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フィクションという焚き火 – 想起の文学

 

フレドリック・ジェイムソンは、『ポストモダニズム、または後期資本主義の文化的ロジック』の中でこう述べる。地球上において人間の手による開発が進んだ結果、文化が経済と一体化し、人間にとっての第二の自然が生まれた。[i]つまりそれは、資本主義世界の向こう側にある世界を思考する思想や芸術にとって、理想像が失われることを示唆する。未知ゆえに理想を委ねられる向こう側の消滅。芸術は未知の世界を探求するものから、既存の資源を組み合わせるものへと変わってしまうのか。例えばこのようなポストモダンの状況に対して、2つのアプローチを両立する作家がいる。それも哲学をただ語るのではなく、文学やフィクションという表現を通して。

高橋源一郎は、ポストモダン文学の作家として広く知られている。しかしながら、彼の小説には詩、SF、冒険小説などの様々な要素が入り乱れているようにも感じられるだろう。高橋が、ポストモダンについてポストモダン文学を通して表現するために、そのような枝分かれが発生しているのではないか。作家の真髄に迫るため、小説を彩る他のジャンル要素に引きずられず、そして表面的に小説の効果や可能性を述べるのではなく(それはただのシュミラークルではない、ただの死ではない)、ポストモダンというテーマを深く抽出することを試みたい。

幸運なことに、高橋がポストモダンを正面から扱った作品が存在する。『さよならクリストファー・ロビン』(以降『さよなら〜』と表記)。この作品を頼りに、まずはポストモダン文学の書き手としての高橋源一郎をいま一度考察する。そしてその後にそこから抽出される問題意識を他作品の分析へと敷衍していく。

さて、6つの短編小説で構成される同作では、ポストモダンの世界に疲弊する現代の感覚が描かれる。

まず冒頭の「さよならクリストファー・ロビン」を前にして読者が気づくのは、そこに「クマのプーさん」の世界があることだ。しかし何かが違う。ここでは、高橋によって作品の背景が現代の社会状況に書き換えられているのだ。事実に見えるものでも、ひとたび語られる文脈ごと変化してしまうのなら、その事実は流動的に変化する。表現されているのは、文脈が内容の意味を変えてしまうというポストモダンの状況だ。

登場人物たちは、「お話」を作ることと隣り合って存在する「虚無」に怯えている。オリジナルの形式が出尽くせば、物語を生成する理由も失われるからである。そしてキャラクターは、「誰かが書いたお話のおかげで生きていて、本当は存在しない」という噂を逆に利用し、物語を自ら作り続ける。しかしながら、永遠にバリエーションを生み出そうとする作業が導くのは圧倒的な疲弊感だ。その無限に見える試みに絶望を感じたキャラクターたちは、徐々に物語を作るのをやめ、虚無の中に溶けていく。

そう、高橋源一郎はこの小説を通して、ポストモダンの負の側面にスポットを当てている。それをポストモダン文学という枠組みの中で表現するのだ。そのような認識は2つ目の短編「峠の我が家」にももちろん引き継がれている。たとえば同作における「IF」は「もし」ではく「Imaginary Friend」を意味する。言葉の意味は恣意的に決められる。ポストモダン文学の特徴だ。

「IF」の正体は、意味を失ってしまい、末路へ向かうキャラクターたちである。こども時代にお話の中で生きてきた相棒のような存在も、こどもが大人になり社会的な意味合いを重視するようになれば、行き場を無くしていく。ぬいぐるみがその典型的な例だろう。(興味深いのは、高橋が「IF」が忘却される瞬間を、「IF」の相方である人間が死ぬときだと定めていることだ。表面に出てこなくても、それまで「IF」の影響は、人間の中にとどまり続けているようだ。)

では、近いうちに死んでしまうこどもにとって、「IF」は何をすることができるのか。小さい頃にぬいぐるみと交えたコミュニケーションは、大きくなってから社会の中で活用する想像力の助けになる。しかしここで重病のこどもたちを前にすると、「IF」を生む「お話」の社会的な意味合いは剥奪されてしまうのだ。

それが描かれるのが3つ目の短編「星降る夜に」である。小説家志望の男が死を待つこどもたちにお話の読み聞かせを行う。彼も気がつくように、ものごとの価値は、死に近接するときになって、真に問われることになる。高橋源一郎は、人が死んでいくという事実から目を背けずに、ポストモダンへの文学を通した応答を迫られるのだ。ここでは物語の価値や内容を、そして書き手を信じるという手段しか残されていない。

