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Folklore(未完)―鴻池朋子『ハンターギャザラー』

大人になってから判明したことなのだが、私はADHD(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder)である。ADHDってなんですか?そのように聞かれたときには、まだるっこしい説明抜きに「『ドラえもん』ののび太くんみたいなやつです」と言っている。つまるところ、忘れっぽく、飽き性で、いいかげん、そしてナマケモノな奴。基本はそういう奴なわけだが、自分が面白いと思うことをみつけると、とことん追求してみたりもする。そんなところも、のび太っぽい。あいつは、ドラえもんの秘密道具のポテンシャルをとことん追求してみせる、それゆえに主人公でいられる。あと、いいやつなんですよね、のび太も私も、なかなか分かってもらえないが。

かねてから、このADHDという奴は狩猟採集で生活していたころの体質に先祖がえりしてしまったのではないかと考えている。たとえば、ナマケモノという特徴。私の心に住まう美しいケモノ、ナマケモノ、つまり勤勉ではないというのは、農耕ベースで社会が成立している現代では悪徳とされるわけだが、狩猟採集文化では必要不可欠な美徳だ。もし、勤勉に狩猟採集などしてしまったら、木から落ちたどんぐりの実は土に芽吹くことなく、荒野には被食者の死骸が累々とし、たちまちに生態系が崩れてしまうだろう。ほどほどがよいのだ。今日もADHD性質は、ケツに火が付くまで怠ける。これは戦いなのだ。

というわけで、鴻池朋子の『ハンターギャザラー』に行ってきた。

[離陸]

通過儀礼は[離陸→混沌→着陸]の3段階を辿ることがしられています。

というのは、宮台真司の『正義から享楽へ』に書かれていたことだが、なるほど現代美術の展覧会というのは、通過儀礼(イニシエーション)になり得るのだと『ハンターギャザラー』に赴いて分かった。

まず、離陸は会場である秋田県立近代美術館の装置によって演出される。入口1Fから、展覧会受付のある5Fまでを一直線につなぐエスカレーター。これが離陸の装置としてよく機能している。物理的にも、心理的にも私はゆっくりと持ち上げられて、高揚していく。そして、エスカレーターの終点、眼前に広がる光景が冒頭の<<皮緞帳>>と<<12人のホイト>>で飾られた受付だ。

受付で、展覧会についての注意を受ける。注意事項はたしか3つ。①写真は、最後の展示室を除いて可能 ②筆記用具はペン、シャーペンはダメだが鉛筆のみ持ち込み可能 ③作品に触れるのは、原則としてできない、というもの。鉛筆は、受付で用意してくれていて、借りることもできる。「どうして、最後の展示室は写真を撮ってはならないんだろう? 鉛筆持ち込んでいいけど、シャーペンはダメってセンター試験みたいだな」とか考えつつ、入場していく。

[赤スロープギャラリー/ファイヤーリム]

赤スロープギャラリーでは、とにかく作品に近づいて、まじまじと見つめた。「こういうことができる展覧会って、美術をやっている人にとっては、すごいことなのではないろうか」私は、作品を見つめながら、そんなことを考えていたように思う。近づいたらがっかりとか、そんなことまったくない。もう、いつまでも見ていたい筆跡とか造形とかがある。たとえば<<美術館ロッジ 舟>>に鉛筆で書かれた線。私は絵を書かないが、こうして写真で見直しても、トレースの欲望に駆られる。

 

 

キツネもいるし、リスもいる。

このキツネやリスのはく製は、鴻池の作品ではないのかもしれない。しかし、とても印象を残す。みつめる先には、ショッピングモールや会場のある横手市を覆う山々。

[第4展示室/ドリーム ハンティング グラウンズ]

第4展示室には、今回の展覧会で唯一触ることのできる作品<<ドリーム ハンティング グラウンズ カービング壁画>>がある。

それまで、禁止された触れるという行為は、この部屋に入ると許可される。私はシナビニヤでできた、その作品を存分に触る。

しっとりとした木の感触、そこに彫刻刀で刻まれたであろう様々な溝を指でなぞる。私の記憶は、小学校に飛ぶ。彫刻刀を使ったのは、版画の授業だっけか。私は、よく忘れて隣のクラスの友達のを借りたものだった。あのとき、彫刻刀にこんな可能性があるなんて思いもしなかった。こんなにも豊かな表現ができるツールだったのだ、彫刻刀は。こんな味わい方もあったのだ、木でできた作品は。おそらく、鴻池に仕組まれたであろう、その通過儀礼(イニシエーション)を受け入れる。

[第3展示室/山と墓と地図]

1つの通過儀礼を終え、次の部屋に赴く。左側の壁には<<美術館ロッジ 壁画>>で、正面奥には<<美術館ロッジ 映像>>、右ななめ前には<<ツキノワ夜空 インスタレーション>>という木枠で囲まれた作品群。

 

 

 

私は、右に進み、木枠にかけられた、毛皮を観る。

根源的暴力、鴻池がいつかの展覧会でテーマにした言葉だ。

人間がものをつくり生きていくということは、自然に背く行為であり根源的な暴力です

「たしかに、これは根源的暴力だ」木枠に無造作にかけられた、毛皮をみつめながら、何度もそのように思った。毛皮には、針と糸で、装飾がほどこされている。パッチワークはかわいい。だが、視点を変えれば、その毛皮には動物としての顔の痕跡が残されていて、私はなんともいえない感情を抱く。

私は、気づけば、[離陸]から[混沌]へと状態を移行していた。カワイイもコワイもキモチワルイもオソロシイも、あるいは新しいとか古いとか、それまではっきりと境界を保って、確かにゆるぎなかった言葉や価値観がぐじゅぐじゅと溶け始めていた。

<<やわらかいものを齧ってばかり インスタレーション>>

右<<カレワラ叙事詩>>

ダメダ。ギブアップ。体験に言葉がついていけない。

時間がない。

悔しいな。

白旗。

いつかリベンジしなきゃ。

色々ヒントがあった。

なんで、言葉も木枠で囲わなきゃいけないとか、結局、私にはわからず。

[第1展示室/物語るテーブルランナー]

着地の部屋。

唯一、写真による記録がゆるされていない。

刺しては縫うものがたり

このプロジェクトでは、私は、よくある記憶を記録する、残すという事にまったく興味がありません。只々、その場、その瞬間に消え去っていく人間の「ものがたり」に注目し続けるだけです。なぜなら、そこにこそ、今まで一度も注目されなかった人間という動物の、重要な芸術性が潜んでいると感じるからなのです。

そうか、だからこの部屋だけ、写真撮影はできないんだ。

みなさんはお弁当をもって集まり、テーブルを介して縫い方を教え合い、材料を交換し、口と手を忙しく動かし、にぎやかに制作。帰って独りになって制作することも重要でした。そうして布が縫い合わせられ、仕上がってゆくと、「語り」がいきいきと目の前のテーブルランナーという「物」として現れます。

この部屋で、私はもう一つのイニシエーションを終える。手芸という行為がもつ可能性と偉大さ、の再インストール。手を動かしながら、なにげなく語り、教え合い、私たちは共同体をかたちづくってきたのだ、という再度の気づき。

すべての人に、このイニシエーションを通ってほしい。もし、それがわがままであるならば、せめて、美術と医療と福祉の人には通ってほしいと思う。たくさんの人が老いて、死を迎えていくこれからの日本で求められること、がこの部屋にあった。それは「語り」の連鎖と、そこから生ずる「ものつくり」だ。

Folklore/フォークロアを、再び。

文字数:3016

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