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新海誠の「喪失」

目次

1「君の名は。」と「切りはなすこと」

2グループA(「雲のむこう、約束の場所」、「星を追う子ども」)における変遷

3グループB(「彼女と彼女の猫」、『「ほしのこえ」』、「秒速5センチメートル」、「言の葉の庭」)における変遷

4「君の名は。」

1「君の名は。」と「切りはなすこと」

「君の名は。」は2016年に公開され、興行収入では「千と千尋の神隠し」に次いで邦画で歴代二位に輝いている、新海誠による最新の監督作だ(2018年時点)。眠りから覚めると入れかわることがある「三葉」と「瀧」というふたりの高校生が、実は三年という時を隔てて入れかわっており、その時間のずれを利用して糸守町の町民を隕石から助けるというあらすじを持っている。

よく指摘されるように、予想さえされていなかった隕石による大きな被害というのは、確かに3.11を思い起こさせる。そして「瀧」視点からみると隕石の衝突は過去の出来事であり、その被害を防ごうとするのは過去を変えることであるため、(現実の)過去の事実を否認し修正するというある種の傾向との親和性を指摘されることもある。もしくは、「三葉」の視点で考えるなら、「君の名は。」とはいかに未来を変えるかを描いた作品である。彗星が落ちる前の「三葉」からすると、当たり前だが彗星が落ちるのは未来のことであり、それによって本来生じるはずの被害を回避するというのは、彼女からすると未来を変えることにあたる。

しかし「君の名は。」という作品は、過去や未来を変えることを描いている以上に、現在があることの偶然性を描いている。彗星の衝突から八年後、「瀧」が、就職活動の面接で「東京もいつなくなるかわからない」といった発言をしているのは象徴的だ。付け加えて言うと、そもそも「君の名は。」の全体像を俯瞰したときの「現在」の視点は、「三葉」も「瀧」も生きていて、大人になっている世界だ。映画は、大人になったふたりが、朝目覚めたときに感じる「喪失感」を語るモノローグからはじまり、ふたりが(記憶上)はじめて出会うところで幕を閉じる。物語本編と呼ばれるだろう、高校生の「三葉」と「瀧」が冒険を繰り広げる部分は、ふたりからは失われてしまった記憶の、いわば再上映なのだ。「現在」とはそのようにして、自分の知らないなにかの上に成り立っているのかもしれない、もしくは成り立ってさえいなかったかもしれない、とこの作品は言っている。

偶然性については(おそらく新海作品史上初めて現れた要素であるため)次回作以降でより掘り下げられることを期待しつつ、「君の名は。」の内容にもう少し深入りしようとするならば、「喪失」というキーワードにふれる必要がある。大人の「瀧」と「三葉」が朝目覚めたときに感じる「喪失」である。様々な場所で新海誠自身が言っている通り、彼の作品全体に通底するテーマとして「喪失」があるが、その扱いかたは作品を通して変化している。そこで、「君の名は。」においては「現在」の「喪失感」こそが描かれているのだ、ということの説得性を増すためにも、いかに「喪失」というテーマが新海誠によって変奏されてきたかをみてみたい。同時に、キーワードに縛られないやりかたで新海作品史を述べられれば、「君の名は。」が現れた過程もわかるかもしれない。

新海誠の主な作品を公開順に列挙すると、「彼女と彼女の猫」、『「ほしのこえ」』(以下「ほしのこえ」)、「雲のむこう、約束の場所」(以下「雲のむこう」)、「秒速5センチメートル」(以下「秒速」)、「星を追う子ども」、「言の葉の庭」、「君の名は。」となる。

本題に入る前にすこしだけ脱線すると、新海誠とは、「切りはなすこと」にこだわり続ける作家であった。これは様々な面でそう言える。これから述べることになるストーリー上のキーワード、「喪失」という言葉の中身がそもそも、多くの場合、主人公の男女が「切りはなされて」別の場所に行ってしまうというものだ。「ほしのこえ」は、地球にいる「昇」と宇宙にいってしまった「美加子」がメールだけでやりとりし、ふたりの距離が遠ざかることを描いた作品だった。

あるいは「切りはなすこと」へのこだわりは、風景の描写方法についても言える。DVD版の「秒速」に収められている新海誠のインタビューで、彼は「実在の風景を写実的に描くのではなく、記憶の中の風景を描きたい」と言っている。これはつまり、客観的な風景から、主観的な風景のイメージを切りはなして描くことを言っている。別の言い方をすれば、「そこにある風景」と「私がかつてみた風景」を切りはなし、後者を画面に写し取るということを言っている。それでこそ、見た人が美しいと感じる様な風景を描くことができるのだろう。また、ダ・ヴィンチ2016年9月号、神木隆之介との対談の中で「現実の風景を元に絵を起こすこともあるんですが、むきだしの風景ではなくて、抽象化して、作り手の解釈が加わった風景を描くことのほうが多いです。」と発言していることから、この方法は「君の名は。」に至るまで生きていると考えられる。

