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青春のごたまぜ(仮)

■はじめに

言わぬが花だの人生で批評家ほど滑稽な存在はないだろう。だが、彼らの存在しない世界は淋しいものである。作家の価値は死んだときに読まれる追悼文に賭けられるというが、的外れな意見を述べられるときほど憎らしいものはない。

僕は絵と文章を書く三十手前の男であるが、美術史に奉仕する美術家でもなければ、文学界の消息を伝える通信員のような(職業)批評家でもない。自己規定の連続性を持たない何者でもない男である。強いて言えば、「自画像作家」と名乗るうぬぼれた男であるが、それは社会的な文脈で何か価値を持つものでもない。役に立たない存在である。

人生は短い。寿命であれ、情熱であれ、運と性格が世を支配すると言えど、何かに忙殺されたまま絶命を望むものもいれば、無に全てを賭けることに美徳を見い出すものもいる。人生観はさまざまだ。ひとが批評を読むのは、おそらく人生をふと点検したくなるときだろう。ひとは完璧な絶望のうちで本を読むことなどないし、百冊の本を読むよりかは誰かと恋でもするほうがよっぽど人生には有益である。むしろ恋人に殺されたいと願うほどの気力がないときにひとは言葉を必要とするのだ。

便器に向日葵の種を詰め込んで-糞尿だけで花を咲かせる空想を僕は用意したい。青春の終わりに-青春が青い理由-を知ることは、せめて書くことでしか成就できない。ひとは青春を二度生きることができるのか、許されるならば、読者のあなたにそれを確認していただきたい。もちろん「青春は存在しない」などと(自分自身を説き伏せるために)嘯く三流詩人の真似はしない。破られるために存在する約束があると言えども。

■震災と大学生

僕が大学に入学したのは2010年の春だった。入学式のあとの学生証交付の列に並んでいた男と出会うことで僕の学生生活ははじまったように思う。彼の名前は「斎藤」といい僕と同じ哲学科の学生であった。僕の前に並んでいた斎藤は僕よりも少し背の高い痩せた男で、話せば節操のないほど関心事のおおい男であった。

斎藤はその日、美術に関心があるといい、そのまま美術クラブに顔を出すことになった。新入生歓迎期間がはじまる前だったためサークル勧誘活動はまだはじまっておらず、斎藤と僕が美術サークルの会室をノックすると、意表を突かれた顔をしながらも「よく来た」と歓迎してくれる退廃的な大学生がいた。彼の名前は「園崎」といい、「バーニングマン」などの奇祭に参加するヒッピーな哲学科の先輩であった。彼の卒論はニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』でもあった。会室での会話はそこそこに見せたい場所があると案内された場所があった。サークル棟地下にある美術クラブが所有するアトリエであった。螺旋階段を降りるときに園崎が「Welcome to underground.」と言ったことを僕はよく覚えている。彼はそういう男でもあった。宮崎吾朗の映画『コクリコ坂から』に登場する「カルチェラタン」に似た「ホコリは文化だ」と言わんばかりの場所がそこにはあった。演劇団体が絶えず奇声をあげ、バイク愛好会の連中がふかす排気の臭いが充満する共有空間であった。その日は「花田」という大学の偏差値に似合わぬ直観と明晰さに富んだ男とも雑談をし、物が不自然に並んだ一人暮らしのアパートに帰るのだった…【続く】

■水平性の打破、あるいは新しい秩序への懸念

数年前にブラジルで開催されたある学会で「カースト制度の再検討」が議論されたという。詳しい事情は知らないのであくまで推測でしかないのだけれど、フラット化する世界情勢に対する秩序としての「カースト制度の再検討」であるならば、(安易かつ早計ではあるが)未来の雲行きが怪しくなってきたと言わざるを得ない。

キルケゴールが指摘した「水平化」の病は、個人の存在を圧し潰すものであったが、社会体制をピラミッドにすることで個人の存在が回復するようには思えないのだ。生存のために存在を放棄する-古来の処世訓を思えば、実存主義もまた何かの病であることは否定しがたい。水平性の悪口ばかりを書き連ね、垂直性を擁護してきた僕ではあるけれど…【続く】

■自殺について

理性は自殺を否定しない。ならば、どうしてひとは理性によって必ずしも自殺をしないのか?それは人格/幻想/時間意識の書き換えが生じるからで、そのゆらぎが死を忘れさせる、それゆえ、せいぜい数十年の人生で適度に変質することでひとは生きることが許されている、それが僕が語りうる理性の限界である。僕はしばしば葬式に来るであろう友人の顔を思い浮かべることで死をめぐる思考を帰結してきた…【続く】

■学生生活のごたまぜ/ノスタルジーについて

三島由紀夫は「貧乏と退屈」が青春の敵だと言っていたが、僕が思うに、青年を悩ませるのは、人間という生き物が思っていたよりもずっと馬鹿で貧弱だったことだ。ひどい思考停止と無垢な付和雷同、正義と怒りの組み合わせ、俗物に理性が混ざること、がとても厄介なのである。
加えて、「自分に同情するな」と、友人と何度も観た映画の脇役が僕らに忠告する程度には学生とはナイーブな生き物であった。
すべて人間の抱えるそうした宿命的事実を知ることで青年は生きた心地を苦くも味わう。そして、青春が青い理由をしらない青年が、数十年先に回顧することでしか価値を見い出せない類もあるだろう。

アルバム「学生生活のごたまぜ」が
いつか輝きを放つときを願う。

人は反復によって慰み、
回顧によって救済されうる。

『学生生活のごたまぜ』(2014年3月制作)より

僕が青春において獲得した唯一の哲学的直観は「人は反復によって慰み、回顧によって救済されうる」であった。他は受け売りに過ぎない。『学生生活のごたまぜ』は、震災以後、急速に失われつつある大学の牧歌的風景と学生の退廃的な心情を保存し記憶するために制作した写真集である。時代が変わることの変わらなさを僕は痛感するわけで…【続く】

文字数:2433

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