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いま平成を語るからこその『ONE PIECE』論・序説

 

 

平成期、大衆が熱を持つ最も膨大な「●●」を実践しているのは、間違いなく尾田栄一郎の漫画『ワンピース』である。読者の皆さんには、謎解きのつもりで「●●」を想像しながら読み進めてみて欲しい。

少年ジャンプで1997年から連載を続けているこの漫画のことを知らない読者のために、まずは簡単に物語を紹介しよう。

 

[i]

時は大海賊時代。かつて海賊王ゴールド・ロジャーが遺した「ひとつなぎの大秘宝」を巡り、幾人もの海賊たちが覇権を賭けて争っている。物語の主人公は、ゴムゴムの実という「悪魔の実」を食べて全身ゴム人間となった少年、モンキー・D・ルフィである。彼は海賊王を目指して仲間とともに冒険を繰り広げていく。海賊団が旗印にするのは、ルフィが命の恩人である海賊「赤髪のシャンクス」から預かった麦わら帽子だ。

『ONE PIECE』に関しては、自己啓発書などを中心にして、登場人物たちの正義感や言葉のメッセージ性に注目が集まることが多い。しかしながら、もちろんこのような短絡的な作品活用が漫画の性質を捉えているわけではなく、漫画を動かすエンジンはあくまでも「●●」の中に宿っている。

例えば、先にあげた麦わら海賊団には、「悪魔の実」を食べた複数の能力者が乗船している。ルフィ(ゴムゴムの実)以外に、チョッパー(ヒトヒトの実)、ロビン(ハナハナの実)、ブルック(ヨミヨミの実)である。『ONE PIECE』を読み進める読者は、途中で作者による「●●」が既に仕掛けられていることに気がつくだろう。

現在、物語の中に「悪魔の実」は130種類以上出現している。しかしながら、麦わら海賊団の所有する能力だけが、ある規則の元に集合しているのだ。ゴムを56、ヒトを110、ハナを87、ヨミを43のように読み替えることが可能となる。そして、例えば新たに加わる仲間が「29」にまつわる悪魔の実の能力者だと予想することもできる。

このような細かな「●●」が盛りだくさんの『ONE PIECE』だが、物語の展開が「●●」に深く寄り添うこともその特徴と言えよう。麦わら海賊団は「ゴーイング・メリー号」(通称メリー号)とともにいくつもの冒険を乗り越え、その代償として船は大きく破損し、第430話で別れを告げることになる。新しい船として海賊団に与えられるのが「サウザンド・サニー号」(通称サニー号)。先の「ナンバールール」に照らし合わせるならば、「船の入れ替わり」という大イベントでさえもしたたかに用意されていたことになるのだ。「56+110+87+43+(29)」を計算してみてほしい。

 

 

作者の尾田栄一郎によって仕掛けられたいくつもの「●●」は枚挙にいとまがないが、その多くがストーリーの根幹に結びついている。それは言語だけではなく視覚的なフィールドにおいても同様である。記念すべき第100話では、謎の男が登場し、間接的にルフィたちの船出を手助けする場面が描かれる。そして、数年後に発表される第314話において、彼の正体が世界政府転覆を目論む「革命軍のリーダー」でありながら、主人公ルフィの父親だということが明らかになった。

 

[ii]

彼が初登場時から顔面に彫っているタトゥー、それは3つのダイヤを表しているように見える。「大富豪」というトランプゲームをご存知だろうか。4種全ての模様を同じ数字で揃えれば、プレーヤーは「革命」と呼ばれる手札を繰り出すことができる。2が最強の数字だったゲームでは、「革命」以降3が最強のカードとなる。「大富豪のトランプゲーム」において、男と革命軍の結びつきは初めから示唆されていたのだ。息子のルフィがのちに「JOKER」を名乗るボスキャラを打ち負かしたことを考えれば、それは未だ物語の根底を流れている。「JOKER」という2さえ上回る特殊なカードに唯一対抗できるのは、「スペードの3」なのだから。

 

 

『ONE PIECE』に込められた「●●」を掘り起こすだけでも相当な時間を必要とする。次の議論に進むためにも、最後に印象的な「●●」を紹介したい。漫画の世界で、物語の鍵はコマ内の「擬音」にさえ忍び込む。

 

[iii]

これは麦わら海賊団のクルー、ロビンによる回想の一場面だ。彼女の出身島であるオハラは、かつて世界政府により住民ごと消し去られた。ここでは、考古学者のクローバー博士が、重要な真実を明かす手前で射殺される。博士は、世界の鍵を握る存在としてある島の名を口にしようとしている、が第395話の時点でその名は明かされない。しかしながら、尾田がここで擬音に「●●」を取り入れていると読者は考えることができる。博士が撃ち殺される瞬間、「ドォン!!」という音が大コマで強調される。まるで博士のセリフ「かつて栄えたその王国の名は−」に重なるように。

