」だからこそ、tofubeatsの音楽の中で混ざり合うのだ。それはオタクにリア充さを届ける回路、リア充にオタクさを届ける回路の「潤滑油」となっている。

「清濁併せのむ」思想は、コルグ ELECTRIBES Sを中学2年で入手し、非常に限られた音の「制約」の中でどうやって音楽を作っていくか、考え続けてきたtofubeatsの姿勢と矛盾しない。彼は、制約のあるドラムマシンを用いては「みんなが持っている機材で、どうやって差別化するのか」を意識し、メロディに関しても「自分が歌えないものは作らない」。

 

 

 

 

そんなtofubeatsは、2018年1月から放送のドラマ版『電影少女 – VIDEO GIRL AI 2018』において、新たな方向へと舵を切った。同作は、桂正和によるSF恋愛漫画を、関和亮監督がリメイクしたものである。

主人公の高校生、弄内翔(野村周平:演)が叔父の家で見つけた一本のビデオテープを再生すると、画面からビデオガールのアイ(西野七瀬)が出現する。「おまえのいいとこめっけ!」といつでも励ましてくれるアイは、まさに個人にとってのアイドルのような存在でもあり、一人暮らしの翔は彼女と共に生活を続けていくことになる。学校での翔は、同級生の柴原奈々美(飯豊まりえ)、古谷智章(清水尋也)と共に、コンクールでの受賞を目指してアニメ制作を行なっていく。

約25年前の原作時には「オタク」的であり得た「アニメ作り」という活動が、もはや現代においては「リア充」的に描かれているのが、このドラマの特徴である。今をときめく若手俳優たちの髪型や服装はいつでもダサさとは無縁であることが、学校内外での様子から明らかに判断できるだろう。内気な翔でさえ、外出する時の格好や日常の振る舞いは、むしろ「カッコ良さ」を強調するイメージの方へと振り切られている。

以上の背景に合わせれば、このドラマの音楽と主題歌を担当したのがtofubeatsであることが「事件」となってしまう。なぜなら終始ドラマで描かれるのは、イケている人達によるイケている人達との関係だからだ。それも「残念さ」の介在しない日常だ。

tofubeatsがこれまでの制作で重要視してきたのは、オタクからリア充へ、リア充からオタクへの回路であり、そしてそこから生まれる「ときめき」なのだと本論は主張してきた。一方で、今作においてはこれまでとは異なる〈コンセプト〉が生まれている。いきなりお互いの気持ちが通じあったような感覚に陥る「ときめき」ではなく、時間を経て生まれる「愛」こそが描かれるのだ。リア充だろうが関係ない。

 

 

愛はきっとふめつのこころ

君をずっと見守っているからね

何度だって繰り返しして

君となら永遠に

ふめつのこころは LOVE LOVE LOVE

−「ふめつのこころ」

 

翔とアイによる継続した時間から生まれる「愛」こそは、深く理解し合っている関係からは生まれない「ときめき」とは異なる表現対象であり、これまで後者の演出に大きく寄与してきたtofubeatsが相反するテーマへも挑戦したことは、紛れもなくコンセプト面においての新しい兆候なのである。

なぜ事件は起こったのか。

その答えは、映画『寝ても覚めても』を通して明らかになった。

 

いやあ、意外と根がロマンティックなんだなと自分でも思ったんですけど。こんな曲書くんだ、みたいな。だから、お題目をいただいたことで自分の開けたことのない扉が開いたところはありますね。ものすごく理詰めで作って「愛」というところに行き着くのが、自分でも不思議だったんですよ。理詰めといっても最後のところは運みたいなところもあるので、そこは自分でもビックリしました。それでこのやり方が面白くなって、のちに『電影少女』でも同じことをするんですけど。[iv]

 

制作の順番で言えばこちらが先。「ときめき」から「愛」への移行は、すでに『寝ても覚めても』の中で模索されていたのだ。

 

 

『寝ても覚めても』は、柴崎友香による原作小説を濱口竜介監督が映画化した作品である。

美術館からの帰り道、ヒロインの泉谷朝子は、鳥居麦(ばく)と運命的な恋に落ちる。クラブのDJをつとめ、時に風変わりな言動を示す麦に対して、朝子は一緒にいることへの不安をいつも感じていた。それでも彼との時間を好きにならずにはいられなかった。そして、そんなある日、麦は朝子の前から突然姿を消してしまう。

