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「未来のミライ」と平成

平成とはどういう時代だったのだろう。ひとは失う、失ったものについて考えたがるらしいけれど、わたしもまた、平成というそれなりに身近にあった、そして来年にはどこかへ行ってしまうもののことを考えたいと思っている。

ポップカルチャー、大衆文化は時代を映す。大衆に受容されやすいのは同時代の人々や社会について描かれているものだからだ。だとすると、平成のことを知りたければ、どういうポップカルチャー的作品が平成を代表するかをあわせて考えてみるといいのではないだろうか。

しかし平成を代表する作品のことを考える前に一度、平成がどういう時代なのかを考えてみたい。

結論をさきどりすると、平成とは断片の時代だと言える。しかし断片という言葉はあいまいすぎる。究極的に言うとすべては断片に過ぎないからだ。ある一冊の思想書がその思想家の全貌を明らかにすることはなく、こうしたことはあらゆることにあてはまる。ならば、これまでの断片と平成の断片はどう違うのだろう。

平成の特徴としてあげられるのは、支配的なコミュニケーションツールになりつつあるSNSだろう。たとえばLINEなどのメッセージアプリがある。一瞬で相手にメッセージが届き、会話画面というタイムラインで送信された言葉の量が目に見えるため、画面を大きく占めてしまうような文章の長さは圧迫感があり多くの場合避けられる。つまり一度に送られるメッセージにかけられる時間の長さ(送信時間にしろ、文章を書く時間にしろ)も言葉の量も小さなものになっている。

そうしたメッセージアプリに対して、たとえば電子メールならどうか。送信が一瞬ですむのはメッセージと同じなのだが、表示画面が異なる。それは一画面に交互にメッセージが表示されるというより、文章と宛先と署名が同じ画面に存在する、手紙的なものになっている。おそらくそのせいもあって、メッセージよりも多少長い文章が許容されやすいし、日常会話というより手紙的な使われ方をしている。つまりメールでは、送信時間は短いものの言葉は多く費やされやすく、それに比例して文章を書く時間も長くなることになる。ただしそれはメッセージと比べたときの話で、手紙と比べるとやはり時間も言葉も断片的にしか費やされない。

手紙ならどうか。言うまでもなく上のふたつより、送信時間も文章を書く時間も長く、文章も長くなることが多いはずだ。それはおそらく物質として手元に残ることが想定されているからであり、そうであるがゆえに手紙には「心」がこもっているとか、「気持ち」が通じるといったように尊ばれることがある。ひとはそこに費やされた時間や言葉の多さをみているのだろう。

これら三つのコミュニケーションツールはいまでも使われているが、確かなのは、メッセージアプリや電子メールが平成になってから浸透してきたということであり、そしてまた、手紙、電子メール、メッセージと発達するにつれ、一回の送信内容にかけられる時間や言葉の量が減ってきたということだ。

もうひとつ、平成を語るうえで外せないSNSがある。Twitterだ。2007年にサービスが開始されたこのアプリでは、140字にみたない投稿がタイムライン上に次々表示されていく。このタイムラインというのが厄介で、自分がフォローしているひとのツイートとそのひとがリツイートという方法で共有した他人のツイートが流れてくるのだが、そうしたツイートは相手と自分のタイムラインという異なる文脈上で異なる意味を持つことがある。たとえば「エアリプ」という、相手を特定しない通常のツイートをしながらもあきらかに誰かを想定したツイートが嫌がられるのは、そうした意味の推定のしにくさが理由だろう。誰について(ときには何を)言っているのか、その発言者とコンテクストを共有していないと理解するのは難しい。

さらにたとえば、いわゆる「炎上した」「バズった」(何万ものリツイートがなされた)ツイートや、話題になった(こちらも「炎上した」と言われることがある)出来事についてのツイートが本来のタイムライン、あるいは文脈から切り離されて理解される場合があるからだ。たとえばある議員が子どもを産む能力のことを雑誌に寄稿した文章で「生産性」と呼んだことが「炎上」した結果、「生産性」を能率とか効率の良さと理解してその発言を批判するツイートが見られたことがあった。もちろん辞書的な意味では後者の方が正しいので、これは元の発言を批判するツイートがさまざまなタイムラインを経由することで、キーワードである「生産性」の意味が辞書的に理解されるに至ったのだと考えられる。タイムラインには自分でフォローしたひとのツイートが主に表示され、そこにはそのひとの関心や背景が色濃く表れるため、これはひとびとの関心や背景の重ならなさ、他者と切り離された断片性を明らかにしている。

つまりここで言いたいのは、Twitterが示しているのはひとつひとつのツイートの断片性だけでなく、ひとが有している背景の個別性だということだ。もちろんそれは当たり前のことなのだけれど、日常的にそうしたコンテクストの個別性を暴露し続ける機能をもっているのはTwitterくらいなのではないだろうか。

いまや生活に密接に結びついた、メッセージアプリやTwitterについてのこれまでの分析では、費やされる時間や言葉の量の減少という断片化、一人ひとり異なる文脈を持つという断片化の暴露のふたつを平成の特徴として示した。これらを最もよく表しているポップカルチャー的作品とはなにかと考えると、それは「未来のミライ」である。以下ネタバレの可能性があるので未鑑賞の方は注意されたい。

「未来のミライ」のあらすじは次のようなものだ。四歳の「くんちゃん」は妹の「ミライちゃん」が生まれたことで両親の注目を失ったことに不満を抱くが、家の庭を通して、人間の姿をした飼い犬の「ゆっこ」や高校生になった妹の「ミライちゃん」と出会い、時空を超えて過去の母親や祖父と出会い、最後には未来の東京駅で「兄」という役割や家族の連綿と続く系図を自覚して、成長を遂げるというものだ。

