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平成の終わりに暑かった夏に―クリュセの魚を

東浩紀は、『クォンタム・ファミリー』出版の際に小説家・高橋源一郎と対談をおこなっている。その対談で、高橋の「なぜ小説を書こうと思ったか」という問いかけに、東は「批評文では、読者に夢を見せることができない。だが、小説ではそれができると思った」と返答している。小説家・東浩紀が『クリュセの魚』で、見せたかった夢は何なのか。それが本論考の最終的な目的地だ。

本論考の構想は、平成の終わり、2018年7月にはじまった。7月、オウム真理教の教祖および元幹部6人の死刑が執行された。唐突に行われたそれは、まるで平成が店じまいをするにあたってあわてて負債を返しているかのようだった。マスコミ、知識人がにわかに沸き立ち、その是非を語った。そんな中、平成という一つの区切りがオウム事件によって象徴されてしまうのではないか、と危惧されていた。そのとき、素朴に、平成はオウム事件でまとめられてはいけないと思った。

私は昭和生まれだが、人生の大半を平成で過ごした。そのときを生きた人間として、いわゆる語り部として、平成をよく知らない人に伝える役割があるように感じている。それは勝手な使命感だ。はて、それはどこから生じているかと振り返ると、私を育てた祖母が随分と話をするのがうまかったからだと思う。彼女は、幾度となく昭和についての話をした。いつしか、私はほとんど知らない昭和をまるで生きたかのように、思い出せるようになった。もちろん、そうなったのは、祖母の語りによってだけではない。祖母の語る昭和に、昭和を舞台とした小説、映画、漫画、そのほか諸々から得られた物語をぺたぺたとくっつけて、虚構だがリアルな昭和ができた。

平成や昭和といった年号は、人為的に定められた区切りで、存在しない。いわば、それはキャラクターにつけられた固有名に過ぎない。しかし後に述べるが、漢字というものは顔のようなものであり、平成という2文字で私たちは1991年から2019年にかけてのおよそ28年にわたる時間を思い出すことになるであろう。

アルバムをめくる。顔写真がある。隣にその人を知る人間がいる。自然、私たちは、この写真に写っている顔の主がどのような人であったかを聞く。「ねえ、平成ってどんな時代だったの?」は、子供が今は亡き祖父母の写真を前に、親にたずねる質問と等価だ。親は祖父母の様々なエピソードを知っている。そこから、代表するエピソードを選ぶ。何を選ぶかによって、子供のその写真に対する感情は大きく左右される。もし、あなたが親であったなら子供にどのような話をするだろうか。

「ねえ、平成ってどんな時代だったの?」と問われたとき、私は次のように話を始めたいと思ったのだ。

平成の終わり、最後の夏は、うだるような暑さだった。そんなとき、私は一冊の本を読んでいた。その物語もまた、うだるような暑い夏から始まっていた。だからだろうか、その物語は平成がみた夢のように思えた。まず、その夢の話をしよう。私たちは夢をみて生きていくほうがよいのだから。


目次

Ⅰ. 麻理沙と栖花

  1. 表紙に描かれた少女と描いた大槻香奈
  2.  斎藤環『戦闘美少女の精神分析』/ファリック・マザーとファリック・ガール
  3. 麻理沙は哲学
  4. 栖花は住み処 あるいは オタク
  5. オタク再考
  6. 斎藤環/『文脈病』から

Ⅱ. 『クリュセの魚』と『虚無回廊』―小松左京との接続

  1. クリュセの魚と虚無回廊の冒頭の小さな黒い物体
  2. 虚無回廊で描かれた、転位
  3. 転位はキャラ/キャラクター、そしてデータベースの話

Ⅲ.『クリュセの魚』と『スター・レッド』―萩尾望都との接続

補. 東のみせた夢/私たちの帰る家あるいは棲息地



Ⅰ. 麻理沙と栖花

1.表紙に描かれた少女と描いた大槻香奈

『クリュセの魚』の顔といえる、表紙の読解から入りたい。表紙を描いたのは、美術作家・大槻香奈。『乳白の町』の展覧会を開いた際に、大槻香奈は、少女を描くときそのモチーフがもつ器・空虚さを表現したいと言っている。器・空虚さを持つ少女という話を聞いて、斎藤環の著作が思い出された

2.斎藤環『戦闘美少女の精神分析』/ファリック・マザーとファリック・ガール

斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』で、戦う女のシンボルはいずれの文化圏にもみられるが、「戦う少女」というシンボルが頻出するのはさしあたり日本固有のものと指摘した。その「戦う少女」を欧米のファリック・マザーと区別し、ファリック・ガールと名付けた。ファリック・ガールとファリック・マザーを大きく分断するものは、その見た目もさることながらトラウマの有無にある。

