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資本主義と腕時計

a.<終わりなき平成>の憂鬱
ひとは<時>を愛するがゆえに「時間」を忘れる。未来であれ、過去であれ、<時>と関係することでひとは<生>を気配する。気ぜわしい現代的な生活は、ひとに<時>を忘れさせる。殺風景な「時間意識」が殺風景な「幻想」を抱かせ、殺風景な「人格」をつくる。回復不能な「人間」が回復不能な「関係」を抱き、回復不能な「社会」をつくる。「宗教としての資本主義」が風景なき「時間意識」をひとびとの精神に転写するのだとしたら、社会生活と生存の象徴としての「腕時計」を点検することが、忘れられた<時>を思い出すために語るべきことではないかと僕は思うのだ。突飛にも思われるかもしれないけれど、単純な幸福主義でも禁欲主義でもない<生>を享受するには、<生>を構成する「人格/幻想/時間意識」のなかで、時間意識の失調を幾ばくか癒すことが、通底する人格と幻想の強度の失墜を埋め合わせるのではないかと素朴に思うのだ。翻訳も同様に、読者の時間意識の失調が、翻訳者と原作者を失墜させる。もちろん、ひとの<生>を輪郭づける【記憶】は、プルーストよろしく、意志的であるよりも無意志的な偶然にゆだねられるのだけれど、「宗教としての資本主義」が活発であればあるほど、【記憶】の温存は難しくなる。理性的には破綻しているかもしれないけれど、読者と翻訳者と原作者が言語と時空を超えて交感するには、【記憶】の志向なしには不可能なのだ。言い換えれば、<生>も<時>も【記憶】もひとりの人間の運命にすべて含みこまれるわけではないのだ。読者であれ、翻訳者であれ、原作者であれ、<歴史>ともいうべき時間意識を思い出さないかぎりは、「翻訳」も「古典新訳」も存在しえないのだ。それゆえ、なぜ翻訳における「先取りの剽窃」が奇妙に思われるのか、資本主義と「腕時計」を起点に考えたい。

b.資本主義と腕時計
まず僕たちが思い出すべきは、ひとの<生>であれ<時>は「腕時計」の秒針や短針や長針のように律義に規則正しく右回りしないということだ。「腕時計」と同期する毎日の生活のなかで、あるいは昭和より続く「平成」的な社会生活のなかで、<時>の性格は狂わざるを得なかった。ベンヤミン「宗教としての資本主義」を偏訳すれば、資本主義はまぎれもない礼拝宗教であり、功利主義と関係した永続的な礼拝は、罪を引き起こすものであり、<神>は隠されねばならない。そこでは「資本主義の歴史的な前代未聞さは、この点、すなわち、宗教がもはや存在の改革ではなくなり、むしろ存在の破綻となるという点にある」とも指摘している。ベンヤミンはニーチェを引き合いに「超人とは、改心することなく到達した人間、天を突き破るまでに成長した歴史的な人間のことである」という「歴史的」という語にのみ<時>との関連を示唆するにとどまっているが、「宗教としての資本主義」における現代的な象徴は「腕時計」の礼拝、そのものにみえる。もちろん、社会システムは「腕時計」なしには機能しないし、「都民300万人が腕時計を多摩川に捨てるとき、新世紀の相補的怪物が出現するだろう」とか、でたらめな空想じみたことを語るわけにはいかないが、あまりに潔癖な「腕時計」を自己規定の基軸にすることは人格を漂白するだけだろう。「腕時計」が約束するのはシステムの時間に過ぎず、ある意味で、借定した「真」を約束するが「善」と「美」は必ずしも約束しない。「腕時計」の針を何度確認したところで、善く生きるとか、美しさはわからない。別の言い方をすれば、細心であることで損失は免れるかもしれないが、寛容とは無縁で争いを引き起こす性格を増長させるだけだ。翻訳に引きつけて言えば、なにより「善」や「美」を読者が希求しないのであれば、文学における行間は実在しないに等しく、翻訳者が単なる情報の伝達者に成り下がるのは自然でもある。それは資本主義社会の到来と並走するように出現した「公衆/大衆」的な精神と結びついている。その精神を支えるのが「新聞」といったジャーナリズムの発達であったわけだけど、その情報の諸原則は「目新しさ/短さ/わかりやすさ/個々のニュース相互の無関連性」にある。もちろん、ジャーナリズムを否定するわけではないけれど、テキストを読むことが「真」あるいは「目新しさ/短さ/わかりやすさ/相互の無関連性」に焦点を合わせる強迫神経症的な消費的読解を偏向しなければ、「先取りの剽窃」が奇妙に思われる現象は続いていくだろう。それは「生来のばかを思考型の人間にすることは望めない。断じて望めない」とショーペンハウエルが語るように、ある時期を過ぎてしまったら土台無理なのかもしれないけれど、それが「腕時計」的な社会の病理だとするならば、時間意識の上書き/フォルダ分けによる、ささやかな存在の改革は不可能なのだろかと思うのだ。いかにして時間意識の変調を獲得するか。それは【記憶】を思い出させる記述をすることにほかならない。

A.翻訳者と批評家
翻訳と原作を考えることは、言語と時空が持つ鮮度と熟成を考えることだ。翻訳と原作の関係は、文学作品である限り、それぞれの言語が持つ精神と経年変化の違いによって、同じ意味内容でも伝達に齟齬を生じてしまう。もちろん、翻訳者も創作者でなければ単なる翻訳機械と変わらないが、なにより原作(外語)と翻訳(母語)の言語精神の二重の経年変化が無意志的に読まれることに翻訳のひとつの価値がある。原作の記述は、時代が変わることでちからを失うこともあれば、時代が変わったことでかつて陳腐だと思われていたことばが輝くこともある。それゆえ、原作は熟成の永続性を希求できるが、翻訳は時空を超える言語の鮮度の純真性に腐心することになる。その関係は、作品と批評の関係にも似ている。平成生まれの僕は高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』と内田樹の解説「過激派的外傷あるいは義人とその受難」を平成の終わりに読むことで、そんな実感を持つことになった。端的に言えば、内田樹の解説を読むことなしには『ジョン・レノン対火星人』を読むことはできなかった。率直に言えば、『ジョン・レノン対火星人』を作中示唆する「偉大なポルノグラフィー」よろしく、1988年の刊行から30年経った2018年において『ジョン・レノン対火星人』のかつての輝きは喪失してしまったように思われた。言い換えれば、内田樹の解説が『ジョン・レノン対火星人』の作品寿命を恐ろしく延命している。それが批評家あるいは翻訳者の使命のひとつであるように思えたのだ。もし僕が『ジョン・レノン対火星人』の「平成」における作品の輝きを書き添えることが許されるなら、「すばらしい日本の戦争」が飲み込まれた「深淵」の性格である「潔癖」は<終わりなき平成>を暗示している。潔癖的な時代の精神は「名前」の強度を漂白させたし、ひとびとの人格を漂白している。少し強引かもしれないけれど、漂白された人格に幻想/文学は可能なのかと僕はよく考えるのだ。原作であれ、翻訳であれ、文学作品の成就は時代の精神に賭けられている。平成はそろそろ終わるけれど、ずるずると続くだろう<終わりなき平成>の潔癖さは文学の不幸に思われてならない。意志的な情報伝達に価値を認めるにしても、失墜する無意志的な行間にこそ【記憶】は宿っているのだから。

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