4つ目の短編「御伽草子」、そして6つ目の短編「アトム」もまた、ポストモダンと死を考察する文脈に位置付けることができる。じつは『新潮』掲載時、「御伽草子」の後に執筆されたのは「アトム」の方であり、小説で5つ目に登場する短編「ダウンタウンへ繰り出そう」は、本来一番最後に書かれたものだった。『さよなら〜』における短編の並び順はおそらく、東日本大震災の文脈を重視して並び変えられたものだろう。それは2011年6月に発表された「御伽草子」において、「ぼく」の携帯電話から突然警報が鳴り響いたり、彼の考える時間が「二分十三秒」ということからも想像できる(東京では震度4以上の揺れが約130秒間観測された)。しかしながら、ここではポストモダン文学によってポストモダンに回答するという論考の軸に則り、元々の並び順を重視して分析を続けたい。

両短編においては、ポストモダンにおける世界が多様に広がるネットワークの結節点(のひとつ)に過ぎないという意識が強調される。例えば「御伽草子」の中で、こどもに読み聞かせを行う父親は『鉄腕アトム』をパロディにして読む。父の発話は単独のものであり、ここでの「お話」と全く同じものは存在しない。

「アトム」では、幽霊のような御茶の水博士の姿が見受けられる。天馬博士とクローンのトビオが世界を壊す最終兵器を発明し、御茶の水博士もこれによって死んでしまったはず、だった。しかしながら、アトムの前に現れたお茶の水博士は「生き続けている」。ここでは生命活動の終了をもって人生の終わりとする近代的な考え方は乗り越えられる。物質性を失ってもまだ、多様な文脈として生き続けることができるのだ。(これはジャック・デリダのいうところの「幽霊学」や「差延」に近接する。)

ここまで5つの短編を一気に紹介したため、一度議論を整理しておく必要があるだろう。高橋源一郎は、短編集『さよなら〜』において、疲弊するポストモダン状況を、ポストモダン文学の仕方で描き出す。そこではバリエーションを永遠に生み出そうとしていくことの辛さ、死と共に消失するキャラクターやお話(フィクション)の存在意義などが語られ、亀裂から生まれる多様な文脈世界の存在をもって再び1つ目の短編へと円環が繋がれる。幽霊と生きている状態は異なるものの、文脈を接続し続ける徒労はプーやティガーたちに判断停止をもたらしていたことを思い出そう。

「6つ目」の短編「ダウンタウンへ繰り出そう」を通して、高橋はポストモダン状況に対しひとつの回答を導く。そこで行われているのは、文脈のネットワークに他者性の楔を打ち込むということだ。そしてその他者性とは、死者を意味する。物語では、死者がこの世に戻ってきて生者とともに暮らす様が描かれる。ここでみられる2つの興味深い思考には注目する必要がある。

まず一つ目に、高橋は死者と生者の交流を、フィクションに限定している。ここには死者がもつ「異質な何か」はフィクション以外の直接的な言葉を通しては伝えられないのだというメッセージが垣間見える。

そして、より印象的なのは、高橋の死者への認識の仕方である。死とはそもそも、近代ヒューマニズムにおいて外部の世界を象徴する存在だった。簡単に言えば、この世とあの世、生と死ははっきりと分けられていて、生きている人間にとって、死者とはここではなく向こう側にいる存在だったのだ。一方で、高橋が描くのは、生者の記憶の中で共生する死者、生者とともに生きた「記憶としての死者」なのである。

言い換えれば、それはこちら側と向こう側という世界観が固まる手前のところに存在する死者だ。だからこそ、高橋にとってのこどもとIFの問題もここで接続される。小さい頃、現実世界とお話の境界は区切られていない。生と死の境界もゆらめくために、こどもはぬいぐるみが生きているように感じ、IFとおしゃべりする。

「ダウンタウンへ繰り出そう」から導き出されるのは、「今なぜお話を紡ぐ必要があるのか」というポストモダンの問いかけに対し、「フィクションこそが、生死が分化する前の状態、死という異質な何かを〈思い出す〉きっかけになる」という答えである。そしてそれは、ネットワークの接続過剰に伴う疲弊感から人間が抜け出すための手がかりにもなるだろう。

死者の他者性は近代における外部の概念だった。記憶という生死のあわいから迫りつつ、死者をポストモダン文学というフィクションの中で、ポストモダンに再導入する。『さよなら〜』における作家高橋源一郎の実践は、このようにして評価することができるだろう。

さらに、高橋のポストモダン文学は、他のジャンルをまとって展開され続ける。

2018年6月末、高橋の最新小説『ゆっくりおやすみ、樹の下で』が出版された。これは「朝日小学生新聞」に連載されたという事実が示すように、児童文学の系譜にある。児童文学もまた「文学」なのであり、作品内で扱われるモチーフは高橋源一郎作品の本流をいくものであろう。テディベアのぬいぐるみ、ビーちゃんは主人公の女の子ミレイちゃんにとってのIFとしてみることができる。また、過去の作品から引き継がれるリアリズムへの探求も発見される。

