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寄る辺のなさをあきらめる

非常に私的なことで申し訳ないのだけれども、わたしは言葉というものがわからない。日常生活に不便がないほどには使えるが、たとえばなぜリンゴはそう呼ばれなければならないのかとか考え始めると、途方に暮れてしまう。いや、あらゆる言葉に語源があることや、意味するものと意味されるものの間の関係なんかに対して様々に研究が行われていることは知っている。しかし実感として、こんなに無根拠なものを振り回してなにになるのだろうか、と思ってしまうのだ。

そこで高橋源一郎の小説、たとえば「優雅で感傷的な日本野球」を読んでみると、この作家も同じように考えていたんじゃないかと思える。少し煩雑になるけれど、要約しながらみていこう。この作品は七つの章からなっていて、第一章では「わたし」(のちに元阪神の選手、「ランディ・バース」だとわかる)と「リッチー」(のちに「リッチー・ゲイル」だとわかる)が「少年」に、野球について書かれたとされる文章を教える。『テキサス・ガンマンズ対アングリー・ハングリー・インディアンズ』という、最初の十章しか残っていなかった本がそれだが、しかし、どう読んでも「ガン・マン」たちの風俗模様をしか描いていない。この時点で「野球」という言葉とそれが意味するものとの関係が崩れている。早くも言葉の無根拠さが暴露されている。もう少し見てみよう。第二章では成績は悪いがスランプではないと信じているとバッターと成績はいいがスランプだと信じているピッチャーが出てくる。彼らは過剰に「野球」に意味を見出そうとしている点で共通していて、カントやらライプニッツを持ち出してまで「野球」を理解しようとする。第三章ではだれも「野球」を知らないなかで「伯父」だけが知っていて、「ぼく」に教えようとする。そして第一章で出てきた「わたし」のもとへ「野球」を教わりに行く。ここで「わたし」と「リッチー」の名前が「ランディ・バース」と「リッチー・ゲイル」だと判明する。

第四章では精神病院で神話的に「日本野球」の話をする「監督」が描かれる。その話というのが、ものすごく要約すると「ネケレケセマッタ」という神のひとりが「日本野球」してあらゆるものを「削除」やら「取り消し」やらするというもの。もちろん、「監督」が言っているようにこの「話にとりたてて意味など」なく、ほとんどでたらめのでっちあげだ。でもわたしは最もこの章に興味を惹かれた。次の章からはかなり風呂敷を畳んで整合性をとって物語世界を完結させようとしていく感じがするのだけど、まんなかに位置するこの章は、前章までの意味の分からなさと整合性の両方を含んでいる。

さきほどの「日本野球」の神話が語られると同時に、「監督」がいるのは精神病院だと、そこで働く女性の手紙が挿入されることによって明かされる。この章では内容の無意味さと場所の現実感の釣り合いがとれている。精神病院でならどんな会話が交わされていようとありえそうだ。物語に整合性が漂い始める。のちに述べるが、この「監督」とは元阪神の監督「吉田義男」で、「野球」を見失った結果精神病院に収容された。「野球」を見失った監督が、ほとんど意味のない言葉を並べて「野球」を語ろうとする。ここでは言葉とそれが意味するものの関係が失われていて、その意味不明さになんだかよくわからないまま笑ってしまったりするのだけど、ふと自分の言葉はどうかと考えたら背筋の凍る思いがする。この第四章が良いのは、作品世界の整合性を演出しつつ、言葉の無根拠さを暴露しているところにある。

第五章では第一章の『テキサス・ガンマンズ対アングリー・ハングリー・インディアンズ』が本当に野球の話だったと判明する。第六章では、『野球博物誌』という、第一章で言及された『博物誌』という作品を連想させる小説を書く男や、第四章の最後で言及される「少しずつ大きくなっていく正体不明の物体を撤去しようとした男や(中略)スターティング・メンバーを芸術的に読み上げるたち」(傍点原文)が出てくる。彼ら彼女らはみなスタジアムに集っているが、「試合はまだ始まらない」。第七章では1985年、阪神タイガースの選手たちは優勝目前まで行くが、自分たちがやっているのがほんとうに野球なのかどうかを見失ってしまい、姿を消す。第一章の「リッチー・ゲイル」と「ランディ・バース」はもと阪神の選手だったり、第四章の「監督」がおそらく阪神の監督の「吉田義男」だったり、といったことが判明する。種明かし的に各章がつながっていくわけだ。最後まで読むと、作品世界がしっかり完結していることがわかる。

どこかにあるはずの、失ってしまった「野球」を求める元タイガースの選手たち。とても寓話的であらゆる喪失体験として読めそうにも思えるけれども、「ランディ・バース」が野球についての言葉を集めることが割合的に多く描かれていることや、「」が意味のない言葉を選手名として読み上げてはまったく「馬鹿そのもの」だと感じる印象的なシーンなどから、やはり意味を失った言葉についての作品だと考えられる。