編集方法について言えば、新海誠はモンタージュを効果的なしかたで使うことがある。モンタージュとは多くのショットを(多くの場合)はやい速度で組み合わせる技法であり、そこでわたしたちが目にする画面は、自然に流れるべき流れから「切りはなされた」画面だ。もちろん映画とは実際のところ、断片的な画面の集積にすぎないのだが、それを感じさせない編集がスタンダードで自然なものとされている以上、そのスタンダードな編集と比べるとモンタージュはやはり自然な流れから「切りはなされた」断片的なものだといえる。新海作品のなかでモンタージュが顕著に使われているのは、「雲のむこう」と「星を追う子ども」以外の五作品だ。たとえば「秒速」の最後、山崎まさよしの「One more time, One more chance」がかかっているなかで次々に現れる、なにげない日常の風景や、主人公である「貴樹」と「明里」、あるいは「花苗」の思い出のシーンが挙げられるだろう。音楽に乗せたモンタージュであれば「言の葉の庭」で、「孝雄」と「雪野」が新宿御苑の東屋で出会ったのち、「その日が関東の梅雨入りだった」というセリフとピアノの音とともにモンタージュ的に「孝雄」の生活が流れていく、という部分もそうだろう。その他の作品でもモンタージュは使われているが、音楽やモノローグと合わせたりしているものが多く、風景の美麗さなどと合わせてある種の「新海誠らしさ」を醸し出している一要因だ。

みてきたように、物語においても、風景描写においても、編集技法においても新海誠は、「切りはなすこと」を執拗にテーマに据えている。あるいは別の言い方をすれば、物語において主人公の男女が「切りはなされる」こと、新海誠の言葉を使えば「喪失」を補強するために、画面としても映像としても「切りはなすこと」を描き続けている。

新海誠が「切りはなすこと」についての作家だということについては上で述べたとおりだが、モンタージュが積極的には使われていない「雲のむこう」と「星を追う子ども」は、このふたつの作品以外とはすこし異なる道を歩もうとしているように思われる。そこで、脱線から本題に戻って、物語における「喪失」について語るとき、新海作品をふたつのグループに分けて考えてみることにしたい。すなわち、「雲のむこう」、「星を追う子ども」という二作品のグループ(グループA)、「彼女と彼女の猫」、「ほしのこえ」、「秒速」、「言の葉の庭」という四作品のグループ(グループB)だ。このどちらにも「君の名は。」が入っていないのは、新海誠が前出のダ・ヴィンチでの神木隆之介との対談で、「神木さんの話を聞くと、今までの作品の全部の要素が「君の名は。」には入ってるなと改めて思いましたね。」と言っているように、「君の名は。」は、パンフレットvol.2の新海誠自身の言葉で言えば、これまでの「集大成」であるため、すべての作品を語りきった後に語り始めるのがいいだろうと思ったからだ。

2グループA(「雲のむこう、約束の場所」、「星を追う子ども」)における変遷

まずはじめは、「雲のむこう」と「星を追う子ども」のグループAから考えてみたい。この二つの作品の特徴は、上映時間がグループBの作品に比べて長いことだ。「雲のむこう」は約91分、「星を追う子ども」は約116分ある。グループBで最も上映時間が長いのは「秒速」の約63分(しかも連作短編)であることから、この差にはなにか意味がありそうだ。さしあたり考え付くのは、主要な登場人物の数の差だろうか。グループBは二、三人だが、グループAでは四、五人になる。そのことの意味は、ひとまず作品世界の拡張と言っていいだろうし、モノローグよりも人間関係の動きで魅せる、ある種のエンタメ的挑戦とも言っていいかもしれない。

そのような二作品のうち、最初は「雲のむこう」のあらすじからはじめることにしよう。

「雲のむこう」の舞台は、日本が南北に分断された戦後の世界だ。青森に住む「浩紀」と「拓也」と「佐由理」は中学生のころ、分断の象徴でもある、北海道に建てられた大きな「塔」を目指して、「ヴェラシーラ」という飛行機をつくる。しかし高校生になると「佐由理」が昏睡状態になる。それをきっかけに飛行機づくりは中止、「浩紀」は東京の高校へいき、「拓也」は青森で「塔」の研究に携わることになる。「塔」を研究すると、その周囲がパラレルワールドに置き換わっていることが、そしてその位相変換の拡大を食い止めているのが「佐由理」の眠りであることがわかる。同時に、日本の南北統一のための開戦を目指す動きがあったため、それに乗じて、「浩紀」は「佐由理」を乗せた「ヴェラシーラ」で北海道に飛び、「塔」の破壊に成功する。その結果「佐由理」の目は覚めたものの、「浩紀」に対する好意は消えてしまった。