物語の内容を簡単に紹介する。小学5年生のミレイちゃんは、夏休みに母方の祖母の家に泊まりにいくことになる。もちろんビーちゃんと一緒に。鎌倉にあるその「さるすべりの家」は、ミレイちゃんのひいおばあちゃんにあたるミサトさんの記憶と、どうやら結びついているらしい。ミレイちゃんの夏休みの冒険は、過去や戦争の記憶にも関係づけられていく。

ここまで語っただけでもわかるように、『ゆっくりおやすみ、樹の下で』でも、死者の他者性を生者の記憶の中で分厚く活性化させ、現実の見方を変えていくような方向性が見受けられる。そして、今作では人間の可能性、想像力をさらに拡大するものとして、犬たちの存在が強調される。ポスト人間主義とでもいうことができるような視点が、死者の記憶をめぐる物語に取り入れられているのだ。

実は高橋は、これに類似する試みを過去に行っていた。その作品も「冒険小説」だった。今から約20年前の1997年に出版された『ゴーストバスターズ』には、高橋源一郎の今にもつながるポストモダン文学の主張が、アメリカ文学の影響と折り重なりながら存在する。『ゆっくりおやすみ、樹の下で』も素晴らしい小説であることに変わりはないのだが、ここまで語ってきたようなポストモダン文学の文脈に限定するならば、いま再度強調して価値を語るべきは『ゴーストバスターズ』なのではないだろうか。

同作の解説において、小説家の奥泉光は純文学の探求としての試みを高く評価しながら、否定的な点も挙げている。少し長くなるが引用してみよう。

高橋源一郎は本作品において、十九世紀に完成をみた、長編小説という、音楽でいうなら交響曲に類比すべきジャンルが培い蓄積してきた伝統の力を、自分の皮膚の感触においてたしかめようとしている。と同時に、物語ばかりではなく、従来の小説の構造を支えてきた、登場人物のキャラクターの一貫性などの合理性を排した場所で、つまり「無調」に徹した場所で、新たな構造性を探求しようとして苦闘していると見える。個人のセンスを超えた構造性を、つまりは彼の「十二音技法」を見出そうとしている。それにはしかし、ここでは失敗している。それこそゴーストを捕らえ損なったゴーストバスターのように。[ii]

高橋が『ゴーストバスターズ』において実践していたことの多くは、あまりにラディカルだったがゆえに、90年代の読者には理解されきれなかったのではないだろうか。2018年6月現在、劇作家の平田オリザが、高橋の小説『日本文学盛衰史』を原作に上演を行っている。舞台上で賑わう文豪たちは、高橋が原作で描いたキャラクターをさらに平田流にひねった存在に見える。

日本文学の文豪たちに、キャラクターが与えられ、その根源としてのデータベースがあるように観客は感じてしまう。想像力の源があるとしたら、間違いなく高橋の『日本文学盛衰史』の達成が関わっているだろう。しかしながら、実は『ゴーストバスターズ』においても、高橋はBA−SHOという松尾芭蕉のシュミラークルを通して物語を紡いでいるのである。おそらく解説で奥泉が触れているのは、「従来の小説の構造を支えてきた、登場人物のキャラクターの一貫性などの合理性を排」すことへの抵抗だろう。2018年現在の立ち位置からみると、別の解釈をもたらすことができる。高橋は1997年の時点で既に、文学とキャラクター、それにまつわるリアリズムの問題を扱っていたのである。

話を戻そう。このように、現在の様々な視点からより一層評価することのできる『ゴーストバスターズ』であるが、この論考の文脈に引き戻せば、白眉は第Ⅶ章「ペンギン村に陽は落ちて」になるだろう。そこで扱われるのもまた、死者の他者性をいかに導入するかというテーマなのである。

ある日、ペンギン村に宇宙船がやってきて、宇宙人のニコチャン大王は村人と交流することもなく、ただ沼で釣りを始める。その頃から、村では不思議な病が流行りだした。村人だけでなく犬や猫までもが奇妙な夢をみる。不思議な夢から目覚めると、勝手に笑っていたり、泣いていたりする。とにかくそのような夢を見た順に、村の生物は死んでいく。

夢の内容は、登場人物の一人、はるばあさんの夢の描写を通して明らかになる。そこでは、死者の記憶、死者の他者性が夢を通して生者に流れこんでいたのだ。死者との記憶が、村人に死をもたらす。論考をここまで読んできて、これでは駄目ではないか、と思った人もいるかもしれない。しかしこれで良いのだ。なぜならペンギン村では、死ぬということが無限に続く生からの脱臼、つまり真に生きるという意味合いに変わるためである。どういうことか。