そして、第585話において、ある情報が明かされる。主人公ルフィの出身地は、これまで彼の生活するフーシャ村しかうつされなかったが、村の長閑なイメージとは裏腹に、島の中心には強大な王国が存在していたのである。第1話で冒険の始点に用意されたその島の名は「ドーン島」という。

じきに読者は別の重要な事実にも行き当たる。麦わら海賊団がいくつもの冒険を乗り越えて「偉大なる航路(グランドライン)」を半周したとき、尾田は記念すべき第601話に示唆的なタイトルを与えていた。第601話「ROMANCE DAWN for the new world – 新しい冒険の夜明け-」。作品の第1話も似たようなタイトルだった。第1話「ROMANCE DAWN – 冒険の夜明け-」。ここで「DAWN」が繰り返されることに重要な意味を見出すならば、過去に記された「擬音」でさえ効果を持ち、「●●」の範疇から物語に関与していることが理解しやすいだろう。

 

 

さて、ここまで『ONE PIECE』に込められた「遊び」の一端として、「ナンバールール」、「トランプルール」、「擬音」の効果を紹介してきた。ここまででもう予想もついていると思うが、「●●」とは「遊び」のことである。

ネタバレをしておくと、初めの2つはさておき、最後の「類推」は間違っている。本文で長々とその理由を述べることはできないのだが、『ONE PIECE』という作品の特徴を表現するために、〈あえて〉誤った(もしくは誤っているだろう)類推を、「擬音」表現に合わせて語ってみた

このように、物語に散らばった幾つもの断片が「遊戯的に」結びつくことによって、小さなストーリーが泡立つように現出してくる。これを盛大な規模で長い時間をかけて行うことが、『ONE PIECE』の持つオリジナリティであり、その根底には作家の「遊び」があるのだ。

では平成期の時代精神の反映として、なぜ「遊び」が強調されるのか。

 

 

 

続けてさらに問うてみる。平成とはどのような時代か?

いまを通り越して、過去や未来の日本人が平成の30年間を眺めたとき思い当たるのは、それがポップカルチャーの時代という柔らかな括りを持つことである。

「大人になる装置」が失われた社会では、子ども向けに用意されたサブカルチャーを、大人までもが楽しむようになった。社会をみても、平成期に現れた「チョイ悪オヤジ」や、幅広い年齢層の女性に対して用いられるようになった「女子」という言葉などは、まさに大人が〈若者〉に止まろうとする現象に結びつけることができるだろう。それくらい、若くあることが価値を持つ時代になったのである。

大人が子どもになる。幅広い年齢層の〈若者〉が文化を形成する。そして、ポップカルチャーの時代が生まれるというわけだ。文化は、大人が教養を示すためにあるものではなくなり、〈若者〉が遊ぶなかで生まれるものになった。

ゆえにこのようにして言い換えることもできるだろう。平成という時代を彩る特徴とは、大人の〈若者〉化が導く「遊び」という行いなのである。

 

 

だからこそ、平成期の「遊び」を最も象徴するにふさわしい『ONE PIECE』を取り上げた。加えて、その選択には、もう一つの重要な理由がある。

『ONE PIECE』は正史を崩し、新しいストーリーを作り直していく運動を内包している。たとえば麦わら海賊団は、幾つもの島を回りながら問題を解決し、村や国の生活を生まれ変わらせていく。そして、やはり物語の展開は「数字」や「トランプ」で紹介したような「遊び」に寄り添うことになるのだ。

そのような遊戯的な「書き換え」には、〈平成生まれの若者による時代感覚〉が潜在的に関連していると考えることができる。どういうことか。

ひとまず、このように言及してみよう。仮にいま存在しようとしている「平成史」は、昭和生まれの人間によって組み立てられている一面的な〈歴史〉である、と。多数派である昭和生まれの大人たちが客観的に歴史を見つめる時、もちろん平成には時代を象徴する事件がいくつか存在したことは間違いない。しかしながら、問題はシンプルな事実から生まれている。

 

1990年バブル崩壊

1995年地下鉄サリン事件

2001年アメリカ同時多発テロ事件

 

これらの重要な〈事件〉は、当時こどもである平成生まれの人間にとっては、様態を理解することが難しい。社会的な言説に付き合い、これらを「平成期の大事件」として理解することができるのは、多くの若者にとって高校生や大学生になってからのことだろう。それも、もちろん平成の早い段階で生まれた者たちに数が限られてくる。

 

2011年東日本大震災

 

これが平成という時代の中でも、〈平成人〉[iv]にとって象徴的な事件として機能しうる代表的な例である。平成前半に生まれた者たちは20代に突入し、ある程度社会的な言論とともに事件を経験することが可能となる。しかしながら、震災当時国内におらず、この大地震を身体的に経験していない者もいるはずだ。グローバル化の影響を受け、海外留学者数が圧倒的に多いのも〈平成人〉の特徴である。

