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過ぎ去っていった言葉たち

書店に行くと多くの本が並んでいる。その中には、日本の古典を現代語訳したものや、海外の本を日本語訳したものがある。そういえば一時期よく見たのは、日本国憲法を口語訳した本だ。これはきっとその時期に、わかりやすく憲法を読むことへの要求があったからよく見かけたのだろう。日本の古典も、もちろん外国語の作品も、現代の日本語で読めるならそちらの方がわかりやすい。けれどもちろん、ある文章を日本語に訳すことは、わかりやすさだけを求めて行われるわけではない。翻訳は単にオリジナル作品をわかりやすく紹介するだけのものではないのだ。

日本語の言文一致運動は二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳に大きく影響を受けた、とはよく知られている通りだが、つまりこれが示しているのは、文章そのものに与える翻訳の影響だ。単語レベルで言えば、明治期にはヨーロッパの言葉を和製漢語に直すという努力が行われた。その結果誕生したのが哲学とか芸術といった、今もなお使われ続けている単語だ。翻訳がもたらすのは、ある作品の内容だけではないのだ。

しかしすべてが明治のままというわけにはいかない。試しに言文一致体の例として明治の代表的(すぎる)作家、夏目漱石の「坊ちゃん」から一文を引いてみる。

小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。

有名な部分だけど、いま読んでみると多少の違和感を持たないでもない。単に文体としてみても、更新され続けた文体のフロンティアにいるわたし達にとっては、すんなり受け入れるわけにはいかない。文体という文学的なものを離れてみても、当時の言葉遣いがそのまま現代に通用しないというのは当然と言える。単語の段階に目を向けてみれば、先ほど例に挙げた和製漢語にしても、生き残っている何語かの背後には無数の姿を消していった単語たちがいることだろう。

それが時代の流れなのだと言われればそうだけど、しかし問題はもう少し複雑なのではないか。小林秀雄は「無常という事」において、過去を現在と地続きではない一つの、動かし難いものとして提示した。その対照としてこそ現在を無常なるものと捉えることができるようになる。言語に引き付けていえば、現在の言葉遣いはたちまち過去にすぎさって、動かし難く凍りついていくしかない。いわゆる流行語や、遠いところで言えば古文を思い出してもらえればいいだろう。

しかしその凍りついた言葉たちを電子レンジ的に、咀嚼しやすい形にするものがある。

源氏物語というテクストがある。わたし達はその気になれば、それを谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴や、その他たくさんの現代語訳で読むことができる。もし日本語で読むことが嫌なら、英語でもフランス語でも読める。そしてもちろん古文のままでも読むことができる。こうして並べてみると、いったいどういうことだろうと不思議になってくる。千年も前に著された(しかも読者によっては海外の)物語を、なぜひとはそうまでして読むのか。それはもちろん当時の文化背景や精神のありかたを読みたいという事なのだろう。

ただ、文化背景は科学技術の進歩とともにさまざまに変わっていくということはその通りにしても、精神のあり方はどうだろう。しばしば揶揄されるように、源氏物語は結局のところ恋愛模様が中心で、いわばその大黒柱を中心に物語がなっている。そして恋愛とはひとの心がなにかに向かっていく作用なのであって、これはかなり根源的なものだ。なにものにも向かっていかない人生なんて想像すらできない。あらゆるものは少なくとも、終わりに向かっていく。物語の土台には、「なにかに向かっていくこと」がじっと横たわっているのだ。

別に話を源氏物語に限らなくてもいい。海外文学にせよ現代文学にせよ、人間の姿を描くものとなれば、その一番深いところには「なにかに向かっていく」ことがそっと置かれている。

翻訳とは結局のところ、はるか昔から現在の様々な地域に至るまで、変わらない人間の姿を見せ続けるための手段だ。逆に言えば、ひとは変わらない人間の姿を見たいがために何年も前に書かれた、あるいは外国の文章を読むのだろう。

しかし根底に変わらないものがあるとはいえ、時間の流れは否応なく言語を古びさせていく。ある程度時間が経過した文章には今から見ると古びた、あるいは陳腐な表現があることだろう。もちろんこれは翻訳によって、飲み込みやすい表現に変えることができる。いやむしろ、オリジナルテクストという確かな盾があるので、翻訳文学においては、表現を時代に合わせて更新しながら古典的な物語を語ることが受け入れられやすい。いまでも古典的な名作と呼ばれる作品は新訳がでているし、その多くは大抵の書店で買う事ができる。

さきほど、翻訳は変わらない人間の姿を見せるものだと言った。しかしそれとは逆に、表現のレベルでは、変わり続ける言葉に合わせて自在に姿を変える。ここではある種のねじれが生じているのだけれど、わたしはこのねじれこそが人間のひとつの条件のような気がしている。根底では変わらないものを抱えながら、時間とともに変化していく。それを実践的に示しているという点でも、翻訳とは文学的な行為なのだろう。

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