小説の展開を述べれば、物語の後半までに描写されてきた村人や動物たちは、一人の博士によって作られたロボットだったのである。実際、ペンギン村では過去に奇妙な夢を見ると死に至るという病が流行した。そのとき博士は、死に抗おうと試みた。彼は、村人や村に住み着いた動物たちの〈記憶〉を死んだ細胞から蘇らせ、一つずつ、彼が何年にも渡って作り続けてきた精巧なロボットに移植してきたのだ。そして、機械はいつか壊れてしまう。だから博士は、それを治すことのできるもうひとりの自分までもロボットとして作ったのである。

物語の終盤になると、その博士=ロボットは、夢を見ては死んでしまう村のロボットを修理する、つまり彼らを「死」から「生」へ引き戻すことをやめる。そして自らも死に絶えていく。宇宙人のニコチャン大王がやってきたのは、村がもうロボットの群体で溢れてからだ。詳細は描かれていないが、彼の影響を通して博士=ロボットは死者の〈記憶〉に向き合い、考えを改め、死に向かうことでループを終わらせることができたのだろう。

実は、『ペンギン村に陽は落ちて』という小説は、1989年に初版が発行されている。しかしながら、1997年の『ゴーストバスターズ』の第Ⅶ章として再び蘇る事になったのだ。そして〈前・後〉の文脈を与えられた『ペンギン村に陽は落ちて』は新たな解釈へと繋がり、『ゴーストバスターズ』を中から駆動する強力なエンジンにもなった。具体的に説明しよう。

ペンギン村の博士=ロボットが、村の最後の存在として死に至ったとき、『ゴーストバスターズ』の登場人物の少年へと視点が移り変わる。

ぼくは目をひらいた。ぼくは大地にあお向けになって横たわり、夢の余韻に全身を震わせていた。(・・・)なにを確かめようとしたのかは、ぼくにもわからない。夜はまだ明けてはいなかった。[iii]

高橋源一郎の作品では、しばしば人の人格が入れ替わるという現象が見られるがこの場合はそうではない。アイデンティティーが流動化した社会においては、自らの名前や言葉の内容の意味合いは軽くなる、といったようなポストモダン的状況の一端を述べているのではない。

ここでは、博士が死者の〈記憶〉に迫って死んだ、にも関わらずその思考の形跡が夢を見る他者の中へと移っていくさまが強調されるのである。少年は冒険者たちとともに、焚き火のそばで眠り、夢を見た。そしてペンギン村の一部始終を博士=ロボットの視点から捉えることになったのだ。

重要なのは、その後の少年の変化だ。彼は生きながら、ポストモダンの疲弊に歯止めを打つ。少年は、時に人間以外の視点から夢や死者への記憶へと迫り、差異の無限連鎖を受け止め生きていこうとする。

最後に、『ゴーストバスターズ』の結末を引用して、この論考を締めたいと思う。好奇心の在処には、高橋源一郎の文学が燃えている。フィクションが存在する理由がそこにある。想起を導く炎は、1997年から今までの間ずっと、荒野の中で揺らめいていたのだ。

少年はひんやりした草むらに倒れたまま、暗い青、吸い込まれそうなほど深い空を見つめていた。不意に、少年は電流のような喜びに全身を撃ち抜かれた。助かった! 助かった! なんてことだ、もう少しで死ぬところだった!

しばらくして少年は起き上がると、体についた草と土を手で払った。ここはいったいどこなんだろう? いつの間にか、空にはむすうの星が瞬いていた。少年は空を見上げた。流れ星のようなものが流れ、そして消えた。少年はあたりの様子を窺った。世界は静寂に満ち、なんの気配も感じなかった。ためらいはなかった。血とガンと追いかけっこは止めにしよう。少年はそう思った。ぼくには向いてない。では、いったいなにをすればいいのか。もちろん、少年にはまだわからなかった。そのことで悩むことはなかった。少年の前にはいくらでも可能性が、希望があった。いや、まだ希望しかなかったのである。

遠くに焚き火のようなものが揺らめいているのが見えた。あれはなんだろう? 少年は少しの間考えた。だが、考えたとしてどうにもなりはしなかった。少年には方角がわからず、行くとすれば、その焚き火のようなものが見えるあの場所しかなかったのである。少年はよろめきながら歩きはじめた。遥か向こうから、笑いさざめく声が聞こえてくるような気がした。恐怖は少しも感じなかった。少年の胸の中にあったのは、揺らめく炎の正体を知りたいという強い欲望だけだった。[iv]

 


その他参考文献・引用

 

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生-動物化するポストモダン2』、講談社、2007年

芳賀浩一『ポスト〈3.11〉小説論 遅い暴力に抗する人新世の思想』、水声社、2018年

 

[i] 『ポスト〈3.11〉小説論』p217より

[ii] 『ゴーストバスターズ』p383より

[iii] 同 p310より

[iv] 同p370より

文字数:7979

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