たとえば『風の谷のナウシカ』において、ナウシカはファリック・ガールであり、クシャナはファリック・マザーである。クシャナは義手であり、それが描かれることはないが、衣服に隠れた部分に文字通り外傷がある※1。その外傷を受けた過去が故にクシャナは戦っているのだと我々は理解できる。一方、ナウシカが王蟲の側にたち戦う動機には明確な根拠がない。幼いナウシカが小さな王蟲を大人の目から隠すエピソードをその根拠であるとする反論は、その幼いナウシカの行為自体に根拠を求めることで成立しないものとなる。

ファリック・マザー ファリック・ガール
文化圏 欧米 日本
トラウマの有無 あり なし
象徴 万能感、完全性 空虚さ、巫女的なもの

斎藤は、すべてのファリック・ガールは、徹底して空虚な存在であり、何の必然性もなしに戦闘能力を与えられるとして、そのようなあり方を巫女的であるとしている。理由もなくそこにいて、無根拠に力を与えられ、戦う動機となるトラウマを持たない。戦う動機をもたない彼女たちがなぜ戦うのかと問うとき、それは彼女たちの外側に存在しているということになる。彼女たちは時折、愛する少年(無力で気の弱い去勢された存在)のために戦う。彼女たちは、守るべき対象のサインを受け取るために存在し、受信して戦うがゆえに存在をすることができる。

大槻の描いた表紙の少女は、まさに空虚で巫女的(器としての)なファリック・ガールであろう。そして、『クリュセの魚』を読んだ後、読者は麻理沙をそこに重ねる。麻里沙はときに、彰人に運命をゆだね、身ごもる。テロの実行と彰人の存在に引き裂かれ、運命に身をゆだねる。あるいは、作家・東の思いを受信して、物語そのものを改変する。

3.麻理沙は哲学

麻理沙とは何者であろうか。

東は『郵便的不安たちβ』で、SFと哲学をテーマにテクストを残している。その中で、SFと哲学の関係を、『ハムレット』の登場人物になぞらえて語っている部分がある。

SFをハムレットだとみなしてみよう。亡き父(先王)は19世紀の時代精神、母は哲学、叔父(現王)は20世紀の時代精神だ。19世紀の時代精神は、全体性への欲望があり、総合知へのヘーゲル的上昇運動があり、人間的理性への信頼があった。この両者の結婚からハムレット=SFは生まれた。

このあとに続くのは、SFが哲学と20世紀の時代精神との再婚に納得がいかない、ゆえに父の亡霊の声に悩まされているという文だ。SFは、東と置きかえてもいいだろう。東は『存在論的、郵便的』から作家としての仕事を始めた。その本について、東は次のように述べている。

『存在論的、郵便的』という本がありますが、あれは要は、他人を「単独的」に理解するとはどういうことなのか、つまりは愛するとはどういうことなのかという動機で始まったようなものです。そして、実際、あれを書いていたときは僕はずっとひとりの女の子と付き合っていて、にもかかわらず相手を「愛している」かどうかわからない不安定な状態で悶々としていたわけですね。

もちろん、この言葉の受け取り方はひとつではない。素直に受け取るのなら、実生活で交際をしていて、その状況が作品に出てしまっているともとれる。しかし、私は、他人=ひとりの女の子=哲学と考える。そのように考えたとき、東が惹かれた物語には一貫性がみてとれる。たとえば、この『クリュセの魚』の元ネタ『機動戦艦ナデシコ』もそのひとつだ。主人公・テンカワアキトとミスマル・ユリカは幼馴染だった。少年アキトは理由もなくユリカに愛された。物語は、離れ離れになった二人がふたたび、出逢うするところから始まる。アキトはユリカを「愛している」かどうか分からないまま、戦い続ける。アキトは、偶然にもユリカを守る才能があった。

どこに、一貫性があるのか。

“Eureka”は、古代ギリシア語: εὑρίσκω (heuriskō、ヘウリスコー)「見つける」という動詞の一人称単数完了直説法能動態であるεὕρηκα(heúrēka、ヘウレーカ、[hěu̯rɛːka])またはηὕρηκα(ヘーウレーカ、[hɛːǔ̯rɛːka])から来ており、「私は見つけた」「分かったぞ」程度の意味である。日本語への音写にあたってはユーレカ、ユレカ、ユーリカ、ユリカ、ユリーカ、ユリイカなどの表記揺れがある。

古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスは、風呂に入ったときふいに大切なことに気づき”Eureka! Eureka!”と2回叫んだ。”Eureka!”という感嘆詞は、そんな逸話に帰する。なぜ、アルキメデスはユリカと叫んだのであろう。それはまるで、ユリカがアルキメデスに幽霊のようにまとわりついていたかのようだ。Phylosophyをする者は、ユリカに見初められ、愛しているか分からないなか悪戦苦闘し、突如理解する。