これらの分析から引き出せるキーワードは、言葉の意味の喪失と、にもかかわらずある程度整然とした作品の構築だ。

一作品を取り上げて見てみたとはいえ、こうした特徴は高橋作品にとっては一般的な傾向だろう。ならばそれをメインの主題に据えていない小説作品からは、彼のより深い部分が読み取れるのではないか。そこで、次は彼の初の児童文学『ゆっくりおやすみ、樹の下で』を取り上げてみたい。それによって高橋作品への理解を深められるはずだ。

あらすじはこうだ。可愛がられて育った十一歳の「ミレイ」とそのぬいぐるみ「ビーちゃん」は夏休み、祖母の「バーバ」の家である「さるすべりの館」で暮らすことになる。そこで老犬の「リング」の散歩中や、深夜止まったはずの時計が動き出したころに「赤い部屋」でタイムスリップする。「赤の部屋」では曾祖母の「大バーバ」、「ミサト」が若いころの姿で「ミレイ」と「ビーちゃん」を待っていた。「ミサト」が息を引き取って「ミレイ」が現在に戻ってくると時計は粉々に割れてしまい、もう別の世界への扉は閉ざされてしまう。

読み取りやすいのは、記憶に関する問題意識だ。「バーバ」が肖像画を描くのはもう死んでしまったひとだけだという事からもよくわかる。しかし、記憶とはなにかといえば、失われてしまったものを再び(断片的にではあれ)存在させることだ。その意味で喪失の問題と関りが深くて、高橋小説の別側面を照らし出すには弱い。

そこで、喋るクマのぬいぐるみ「ビーちゃん」と、タイムスリップという二つの設定の間のギャップについて考えてみたい。ぬいぐるみが喋ることとタイムスリップすることはどちらも超現実的なできごとだ。しかし小説内において、「ビーちゃん」とタイムスリップは別の扱いを受けている。

第三章で、「実は、ぬいぐるみはしゃべるんです」「ぬいぐるみは、絶対にしゃべるんです」とあるように、この世界ではぬいぐるみが喋ることはいわば前提のような扱いを受けている。それに対してタイムスリップすることはどうだろうか。初めてタイムスリップしたあとの「ビーちゃん」と「ミレイ」の会話は次のようなものだ。

「『あれ』は、なんだったのかしら?」

「いや、驚きましたねえ」

敬語の方が「ビーちゃん」なのだけど、どうだろう、喋るぬいぐるみが驚いている。タイムスリップすることは、この世界においても当たり前の前提ではないのだ。

何が言いたいのかというと、この作品世界の現実は三重底になっているということだ。もっとも超現実なのはタイムスリップ。読者にとっても作中人物にとっても驚くべきこと。次に超現実なのはぬいぐるみが喋ること。読者だけにとって驚くべきこと。もっとも現実的なのは(言うまでもないことだが)リアリズム的な描写。これは読者、作中人物両方に共有され、小説のベースになっている。

この三重底というキーワードの抽出は、新たな角度から高橋作品を掘り下げることを可能にするかもしれない。前半の方で触れたように、高橋源一郎の小説の特徴は、意味を失った言葉とある程度きちんと構築された作品世界だ。ここでひとつ問題提起をしてみたい。小説は言語芸術だが、意味を失った言葉を使って、ある程度であっても整然と小説世界を構築し、描くことはできるのだろうか?

普通であればできないだろう。しかしここで三重底というキーワードを適用することで、それは可能になる。もっとも意味を失った言葉がある。それは例えば「優雅で感傷的な日本野球」における「野球」だ。小説世界内でも読者にとっても意味はわからない。次に意味を失った言葉がある。「優雅で感傷的な日本野球」において、カフカが書いたという文章が一例となる。少し長いので中略して引いてみる。

 ブルームフェルトはボールのほうへ身をかがめて、さらによく観察してみる。まぎれもなく、ありふれたセルロイドのボールで(中略)しかるに、だれかが(だれであってもかまわないが)このひっそりとした秘密の生活のなかに、こんなおかしなボールを二つも忍びこませてよこしたのだ。(中略引用者)

この文章に「ランディ・バース」は「野球」を見出すのだが、読者にはまったくわからない。「ボール」が二つあることから真の「野球」と偽の「野球」を象徴すると言えなくもないが、それにしても一読して確信を持てるほどの説得力はない。作中人物のみがわかる。もっとも意味を失っていないのは、小説をつづる言葉だ。作品世界はきちんと閉じられ、意味が通るようになっている。その完結した世界のうえで意味のない言葉が操られる。

みてきたように、完全に合理的なものを基盤にして、非合理なものを二段階にわけて描いていくことが高橋作品の源流にあるように思える。そしてそれは、言葉の寄る辺なさをどれだけ意識しても、根底では合理的なものへの無根拠な信頼に帰らざるを得ないという一つのあきらめなのだ。

 

参考・引用文献

「小説の読み方、書き方、訳し方」柴田元幸、高橋源一郎(河出書房新社)

「優雅で感傷的な日本野球」高橋源一郎(河出書房新社)

「ゆっくりおやすみ、樹の下で」高橋源一郎(朝日新聞出版)

「カフカ短編集」フランツ・カフカ 池内紀編訳(岩波書店)

文字数:4214

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