ここにあげた4つの事件を客観的に見つめ、平成時代の象徴として言語化するのは、主に昭和時代に生まれた30代以降の人々になるだろう。だからこそ、今後語られる「平成」という時代からは、〈平成人〉の感覚が抜け落ちることになりかねない。

もちろん、〈平成人〉にとっても、以上の出来事の重大さは年を追うごとに増していくはずだ。しかしながら、事の重要さが理解できない子ども時代には、別の日常的な出来事の方が大きな意味を持ってしまう。一般的には、スポーツやアニメ、音楽などが「理解可能な」ポップカルチャーとして、若き大衆の間で前景化してくる。たとえばWBC第2回大会決勝戦でのイチローのセンター前ヒットや、AKB48の選抜総選挙などが大きな「事件」として印象に残ってしまうのではないだろうか。当時「子どもたち」であった〈平成人〉にとって、平成という時代の見方、感じ方は昭和時代を生きてきた人々とは異なる可能性が大いにあるのだ。わずか30年という平成の期間がこれに関係することは言うまでもない。[v]

このように分裂した平成の姿を、『ONE PIECE』の中に見いだすことができる。再び漫画へと話を戻し、要点をまとめよう。

1997年に〈少年〉ジャンプで連載が始まった同作は、「遊び」を通して自ら正史=時代を作り直すという、まさに〈平成人〉のリアリティを伴うことになった。本当の意味での子どもたちには、遊戯的に時代を書き換えることしか許されない。ほとんど歳をとらないキャラクターたちが時代を「遊び」ながら描きなおす様は、〈平成人〉の潜在的な欲望を射抜くのである。

作品が浮かび上がらせるのは、〈若者〉にとっての遊戯的な「遊び」だけではない。より本質的に存在するのは、〈若者〉ではなく若者による、時代を生まれ変わらせるための「遊び」なのだ。

 

 

 

ではなぜ昭和生まれの作家である尾田栄一郎が、〈平成人〉の「遊び」をうまく実践することができたのか。次の問いはこのようにして生じるはずだ。

その鍵は尾田栄一郎のアシスタント時代にある。『ONE PIECE』の連載前に尾田が制作に加わっていた漫画とは、和月伸宏の『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚』(1994年~1999年)だ。

『るろ剣』の舞台は幕末から明治にかけての日本。主人公は「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客、緋村剣心である。彼は明治維新の後、「不殺(ころさず)」を誓う。流浪人として全国を旅しながら、贖罪や新たな時代について模索していくのだ。

この漫画は、従来の典型的な「バトル漫画」とは異なる。とにかく強くなることで敵を倒したり、知恵を用いて敵を倒すことが重要視されない。もちろんバトル漫画のニュアンスは残しながらも、漫画でより強調されるのは「戦う意味」を問うことであったり、「次の時代」を創造していこうとする登場人物達の意志なのである。

尾田は、和月の元での経験を経て、平成という時代の「遊び」感覚を独自に見出したのではないか。「時代を生まれ変わらせる」というベクトルに寄り添ったまま、バトル漫画を脱臼する感覚がここに生まれた。

そう考えるとき、顔の左側にある大きな傷と、伝説の剣豪に匹敵する剣の腕前を持つ赤髪のシャンクスは、緋村剣心の移し身として立ち現れる。彼がルフィに託した麦わら帽子は、「時代を書き換える」意志を引き継ぐための象徴となる。

 

 

 

最後に『ONE PIECE』において、作家と読者の共同作業によって生まれる膨大な「遊び」が、さらに強力な「書き換え」を可能にしているメカニズムへ注目しておきたい。

改めて重要なのは、同作が週刊連載だという事実である。一週間後に次のエピソードが出るまでの間、読者は尾田の仕掛けた「遊び」を解読しようとしたり、「遊び」を分解し再構築することで潜在的なストーリーまでも生んでしまう。単行本の売り上げ総数でおよそ3億6000万部という記録を持つ『ONE PIECE』だ。ひとつのエピソードが生まれるたびに、ものすごい数の想像力が駆動されていく。読者同士がともに刺激し合う「遊び」を容易にしたのは、インターネット登場後の「コメント」習慣であることは間違いない。

加えて、『ONE PIECE』では作家と読者が「遊び」やすいように、漫画そのものにストーリーを前進させる〈運動〉が宿っていることも、見逃すわけにはいかないのである。

『ONE PIECE』は、〈島〉単位で、類似する物語構造を繰り返す。具体的には、作中の「偉大なる航路」後半で登場する島々と、前半で出現する島々での出来事は互いに重なりあうのである。キャラクターは、島という舞台だけを変えて、過去と類似する言動をこれでもかというくらいに繰り返す。ドラム王国編とパンクハザード編、ウォーターセブン編とゾウ編など、物語構造を導く〈運動〉はいまも続いている。

