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〈今日〉から拡がる翻訳のフロンティア

 

 

「先取りの剽窃」[i]がない世界、生まれづらい世界。私たちはもはやそのような環境に足を踏み入れているのではないだろうか。

Amazonでは新旧書籍の在庫が同じプラットフォーム(棚)の上に表示され、紙とともにかつては滅びていった活字情報も電子書籍にまとめられていく。Netflixなどのサブスクリプションサービスを通して、私たちは50年前の作品と一ヶ月前に制作された映像に、同じ鑑賞方法で接する。新旧両作品は膨大なデータベースの一部として消費される。

たとえば、少年時代に岸本斉史の漫画『NARUTO』の絵に慣れ、大人になってから大友克洋の漫画を読んで、「これはNARUTOのパクリじゃん」と仮に感じた読者Aが存在するかもしれない。しかしここで留意しなければならないのは、前提となっている「時代性」の存在だ。後続する時代の漫画を読み、そこから遡って古い時代の作品を受容するときにギャップが生まれ、その落差が「先取りの剽窃」を導いている。

流動化する社会状況においては、価値強調の土台にするための「同時代性」を頼りにすることができない。読者Bは、漫画『NARUTO』を読むところまでは読者Aと同じでも、その1時間後にすぐ大友克洋の作品を読んでしまう。データベースから作品を受容する読者Bは、異なる時代性を持っていたはずの両作品を、同じタイムスケールの中で消費してしまうのだ。それならば、「先取りの剽窃」は単純には起こり得ない。さらに、21世紀生まれの読者Cは、データベースを通してまず大友克洋の作品に出会い、その直後に『NARUTO』の世界を知るかもしれない。

現代社会が導いた消費環境においては、「先取りの剽窃」という概念の有効性が失われてきている。私たちには、もはやその事実から目を背けることの方が難しい。

 

 

そして、「先取りの剽窃」が不在の状況は、実は翻訳の価値を部分的に失わせかねない。あるクリエーションが、現在よりも前の時点で行われていたこと。このシンプルで歴史的な価値を世に発信することもまた、特に「古典」を扱うことの多い翻訳だからこそ課せられる使命であることは言うまでもない。

それでは翻訳は、いかにして「先取りの剽窃」を再生することができるのか。筆者の見解を述べるならば、「先取りの剽窃」は作品表現(技法)以外のところで時代性と結びつく必要がある。翻訳が写し取るのは、作家の「個人的な世界」[ii]という、自然主義的な表現技法から距離をおいたものであるべきだ。

どういうことか。「個人的な世界」が何を意味するのか、想像がしづらいところもあると思う。ここで、その表現に成功している長編アニメーション作品を取り上げたい。アリ・フォルマン監督『戦場でワルツを』(2008年)は、10代の頃イスラエル軍に従軍した実体験を、40代になったフォルマン自身がトラウマとともに振り返る様を描いている。

 

 

今作は「ロトスコープ」という、実写映像のトレースによってアニメーションを作る技法に近いやり方で制作されているのが大きな特徴だ。ロトスコープでは、1/24秒以上の細かさで成り立っている現実を捉え切ることができない。実写が含む「兆しの動態」までカバーすることができないぶん、絵は「ヌルヌルとした、不明瞭なものに変化」してしまうのだ。

アニメーション研究者の土居伸彰が指摘するように、「ある映像が、条件が同じままにリアルなものに見えたり、まったくそうではないものに見えたり、揺らぐ状態になる」からこそ、『戦場でワルツを』では、フォルマン自身の個人的な世界観がより色濃く反映されることになる。戦時中の現実、幻覚、空想などが混ざり合う状態は、実写を通したときよりもアニメーションの中で実質的なリアリティを獲得する。

私たちはここで、作家が「混濁した状態のリアリティ」を宿らせるために、実写をアニメーションに「翻訳」する様を参照することができる。わざわざ「翻訳」することで、自然主義的なリアリティから離れ、作家の個人的なリアリティに鋭く迫っていく試みが発見される。

こうして、イスラエル軍に従軍した作家の「個人的な世界」は、たとえロトスコープという手法が真似されようとも、後世では再現することのできない時代性を内包することになるのだ。表現の奥にある複雑化した「個人的な世界」は、データベースの中でも時代特有の差異を主張する。

たとえば「個人的な世界」を軸にして「先取りの剽窃」の足場を作る。そうすることで、「翻訳」の意義を古典の中にも見出せると考えることはできないだろうか。最後に、鴻巣友季子訳『風と共に去りぬ』を考察の対象として取り上げ、文芸翻訳の可能性に迫りたい。

 

 

訳者あとがきの中で述べているように、鴻巣は原作におけるシンパシーとアイロニー、ボケとツッコミとでも呼ぶことができるような原作の文体を意識的に訳出した。地の文の中に、人物の声やまなざしが滲み出る自由間接話法が多用され、「作者が登場人物の声まねで代弁するような、あるいは登場人物が作者の声を借りてしゃべるような感じ」が強調されると思えば、いきなりヒロインを突き放して批評的な視点から作者のコメントが加えられる。

一方で、原作者のマーガレット・ミッチェルは「あの時代を生きる者の視点で書いたのです。この小説は全知の回顧的な視点ではなく、スカーレットの目を通して書かれて」いるのだと主張する。ではなぜ「ツッコミ」が入るのか。それはおそらく執筆当時の1930年代の時代状況と、ミッチェルが文学的な想像力から迫った1860年代という物語舞台の両方が合わさったものこそが、作品に映される彼女の「個人的な世界」だったからである。

アメリカで女性の公民権が確立されるのが1920年であることを考えれば、19世紀を生きる南部のレディたるヒロインが、作品内で自立的かつプラグマティックな価値観を持っている訳も理解できる。旧南部の伝統から離れた女性像こそは、1930年代に活躍する新しい南部女性作家としてのミッチェル自身をも写しているはずだ。『風と共に去りぬ』には、作家ミッチェルが二重に織り込まれて存在することになる。

鴻巣は、この二重性に目を向けて訳出することで、結果的にミッチェルの「個人的な世界」を強調している。2つの年代が混じり合った複雑な時代性が担保されるのだ。

作家の「個人的な世界」を通して、特殊な時代性を映し出すこと。文章表現を通してその世界を訳出し、データベース環境の中で歴史的にも価値づけていくこと。新たな古典翻訳が〈今日〉を押し拡げ、時空間のフロンティアを開拓する。

 


 

[i] 鴻巣友季子が課題文の中で解説、訳出:le plagiat par anticipation

[ii] 土居伸彰が提唱する概念を参考にしているが、土居の議論では多くのバリエーションを含んだ「個人的な世界」という言葉の用いられ方が存在し、本論考では批評の流れに即した一部の解釈を取り入れているに過ぎない。

 

参考文献

マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(鴻巣友季子訳)、新潮文庫、2015年

土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』、フィルムアート社、2016年

 

文字数:2979

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