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扇風機とエアコン、あるいは幻想と微かな欲望

■機械は考えるか?-プロペラを忘れた人類は

機械文明の進展は人間の感性を鈍らせる。そんな古臭い予感を誰も口に出さなくなった現代の生活では、扇風機が姿を消し、エアコンが部屋の片隅で静かに稼働している。技術の運命に生活世界が巻き込まれ、機械万能主義に対抗する手立てがなんらかの精神主義でしかない時代の果てにあるものが、「機械は人間の道具に過ぎない」という精神主義でしかないのならば、機械の思考能力の限界は人間の思考能力の限界でしかないように思われる。扇風機のプロペラを懐古的に愛しく思いつつ、よくわからないが機能するエアコンに視線を向ければ、人工知能も同様にブラックボックス化した技術の視覚的隠蔽を愛せないでいる。それは単なる企業の経済合理的な措置に対する嫌疑でありながら、偶像崇拝を禁じることで獲得する不可視な神(あるいは数学的崇高)に対する愛憎半ばの感情を表明することでもある。ハンス・ブルーメンベルクが予見した”精密化学が記述する自然と技術の世界は、「表現型」としては多様であっても、「遺伝型」として同一構造を具えている”の先に、表現型の薄まりを予感せざるを得ないが、それは機械に対する人間の思考の敗北を知ることでもある。膨大な計算処理の前にチェスや囲碁の名人は敗北したが、それでもまだ人間が機械に敗北したと思わないでいられるのは、回転寿司チェーン店で接客をする人型ロボットに同情をおぼえるからかもしれない。機械が思考するとは何かを考える厄介は、そうした技術・宗教・視覚などの人間的な思考がプリズムに反射することに由来している。言い換えれば、人間の意識は「存在しないものを通過させ分散させる」性格だと定義付けることが許されるならば、(過去の記録を保持し続ける)機械の思考と意識は、如何にして幻想を獲得するかに賭けられているように思われる。それは芸術が人間の本質を顕すものだという信仰の裏返しにほかならないが、データの読み込み画面から連想が途絶えた風車の発明を(人間が)思い出すことであるようにも思われる。

■人間とアンドロイド

天井間際に掛けられたエアコンを素気ない絵画の代用品と見つめるか、壁の延長だと見なすかの趣味判断は、数学的崇高の浸透に対抗する精神主義ではあるが、同時にそれは機械がもたらす不可視な出来事に対する愛着表現でもある。人間の機械に対する親密さの表現は、身体との位置関係によって変化する。冷蔵庫、洗濯機、電子レンジに向かって飼い犬と同じように話しかけることもあれば、エアコンに対しては祈るか罵倒するかであり、身体に接触するパソコンや携帯電話に対しては親密さをどう解釈すればいいかわからないでいる。アンドロイド(人間型ロボット)に対する最初の感情はおそらくパソコンや携帯電話の延長として表明されるだろう。

吉浦康裕監督『イヴの時間 劇場版』は、「未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」を描写したアニメーション作品であるが、人間とアンドロイドの微妙な関係が絶妙に描かれている。人間とロボットの区別を禁止する喫茶店「イヴの時間」では、(家庭では隷属的に振舞う)アンドロイドが人間的に振舞うことで、人間とロボットの違いがわからなくなる。外見上の区別のため、アンドロイドは頭上にリングの点灯を義務付けられているが、喫茶店「イヴの時間」ではそれが消滅する(ため法律上グレーゾーンとして営業している)。手短に言えば、ルールを絶対遵守する人間型ロボットと合理性に耐えられない人間の不自由に妙なシンパシーを覚えてしまうところに本作の魅力が秘められているように思われる。要点だけ言えば、人間もロボットも何かを考えているようでいて-雑然と様々な現象を処理している姿に彼らの性格が読み解けず、ひとつのことを執拗に思い悩む青年に人間臭い性格を見つけることができるが、それが妙に滑稽な印象を与える。人間は人間であることに疲れる心情表現が絶妙なのである。(思い悩む青年を型に)言い換えれば、人間が考えるとは、(脱意識的な)偏狭と狂信への情熱に似ている。

■再び、機械は考えるか?

機械は考えるかといったときに、扇風機は考えるか、とは考えない。その場合、人工知能やビックデータといった計算技術の発明にひとは関心を寄せる。そこでは機械が人間を模倣する場合に、人間は機械を模倣するのかといった疑念が湧いてくる。竹とんぼが空に舞うのをみて、自分の身体を高速回転させて空に飛ぼうと考える人間はあまりいないが、天気予報が雨だと表示するなら傘を持って出かける人間はいる。乱暴ではあるけれど、人間は力学的発明よりも数学的発明を(盲目的に)信じる傾向に置かれている。仮に宗教(あるいは人間の思考)の条件が偏狭と狂信にあるとすれば、機械の(人間的)思考の条件は、機械が神を欲望するかに向けられる。機械は自らの故障や不能を恐れるのかと言い換えてもいい。そこで問題なのは、人間が強い幻想を覚えたとき、その証明が困難なように、機械が仮に神を獲得したとしても、それを誰が判断できるのかという点に尽きる。詭弁ではあるけれど、仮に人工知能が死を恐れないと判断すれば、人間は死を恐れずに済む日が来るのだろうか。人工知能がどれだけ時空間を圧縮するような速度を獲得したとしても、計算は求めた結果に過ぎず、経験したことは-理解したと思い込むに過ぎないのではないか。結論を手短に言えば、人間が定義する「考える」において、「考える」を構成する要素は持っているが、「考える」を駆動する内発的動機(あるいはプログラムされていない目的)を持っているようには-みえない。それはバグの発生を否定しない。もしかすれば、人間の遺伝情報をすべて仮想的に書き込めれば話は早いのかもしれないが。「機械は考えるか」を価値づけることは、僕にはむずかしい。だが、アンドロイドを愛してみたいという欲望は微かにある。

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