2年後、東京にて。カフェに努める朝子は隣のビルの会議室へとコーヒーを届けた時、麦とそっくりの顔立ちをした丸子亮平に出会う。戸惑いとぎこちなさを見せる朝子に、亮平は徐々に惹かれていく。そして、朝子は麦の存在を隠したまま、結果的に2人は付き合うことになるのだ。

さらに5年後、亮平と朝子は共に生活をし、充実の日々の中にいた。それでもある日、朝子は麦がモデルの仕事をしていることを知り、大きなショックを受けてしまう。そこから物語は大きく展開する。いつも自分のことを温かく包み、安心を与えてくれた亮平を犠牲にして、結局朝子は麦と共にタクシーへ乗り込む。さらに、旅路の先で麦とも別れ、激しく疲弊した亮平の元へと帰ってくるのである。

本稿における議論をここにも当てはめるなら、カッコ良くいながらも勝手にいなくなるという「どうしようもなさ」を押し出す麦は、文字通りのネガティブな「残念さ」を持っている。一方で、優しさと共にひたすらいい男である亮平は、スキがなく、そのような「残念さ」も持ち合わせていない。さらに亮平には「この人とコミュニケーションがとれるかも?」の「ときめき」が存在しないのである。麦には朝子を「ときめかせる」非日常性、分かり合えなさが現れる。朝子にとって麦は「残念」であり、「ときめく」ための対象となり得る。

しかしながら、朝子は最後に亮平の元へと再び戻ってくるのだ。朝子が亮平に対して、深い「愛」を感じたからである。ただ愛するということよりも、共にいた時間が可能にするもっともっと深い愛だ。ここに現れているのは、まさに「ときめき」から「愛」への移行なのである。

だからきっと、この映画の音楽と主題歌をtofubeatsが担当したことには大きな意味がある。彼も同じように、「ときめき」のコンセプトから、「愛」に繋がる活路を見つけようとしていたのだから。『電影少女』で彼の音楽が「愛」を表現していたことを思えば、tofubeatsの転換点は『寝ても覚めても』だったと断言できる。

 

 

一度生まれた愛は 二度と消えることなく

空と海のあいだを まわる まわる まわる

大雨が降ったあとに 溢れ出た気持ちをそっと

すくいあげて

ふたりの愛は 流れる川のようで

とぎれることないけど つかめない

−「RIVER」

 

トラックメイカーのtofubeatsは、音を伴った時間の流れを「空間」のように凝縮し、パソコンの画面上に配置し直すことで再び時間を作り出すプロである。これまでに述べてきたように、オタクやリア充といった複数のジャンル「空間」を音楽によって出会わせることにも長けている。

そんな彼が、コントロールできない「時間」の流れの中で、他者の心情を描くことになった。「ときめき」の後に彼が発見したのは、流れ続ける時間の中でしか遭遇できない深い「愛」なのである。流れる川の濁流と清流がすれ違い、交わり続ける軌跡を見れば、それが「ときめき」を求めてきた彼だからこそ辿り着いた表現であることがわかる。2つのMVを『RIVER』→『ふめつのこころ』の順番でみてみれば、「愛」の描き方も表現のメッセージ性を強めていることがわかる。

『寝ても覚めても』に出会うという運命を通して、tofubeatsの新章が幕を開けたのだ。

 

 

 


参考文献

 

宇多丸、前原猛、高橋芳朗、古川耕、郷原紀幸『ブラスト公論 増補文庫版』、徳間文庫、2018年

さやわか『一○年代文化論』、星海社新書、2014年

黒田隆憲『メロディがひらめくとき』、DU BOOKS、2015年

『ユリイカ第50巻第12号 特集・濱口竜介』、青土社、2018年

 

引用・参照

 

[i] 『ブラスト公論 文庫版』p449より

[ii] 『一○年代文化論』p186より

[iii] 同 p144より

[iv] 『ユリイカ第50巻第12号』p112より

文字数:7943

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