以上が「雲のむこう」のあらすじだ。EYESCREAMの2016年10月増刊号で新海誠が「「君の名は。」は「雲のむこう」の語り直しの気持ちが強い」と言っていたように、「雲のむこう」と「君の名は。」にはストーリー上の重要な点での共通が見られる。それは物語の最後、主人公の男女が、なにかを失いながらも出会う、さらに言えば言葉を交わしたりするということだ。「雲のむこう」では「ヴェラシーラ」のなかで「浩紀」が「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これから、全部また……」と「佐由理」に声をかける。「君の名は。」では、ふたりとも記憶を失った状態で「君の名前は?」と聞くシーンで物語が終わる。白紙に戻った状態から再び関係が構築されるだろうと思わせる、という終わりかたは、他の作品では見られない。ただ、「雲のむこう」では「浩紀」のほうは「佐由理」に関する気持ちが消えたりすることはなく、「浩紀」と「佐由理」の役割は非対称だ。しかし「君の名は。」では「瀧」と「三葉」の両方の記憶が消える、という違いはもちろんある(これは「雲のむこう」では「佐由理」だけが「夢」をみるが、「君の名は。」では「瀧」と「三葉」のふたりともが入れかわりという「夢」をみる、ということと対応している)。しかしこの違いは、時代状況の変化に付随したものだと捉えられる。男女の役割の対称性は糸守町を救うときにも見出す事ができ、「瀧」のタイムトラベルと「三葉」による町長の説得のどちらが欠けても町民の避難は完了しなかった。この男女の役割の対称性は、ポリティカルにも「正しい」と言えるのではないだろうか。

もうひとつ重要な共通点は、「雲のむこう」の冒頭が声と服装から察するに大人になった「浩紀」が物語本編を相対化する視点を持ち込み、「君の名は。」でも大人になった「瀧」と「三葉」が「現在」から物語本編を相対化する視点をになっていることだ。ただし、「雲のむこう」では大人の「浩紀」の回想にすべてが収束してしまうため、「過去」の「喪失」にこだわるキャラ、という造形から抜け出してはおらず、「君の名は。」におけるような「現在」への視線の誕生にはまだいくつかの作品を経なければならない。

次に、「雲のむこう」には三人の大人が出てくる。「浩紀」と「拓也」が中学生のころにアルバイトをしていた製作所の「岡部」(「開戦」を実現するためのテロ組織の一員でもある)、「拓也」が「塔」の研究をしているときの上司「富澤」、「拓也」の「塔」研究の同僚「真希」だ。すこしややこしいのだが、「岡部」と「富澤」は友人で、「浩紀」たちと同じように、学生時代もうひとり女性を加えた三人で飛行機を作って飛ばしたりしていたらしい。というのも、「岡部」と「富澤」が電話で話をしているとき、「富澤」の棚に彼ら三人の記念写真があり、飛行機を飛ばしている回想シーンまで映し出されるのだ。「岡部」たちがなんらかの「約束の場所」を設定していたかどうかまではわからないが、飛行機を飛ばすという行為を子どものころにやっていた大人たちがいて、今度は別の子どもたちが飛行機を飛ばす(そしてそれがある危機を救う)、という構図があるのは確かだ。そしてこの構図は、二、三人のキャラクターだけで展開する時よりも時間的な広がりを生む。

これに再び「君の名は。」を重ねてみよう。もっともわかりやすいのは、「瀧」が、彗星が落ちてくる日の「三葉」と入れ替わって「三葉」の祖母「一葉」と話をすると、「三葉」たち「宮水家」という神主の血筋の女性は(おそらく彗星の落下に備えて)だれかと入れかわり続けており、その最後に「瀧」と「三葉」がいるのだと気づいたシーンだ。この設定には「なぜ「宮水家には女性が生まれ続けるのか」、といった問題があらわれはする。しかし構図だけを抜き出すと、今まで入れかわりを体験してきた大人たちがいて、今度は別の子どもたちが入れかわりを体験する(そしてそれがある危機を救う)、というものになる。「雲のむこう」での構図とかなりの部分重なる。違う部分があるとすれば、子どもたちがする行為をしてきた大人の数だろう。「雲のむこう」では一組だけだが、「君の名は。」においては「血筋」を介して何度もリフレインされてきた。「血筋」によって救いがあるというのは、批判されるべき部分なのかもしれないが、ただ、歴史的なものを持ち出すことで、「雲のむこう」に比べても、より時間的な広がりができてはいる。