ひと組だけ紹介してみよう。アラバスタ編とドレスローザ編では、まず国の姫が敵として登場し、のちに麦わら海賊団に協力的な存在へと変化する。敵が経営するカジノがそれぞれ存在し、そこでルフィは必ず海軍に出くわす。さらにルフィの兄弟が現れ、海軍を足止めする。敵のボスは国王を騙していて、国王の重臣たちの後に麦わら海賊団が戦いに参入する。海賊は一度牢屋に捕まるものの、ボスから見放された配下の助けで脱出する。王宮で再び戦う際には、地元の反乱軍が仲間になっていて、そのボスは姫の幼い頃からの知り合いである。敵のボスは、最後の悪あがきとして国全体を滅ぼそうと時限爆弾攻撃に出る。海軍の協力を経て、麦わら海賊団は事態を収拾する。長くなってしまったが、類似はもちろん以上の箇所だけではない。物語の構造は、このようにして2つの島の間で繰り返されるのである。

それでもストーリーが異なる軌跡として多くの読者に受け取られているのは、伏線が絡み合い、高度に有機的な語りを可能にしてしまう「遊び」が塗り重ねられるからに他ならない。読者はその重層な世界観から新たな物語を受け取るのである。

「遊ぶ」環境ごと繰り返すことによって、じつは安定と不安定の両効果が立ち現れながら、重層な語りが生まれている。短期的な射程で眺めれば、物語構造の島単位での繰り返しというのは、作者と読者によって氾濫する「遊び」が安定するための土台を提供し、ストーリーを有機的な展開へと着地させる。

他方で、長期的な視野で眺める時、作品の孕む〈運動〉は、1周目に脱構築され書き換えられた物語さえも再び破壊することになる。一度世界の見方を修復しただけでは、すぐに覆されてしまう。物語の語り口には、必ず「2周目」がやってくる。そこで同じ「遊び」を繰り返すわけにはいかない。『ONE PIECE』の絶え間なく「遊び」続ける姿勢は、世界の常態をカオスに留め続けようとするのだ。

「遊び」の氾濫をパッケージ化(安定が生むカオス)し、時にそのパッケージごと壊そうとする(不安定が生むカオス)身振りは、昭和人に対して圧倒的に少数派の〈平成人〉が宿す、平成という時代への過剰な防衛反応のようにも見えてくるのではないだろうか。

 

 

平成とは、いわば昭和生まれの〈若者〉によって作られる「オモテ平成」と、平成生まれの若者によって潜在的に想起される「ウラ平成」に分裂した時代である。それぞれの「遊び」が存在し、『ONE PIECE』は後者の表象によりふさわしい。〈若者〉は遊戯的に「遊ぶ」ことで若くいられる、または若さに憧れるからこそ、歳をほとんどとらないキャラクターたちの生きる『ONE PIECE』に惹きつけられ、若者にとっては、魅力的な時代の書き換えが同作の「遊び」において映し出される。〈若者〉と若者が共に文化に親しんだ「平成」というポップカルチャーの時代において、同作が大きな指示を得たのには相応の背景があるのだ。

平成の終わり。未熟な子どもたちの声は、〈若者〉化する大人たちによってかき消される。若者の「自分語り」が排されることで、平成の持つまやかしの一般性が強調されてしまう。だからこそ「声」を〈あえて〉強調することに意味が生まれていく。

若くあるために行う言葉通りの「遊び」と、目の前の風景を変えようとする「遊び」は様相を異にする。「遊び」という幼稚な振る舞いをもって時代を書き換えていくことしか許されないのなら、平成生まれの若者は徹底的に「遊び倒す」しかない。彼らの欲望こそが、『ONE PIECE』に転化することになる。

 

 


[i] 尾田栄一郎『ONE PIECE カラー版1』(ジャンプコミックスDIGITAL)、集英社、1997年、第1話全体51ページより

[ii] 同『ONE PIECE カラー版12』、2000年、第100話全体8ページより

[iii] 同『ONE PIECE カラー版41』、2006年、第395話全体135ページより

[iv] もちろん、1980年代後半に生まれた人々も〈平成人〉と似た記憶を持つかもしれない。強引な切り取り方をしているが、わずか数年の範囲で存在する彼らは昭和生まれであり〈平成人〉でもあるというような印象を、本論から受けとる読者もいるはずだ。

[v] 加えて、昭和の終わりには昭和の政治社会を語れる大人が多く存在したこと、明治や大正期においては戦争などの個人的な深い体験として、子どもも大人のように事件を捉えていた可能性を考慮する。子ども時代から個人の興味関心が多分化することが許された上でわずか30年の期間しか持たないという平成の特殊性に、本論は注目している。

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