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平成の終わりに

■批評の不毛

学生時代を振り返ってみれば、思想や哲学に居場所がないことを確認するばかりであった。2ちゃんねる的な対話の困難とTwitter的な圧縮表現の必要が、2010年代前半に学生時代を過ごした僕の素朴な実感でもあった。

学生時代、誰かとする批評的な対話は「それは君の主観に過ぎない」でかわされることが多かった。端的にキルケゴールの受け売りを言ったところで「それはキルケゴールの主観に過ぎない」と言われる不毛があった。もちろん、主観とはなにかを尋ねることは得策ではなかった。2ちゃんねるの影響かどうかはわからないけれど、対話など不可能であり不要にも思える時期を過ごしたのだった。そんな時代背景もあってか、読書会なるものに顔を出せば、何を整理したのかさっぱりわからないプリントが配られ、用意周到に(あるいは単純に)要領を得ない長話を聞かされるばかりだった。それにみな満足顔で、怪訝な顔をしていれば、ノリが悪いか/体調が悪いと思われるだけで、彼/彼女が本当にその本を読んだのか不思議でならなかった。もしかすれば、読書家的な彼らと肌が合わなかっただけかもしれないが。それゆえ、もっぱら哲学や思想の吸収は、女の子を口説くか/苦言を呈するかに活路を見出すほかなかった。そこで重要だったのが、Twitter的な140文字程度の言説の圧縮である。手短に言えば、(よい)圧縮表現は相手に思考の余地を残し、即答を難しくさせる。「それは君の主観に過ぎない」の即答を回避する手段でもあった。なにかを相手に言わせたくなるような言葉を呟けるかが、何かを語りだす前に必要な対話の作法だったのだ。

ざっくばらんに書いてはみたけれど、若者にとって「思考」は贅沢品なのかもしれない。ショーペンハウエルよろしく「若者は詩に励み、老人は考える」ことが、時代を問わず言葉と人生を生きる鉄則のようにも思える。詩を忘れた若者に思考する老後はあるのだろうか。平成の終わりに僕はよく思うのだった。

■インターネット以前/以後

僕がインターネットを体感したのは、高校時代に僕が書いた携帯小説を読んだという群馬か三重か東京に住む女の子から電話が掛かってきたときだった。なにを話したかは全く覚えていないが、見知らぬ誰かが僕の書いた文章を読み、電話で連絡をしてくれたことに新鮮な衝撃を覚えたのだった。いまでは読むに堪えない日記のような文章だったと思うが、見知らぬ誰かと不意に繋がるよろこびは大きかった。思えば、小学生の頃に自宅の電話線を抜いてダイヤルアップ接続をしたこともあったけれど、実に味気ないものだった。見知らぬ土地に旅行して、空港近くのホテルから一歩も外に出ないような体験であった。裏返せば、僕は人間にしか興味のない人間なのかもしれないが、インターネットの魅力は「いいね」や「RT」を競う量的で公開的なスポーツだけではなくて、クソリプ的なネット空間に閉じない-非公開の営みにあったように思う。言い換えれば、開拓され尽くした場所に規格外の獲物は姿を現さないのだという凡庸な結論ではあるのだけれど、古本屋で山野一『混沌大陸パンゲア』を発見するような直感が、最適化されたネット空間では力を失うのであった。(※山野一『混沌大陸パンゲア』は、人心が荒廃し貧困化した「あらゆる害悪がはびこる」日本社会を露悪的に描いた1993年刊行の異色の怪作漫画である。8年ぶりに読み返してみると、インターネット登場以前の日本の未来予想図が描かれ、情報社会の到来が致命的な破局を(ブラフに)回避させたのではないか、そんな実感が沸いてくる作品であった。「平成」が文字どおり水平化を意味する時代であったのならば、独創的で驚異的で垂直的な世界観を固持した平成の記念碑的作品だともいえる。感受性や人生観が均質化し、起伏のない人生が流行している時代にあっては、時代精神を壊す作品が貴重にも思える。あるいは、厭世哲学からいえば、幸福を語る連中は[詐欺師か/頭が悪いか]が相場であるが、STAP細胞騒動(真偽不明)やサブリース問題など、不老不死やマルチ商法が世の中を賑わせているなかで、幸福を語らない詐欺師が必要なのかもしれない。)

■平成と死

死を考えるとき、葬式を思うことがある。僕はしばしば自分の葬式に来るであろう友人の顔を思い浮かべることで、死をめぐる思考を帰結してきた。死んだら葬式に来てくれよと前に一度だけ言ったけれど、冗談なので忘れてほしい。死の告白は愛の告白に似ている。

長引く経済不況と少子高齢化の影響で、平成の終わりを生きる若者にとって、(結婚式よりも)葬式に出席する回数が多くなってきた。何年か前から「直葬」や「終活」という言葉が目立つようになってきたけれど、死の混迷は生の混迷に転化している。わたしが死んでも、生き残る誰かがわたしを覚えている限り、わたしは世界に少しだけ留まる、そんな死生観が急速に薄れつつあるように思う。ひとは認識のなかで命を宿してきたのではなかっただろうか。結婚も葬式も贅沢になった社会のなかで、生と死を問うことは不安と面倒を煽るだけなのかもしれないが、あたかも死んだように振舞う高潔さに耐えられないのであれば、俗物と言われようと最後の日を考えずにはいられないだろう。世界を言葉でかき混ぜることの悪癖に辟易しながらも、生の貧しさはやむを得ず世界を濁らせてしまう。

現実的には地域社会や人間関係の希薄化などによって、葬式を何のためにやるのか、よくわからなくなってきた節がある。裏返せば、人間関係が葬式の意味と価値を規定している。名もなき死は-認識の外で-悲しくも懐かしくもなく存在している。

※経済的コストから言えば、葬式は(贅沢というよりも)むしろ安価になりつつある。ある記事によれば、少子高齢化がもたらした多死社会の到来は、火葬場の不足など問題を抱えつつも、企業が介入し提供するサービスによって、従来よりも「明朗会計」で安価な葬儀を選択できるようになったという。昭和的な家族体系が崩壊するなかで、経済合理性では対応しにくい墓の維持管理がセンシティブな問題として浮上している。墓が不要の時代になれば、夏の心霊特集は意味を喪失するのだろうか。何かが不要になり関連したイメージが喪失することは、「たまごっち」が「ソシャゲ」に進化したように、いつか別の仕方で再帰するのだろうか。

■回転寿司にみる文化

回転寿司の魅力は、川を泳ぐ魚を素手で捕まえて食べるような自由奔放な快楽にあった。レールの向こう側にいた寿司職人は-タッチパネルの注文システムに代わり、レールの曲がり角で脱線を起こしながらも踊るように流れていた寿司皿は-田植えのように一定間隔で流されている。平成の終わりにみる回転寿司の光景は牛丼屋と変わらないものになってしまった。退廃的であることで文化は力を熟成させてきたが、潔癖的であることで文化は力を喪失してきた。何かを批評する厄介は、対象の鮮度を奪ってしまうのではないかという疑念、対象は批評から逃げねばならぬ本能に駆られてきた点にある。誰かが「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」といった理由も忘れて、詩を書こうと言ってしまった僕は自分自身の愚かさを思うに至る。

文字数:2952

課題提出者一覧

  • 20821388kk
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  • 藤原 神護
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  • 藤川真規
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  • 花屋 淳
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  • 白石三太
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  • 汐里
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  • 山岡 星児
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  • 文乃 つき
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  • 鈴木 翔大
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  • カート・コ・バーン
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  • 尾﨑マヤ
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  • スズキナルヒロ
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