みてきたように、「雲のむこう」では、男女の劇中の役割についても、物語を相対化する視点の存在についても、あるいは時間的な広がりについても共通するものがある。しかしそれらはすべて互いに微妙に異なっている。2005年の作品と2016年の作品なのだから当たり前だが、この差異を他の作品はどのように埋めてきたのかを知るためにも、新海誠の作品をさらに見ていきたい。

次に、「星を追う子ども」にうつろう。

あらすじは以下の通りだ。父の形見の鉱石ラジオで不思議な歌を聴いた「明日菜」は、不思議な少年「シュン」と出会う。しかし「シュン」は死んでしまい、教師であり亡き妻「リサ」を生き返らせようとする「竜司」と、「シュン」に瓜二つの「シン」とともに地下世界「アガルタ」へ行く。「フィニス・テラ」という大きな丸い穴のような崖の底の「生死の門」で「竜司」は「リサ」を蘇らせることに失敗し「アガルタ」に留まることにするが、「明日菜」は地上に戻る。

特筆すべきなのは、食事シーンが多いことだ。母がいない日、「明日菜」が自分で料理を作って食べるシーンや、山の上でサンドイッチを頬張るシーンが冒頭に現れ、「アガルタ」での冒険中もたびたび描かれる。「生死」というテーマを扱っているため、命を維持するために必要な要素として導入されたのだろうが、「食事」は「言の葉の庭」を経由して「君の名は。」にまでつながるモチーフになっている。先取りしていってしまうと、「言の葉の庭」の「雪野」は「ビールとチョコ」しか味がしなかった状態から、「孝雄」との出会いを経て、「お弁当」を食べるようになったりする。ここでは心の状態の一種の指標として「食事」が提示されている。そこから「君の名は。」にいくと、「瀧」の姿になった「三葉」が「瀧」の友人たちとお弁当やパンケーキを食べたり、「三葉」が家族と朝ごはんを食べたりと、「生死」というテーマとの関りからの要請だけではなく、生活のリアリティを補強するためにも描かれるようになっている。

この作品は「生死」がひとつのテーマになっていて、「竜司」は昔妻を亡くしたこと、つまり「過去」の「喪失」にこだわり続けるが、これは過去作品のキャラ造形を引き継いでいるものだと考えられる。逆に、「明日菜」はどのような「喪失」を抱えているのか、それはいまいち明瞭ではない。確かに父はすでに亡くなっているらしいし、母は家を空けることが多い。それに加えて「シュン」が亡くなってしまうし、学校で友人がいないような描写もある。しかしそのどれもが、地下世界にまで行って冒険を繰り広げる理由とするには足りないように思える。もっとも、「明日菜」は「シュン」の死をきっかけに「アガルタ」へ行くことにした、というような描写はある。だがそれさえも終盤、「シュン」を生き返らせようとする素振りすらみられないのだ。

おそらく「明日菜」が抱えているのは「喪失」ではなく、「喪失感」とも言うべき、明確に言うことのできないなにかなのだろうと思われる。そしてそれは、「君の名は。」の冒頭で大人になった「瀧」と「三葉」が感じる「喪失感」と似たものなのではないだろうか。何かを失ったことは感じる、しかしそれがなんなのかはわからない……。この「喪失感」の解決に、両作品は異なった方法を用いている。「星を追う子ども」は「アガルタ」の冒険とそこからの帰還を、「君の名は。」は運命の出会いを用いているのだ。前者はぼやっとした「喪失感」をぼやっと解決してしまっているが、後者であれば、「喪失感」の中身は観客にはわかっているため、その解決も非常にポイントを捉えたものになる。エンタメ的手法の成熟がこの変化にみられる。

「君の名は。」との共通点は、画面においても存在する。「フィニス・テラ」という丸くて大きな穴、その壮大な円形は、「宮水神社」の「御神体」があった山の淵、「瀧」と「三葉」が時を越えて出会う円(もしかしたら「縁」かもしれない)と合致する。巨大な円は、「星を追う子ども」での「輪廻」――「ケツァルトル」という神の転生が象徴するような――から、「君の名は。」での「時間」――「組紐」のような――になり、物語に厚みをもたらすモチーフのひとつになっている。

グループAの二作品には、「君の名は。」に至るまでのエンタメ的試み、たとえば時間的に厚みを持たせる仕掛けや、登場人物同士の関係をみせるといった手法によって、物語世界を構築する試みがみられた。それに加えて、新海作品に通底する、「喪失」というキーワードの変奏もまたみられた。続くグループBについての考察では、モノローグによって代表される様な「内省的」な世界観の描かれ方を中心に、「喪失」の変遷もまた確認していきたい。

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