まず特徴的なのは、「くんちゃん」が現実世界で困難にぶつかったとき、庭を通して「くんちゃん」は不思議な出会いを果たすということだ。たとえば最初に両親が「ミライちゃん」を連れて帰ってきたとき、「くんちゃん」は相手にしてもらえないことに怒るが、庭に出るとお城のような空間が現れ、犬の「ゆっこ」が人間の姿になって登場する。ここでは、庭の空間が一部異空間に変わるのだが、まだ実際の家と地続きである。その証拠に、「ゆっこ」のしっぽを身につけて犬になった「くんちゃん」は家に駆け戻っていく。

次に「くんちゃん」が父親に相手にされないことをきっかけにして出会うのは、高校生になった「ミライちゃん」だ。このときも「くんちゃん」は庭と地続きな異空間、植物が茂った空間で出会いをはたす。

あと三回「くんちゃん」は不思議なトリップをするのだが、そこで登場する空間やそこで関わるキャラクターは変化していき、いっけんしてオムニバス的な印象を抱く。それこそがひとつめの断片化、ひとつのエピソードに費やされる時間や言葉の量の減少という断片化だ。もちろんそれだけならば「未来のミライ」でなくてもよく、なにか小説の短編集とかでもよかった。しかしそれだけではないのである。続けてみていこう。

いままでの二つは庭に別の空間が侵食してくるタイプだったが、次は「くんちゃん」が時空を超える。母親に怒られたことをきっかけとして、まずは小さいころの母に会うことになるのだが、彼女が「くんちゃん」の家の庭にくるのではなく、「くんちゃん」が小さいころの母の世界へ行き、そこで小さいころの母もまた怒られてきたのだということを知る。ここで起きるのはキャラの見た目の変化と時間の巻き戻り、別空間への移動だ。これは前ふたつの不思議な出会いで起こった変化が、キャラの見た目の変化と現実と地続きな異空間の登場であることと比べると、より大きな変化が起きているといえる。

次に出会うのは曾祖父だ。ここでは自転車に乗れない「くんちゃん」が曾祖父の世界へ行き、一緒にバイクに乗ることで自転車への恐怖心を克服する。このとき曾祖父が「くんちゃん」の父親の面影を持っているとされていることが、ひとつまえのトリップが母親の方向へのものだったことと呼応している。つまりここではキャラの見た目の変化と時間の巻き戻りが母親のときよりも大幅なものになり(父親が二世代前の姿になる)、別空間に「くんちゃん」は移動する。

これら四回のトリップでは、「くんちゃん」は現実の姿ではない家族とそれぞれ出会って現実の困難を克服するのだが、それらがエピソード的な語られ方をすることで、さらにみてきたように変化のしかたが少しずつずれていくことで、断片性を持つようになっている。しかしさきほどそれだけではないと言った。どういうことかというと、それらの断片があからさまと言ってもいいほど鮮明に家族という文脈を作り、「くんちゃん」をそのうえに位置付ける。と同時に、それまでの家族の歴史を「ミライちゃん」が説明して「くんちゃん」に自覚させていくことで、彼自身がひとつの歴史的存在になるように描く。そしてその家族の歴史は「くんちゃん」だけのものであり、つまりこれは、個人の歴史は唯一であるという文脈の固有性の暴露だ。

具体的には最後のトリップが問題になる。家族四人でレジャーに出かけるとき、お気に入りのズボンが洗濯中で履けなかったために「くんちゃん」は拗ねてしまう。これがきっかけで未来の東京駅に行くことになるが、そこで「くんちゃん」は迷子になってしまい、「ミライちゃん」の兄という自覚を持つことでしか脱出することはできない。兄であるという自覚を抱くと、高校生の「ミライちゃん」が空からやってきて空へと「くんちゃん」を連れていく。飛んでいる間、高校生の「ミライちゃん」は「くんちゃん」に対して家族の歴史の説明をする。もし曾祖父が戦争から帰って来れていなかったら、あるいは曾祖父と曾祖母が夫婦になっていなかったら、「くんちゃん」も「ミライちゃん」もいまここにはいないのだという風に。

もちろんこうしたことが婚姻による「家族」という人為的な制度をただ肯定するだけのものだということは確かだが、本稿の目的はそれを批判することではなく、「家族」を利用して描かれた個人の歴史の固有性について述べることにあるのでいまはおいておく。

最後のトリップでは、モブキャラも含めると新キャラが無数にでてくるし、東京駅とはいえ未来であり迷子になってしまうため、時間が進むと同時に空間的には不気味さが増すことになっている。これまでのトリップと比べるとより異世界感の強い変化が生じている。このトリップもまたエピソードという断片なのだが、さきほど述べたように高校生の「ミライちゃん」が「くんちゃん」を連れて空を飛んでいるときに家族の歴史を説明することにより、「くんちゃん」は確実に、自分に固有の家族の歴史を自覚するに至り、そのコンテクストを背負うようになる。この最後のトリップでは、「くんちゃん」が持つ背景が他のひととは重ならないこと、その断片性が明らかになる。ちなみに「くんちゃん」の歴史は「ミライちゃん」と同じものではない。なぜなら、「くんちゃん」は「ミライちゃん」という妹を持つが「ミライちゃん」は「くんちゃん」という兄を持つことになるからだ。

まとめると、平成とは断片の時代であり、人々のもつ文脈の固有性、つまり他者の文脈との同じにならなさ、断片性が暴露される時代である。そのことをもっともよく表している作品は「未来のミライ」であり、そこでは断片的にエピソードが語られ、「くんちゃん」という存在が持つ、家族の歴史という文脈の固有性、断片性が明らかにされる。平成が終わろうとしている2018年に公開された「未来のミライ」には、平成を描き出す試みがあったといっていいだろう。

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