4.栖花は住み処 あるいは オタク

『クリュセの魚』を読み解くにあたって、『ナデシコ』にはもう一人、重要なキャラクターが登場する。ホシノ・ルリだ。彼女は『クリュセの魚』では、チーアホ、栖花、様々な名で呼ばれる。ひとまず、栖花と呼ぶことにしよう。

5.オタク再考

オタク、この手垢にまみれ、様々に解釈の広がってしまった言葉をもう一度、捉えなおそう。大澤真幸と斎藤環は、オタクの本質についてつぎのように述べている。

引用文

まず、これはおさえるべきことだ。しかし、足りない部分があるのではないか。『不可視なものの世界』で東と斎藤は何度か対談し、オタクについて対話をしている。その中で、東はオタクとコレクターの違いを指摘する。オタクは、モノを集めるかわりに、トレースをする。東は、オタクのトレースをすることに着目した。トレースへのこだわりは、東の根幹である。たとえば、『存在論的、郵便的』にも、トレース(痕跡)についての記述が多々みられる。ここで、大切なことは、なぜ東が痕跡にこだわったかである。それはおそらく、フロイトの「マジック・メモについてのノート」に提示された、知覚装置のモデル「マジック・メモ Wunderblock」にこそある。東は、『存在論的、郵便的』で次のように説明している。

『存在論的、郵便的』より引用すること

脳は二つの側面がある。一つは、繰り返し白紙となる面。もう一つは、わずかだがトレースしたものが痕跡として残される面。これは、東がこだわるループからの脱出というテーマに合致する。私たちは、繰り返される日々を生きる。そのような日々からの脱出への一歩、あるいはわずかながらの前進、それがトレースするという行為ではないだろうか。

オタクはトレースの欲望を持つものたちである。では、その欲望にかきたてるものたちとは何か。それは、顔である。その話へと移ろう。そのために再度、斎藤環に登場を願いたい。

6.斎藤環/『文脈病』から

東が『存在論的、郵便的』から作家として歩み始めたのと同様に、作家・斎藤環は『文脈病』から出発した。斎藤自身が認めていることだが、大変に奇妙な「顔とは文脈である」というテーゼについての本である。

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顔について考えたのは、斎藤だけではない。養老猛司も考えていた。吉本隆明と養老猛司の対談を読んで、私は次のような文章を残している。

吉本隆明と養老孟司の対談をまとめる。

その中で、日本語における漢字というものの特殊性について、養老さんが話している。失読症という字が読めなくなる症状がある。失読症は日本語話者の場合だけ、特別な様相を呈する。仮名が読めなくなる人と、漢字が読めなくなる人の二つに分かれる。仮名が読めなくなる失読症というものは万国共通である。仮名、アルファベット、ハングル文字といったものは文字と音が一対一対応だからである。調べてみると、漢字を判別しているときに使っている脳の部位は、顔を見分ける相貌認知という部位にきわめて近いらしい。

ここで養老さんは、自身の体験を話す。養老さんの高校の校長はドイツ人であった。入学してすぐに、その校長が新入生の顔と名前のほとんどを覚えていることに驚愕した。
校長先生の目があるところで、新入生が何か悪いことをすると、すぐさま「○○君」と名前で呼ばれ叱責されてしまう。こういうことは日本人の校長ではなかなかないのではないか、と養老さんは言うのである。

なるほど、そんな気がする。私が考えたのは、FaceBookである。FaceBookというものの本質は、Faceだ。Faceを持っていないと、何を話したところで相手にされないのが、西洋であると聞く。しかし、この文化は日本になじんでいないようにみえる。私自身もそうで、みんなが自分の顔をさらすということが正しいことであるとどうにも思えない。

何を言っているのかといえば、日本人は漢字という抽象図形に様々な情報を対応させて処理しなければならず、その処理に相貌認知を担う脳部位の一部を使った。結果、本来の相貌認知機能は弱まらざるを得なかったのではないかということである。

話はアイドル論に展開する。僕は、AKB48などのグループアイドルというのが、どうにも苦手である。みんな同じ顔にみえる。もちろん、この言い方に誇張はあるし、その仕組みを受け入れれば、差異というものが分かってくるであろうことは考えている。でも、そうしたくないのだ。一方、今の若い人は、抵抗感なくグループアイドルというものを受け入れているように見える。これは、漢字や文学というものの衰退と関係しているのではないかと考えるのである。つまり、文学に対するリテラシー能力の低下に反比例して、日本人の顔に対するリテラシー能力はあがったのではないか。

ここまで、養老さんの唯脳論的な手法に導かれ論を進めてきた、話の帰結もあくまで脳という器官に固着して終えることにしよう。現代はとかく脳というものを神格化しがちだが、脳というのはあくまで身体の一器官である。身体は可塑性に富んでいて、使われない部位は委縮し、よく使われる部位は肥大する。アイドルを求める人たちは、ある種、その部位が委縮してしまうことに抵抗しているのではないか。

漢字=顔、これは顔=文脈と相いれないことだろうか。いや、そんなことはない。小説家・水村美苗は翻訳家・鴻巣友季子との対談で、日本語の文章、とりわけ漢字について次のように述べている。

『翻訳問答2』より引用すること。

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顔=文脈、もし、これを導入できるのであれば、東の『一般意志2.0』を更新することができるのではないか。私は、次のような文を残している。

『一般意志2.0』では、全体意志と一般意志ということが語られていたのを覚えていますか。長江さんの言う「民の声に基づいて為政する」というのは、あくまで全体意志に基づいた為政のあり様です。「全体意志は私的な利害の総和でしかない全体意志は特殊意志の「総和=合計somme」だと定義する」と東は述べています。
『一般意志2.0』は、それ(全体意志)に代わる一般意志に基づいた為政のありようの夢を語った本でした。 全体意志は絶対値のようなものであり、一般意志はベクトルのようなものではないか、というのが43頁あたりで言われていることです。
ベクトルのようなものとはどういうことか。東は最近「どうすれば人の意識を変えることができますか」という質問に対して、以下のように答えています。「そのためには(人の意識を変えるには)言葉だけでは無理です。というか「短い言葉」だけでは無理で、ひとの意識を変えるためには、その言葉を包みこむ長大な「文脈」がセットに提示されないといけないのです」。

「短い言葉」に「文脈」がセットで提示されたとき、人を変え得る言葉となる。

この東浩紀が使った「文脈」という言葉は、斎藤環の著作『文脈病』を踏まえての発言ではないか。斎藤がこだわった問題とは何か、それは文脈=顔ではないか、というものでした。言葉に顔がついたもの、それが一般意志になりうるものではないか。そして、為政者は自分の方をまっすぐみている言葉にしたがって政治をする。そのような、ありようがよいと東は言ったのではないか。

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Ⅱ. 『クリュセの魚』と『虚無回廊』―小松左京との接続

『クリュセの魚』が、小松左京を意識して書かれていることは周知の事実だ。

1.クリュセの魚と虚無回廊の冒頭の小さな黒い物体

2.虚無回廊で描かれた、転位

 

 

 

Ⅲ.『クリュセの魚』と『スター・レッド』―萩尾望都との接続

小説家・恩田陸は、萩尾望都のSF作品について、次のように述べている。

萩尾望都のSFはいつもそうだった。『スター・レッド』もそうだし、『銀の三角』もその変形だった。a→b→cとなるはずだった世界(そして、Cはカタストロフィである)のcという結末を避けるため、bがcに介入しようとした結果、a’→b→’c’、dを通り越してeになってしまう、という話である。共通するのは、eを望んだ限りはaも無傷ではいられず、aを哀惜しつつも、最初からa’であったことを受け入れて生きていく、というものだ。喪失の予感。つまり、それが世界の本質であり、私たちの人生の真実なのだ。

また、小説家・三浦しをんは、萩尾望都の『マージナル』をこのように分析している。

「閉鎖空間からの脱出を望みながら、しかしどうやっても脱出しきれない生き物のさだめ」を、街/脳/子宮という3つの「閉所」を舞台に描いた作品かもしれない。

 

萩尾は、81年の吉本隆明との対談で、「読者としては(マンガを通して)なにをみればいいのか」という問いに「私としてはストーリーを読んでほしい。それから作品の中には必ず言いたいひとことというのが入っているから。それを読み取ってほしい」と答えている。また、それに続くやりとりで、萩尾の「言いたいひとこと」は、大まかに言って、クライマックスに書かれていると種明かしをしている。では、『スター・レッド』の「言いたいひとこと」は何であろう。

エルグは、言う。「星オマエヲ愛シテイル・・・・愛シテイル・・・・愛シテイル」エルグの愛シテイルは幾度も繰り返される。私は、ここに『スター・レッド』で萩尾が伝えたかった言葉をみる。生オマエヲ愛シテイル。その言葉を述べた後、エルグは選択をする。

星・・・おまえを愛している。ぼくは今から狂うことにする。ぼくの精神を封じてきたいましめを今とくことにする。惑星の共鳴がぼくをつかまえ、ひきこむにまかせよう。ぼくが恐れていた無 暗黒 狂気へ・・・

エルグは、星に愛を伝えたが、会えず、孤独に一つの選択をした。エルグは、麻理沙によく似た存在だ。やはり、麻理沙も生のために選択をする。しかし『クリュセの魚』では、麻理沙に想定外のことが起こる。

麻理沙さん来たよ

私はここに、東がやりたかったことを見る。『スター・レッド』で星が果たせなかったこと。エルグに「わたしも」と伝えること。

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文字数:7958

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