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tofucodes

tofubeatsは暗号を発し続けている。

暗号とは何か、ひとまず、その言葉にこめた重要な点だけ抑えておこう。
まず暗号は、一定の強度を持っていないといけない。それが暗号であると分からなければ、解読するものは現れない。tofubeatsの楽曲、MV(ミュージックビデオ)、アルバムのジャケットそのどれもが強度を持って、私たちをとらえる。
 次いで解読ツールの存在だ。たとえばtofubeatsの楽曲はサンプリングという技法に基づいているのだから、サンプリング元が解読ツールとなりうる。しかし、それだけではない。tofubeatsは、暗号であり解読ツールは多岐にわたる。
 私はその暗号のいくつかの解読を試みている。いい機会だ。それなりの形となった解読を紹介したい。まず、とりあげるのは『ふめつのこころ』。このMVが暗号であることはうなずいてもらえるように思う。MVについた感想をみれば、キモいが最高、ゾワっとしたが何度も見てしまうなど、その強度を指摘しており、その意味については多岐にわたる解読が試みられている。

さて、私がこのMVの解読ツールとして睨んだのは、フロイトである。古いのではないか、知らない、そのように思うかもしれない。むしろそうであるからこそ、解読ツールである可能性が高い。暗号は容易に解読されてはならない。しばし解読ツールの説明に付き合ってほしい。解読ツールはときに暗号以上に大切である。それは、他の暗号を解く際にも使えるかもしれない。

[フロイト]

フロイトSigmund Freud(1865-1939)は、精神分析の創始者とされている。精神分析、という言葉は、どこまで受け入れられているのだろう。誰しも聞いたことくらいはあるのではないか。心理学とかそういうものでしょ?そう思う人が日本では多いのかもしれない。心理学として思い描かれる精神分析は、おそらくユングの分析心理学であろう。河合隼雄の活躍により、日本ではユングの分析心理学が広く受け入れられている。しかし、ユングはフロイトと袂を分けており、精神分析と分析心理学は同じものではない。
 フロイトは彼の精神分析理論は何度か大きく修正した。そのため、彼の理論は三つの時期に分けて考えられる。たとえば、フロイトの変遷は次のようにまとめられている。

第一の時期は、神経学の領域で自然科学の素養を身につけたフロイトが、ヒステリーの問題に取り組み始めてから、病因として確信した性的誘因の外傷が事実でなく空想であると気づくまで。第二期は、その直後に無意識と幼児性欲の普遍性を発見し、心の局所モデルを確立した時期。第三は、それまでの理論の不備が明白になったことから心の構造論の提出によって特徴づけられる時期。

以下、引用の補足と要約を自分なりに試みる。

[第一期フロイト/無意識・抑圧・精神的外傷トラウマ、心的現実の重視]

まずは第一の時期についてだ。フロイトは、自然科学とくに神経学から出発した。ヒステリーは、当時は脳の病気あるいは詐病であるととらえられていた。フロイトは、その治療として催眠下でのカタルシス法というものを試みて、治癒に成功した。催眠下でのカタルシス法などというと、途端に分からなくなるが、要は、素面でない状態の患者にフロイトがある方法論で内面を物語らせたらヒステリーが治ったということだ。
 この臨床経験の積み重ねから、フロイトは無意識と抑圧、精神的外傷という言葉を見出した。素面では語れない部分がある、それはつまり意識下では抑圧されている物語である。そして、その物語はネガティブな経験であるため、精神的外傷と言われた。
 精神的外傷を物語と言われることに違和感を覚えるだろう。その違和感はある意味正しい。その精神的外傷が物語すなわち空想であるとフロイトが考えたのは同時期ではない。
 やや話のチャプターを飛ばす。フロイトは臨床の経験から帰納的にヒステリーの病因を子供の性的誘因にあると考えた。そこで重要なことは、性に目覚めるのは思春期で子供時代は無垢であるとフロイトが考えていたことだ。そのような前提にたてば自ずと、性的な体験とそれが性的であると理解できる瞬間には時間差が生ずる。ならば、子供の性的誘因とは普遍的なものである。ではなぜ、全ての人がヒステリー患者にならないか。
 そこで、フロイトは現実には心的現実と外的現実があるという概念を導入する。外的現実とは、いわゆる本当にあった出来事。では心的現実とは何か、それは事実によらず、本人にとって現実性をもった出来事である。そして心的現実こそ大切であるとフロイトは主張するに至る。

[第二期フロイト①/心の局所モデル]

第二期で、まず重要なのは、夢分析という手法によって、無意識的な願望を自らの夢に見出し、それがヒステリー患者の症状や空想と同じであると考えたことであろう。ここでヒステリー者の精神病理と夢をみる正常心理は本質的に同じになった。
 次いで重要なのは、引用部にもある「心の局所モデル」である。フロイトは意識のレベルを表層から深層へ、意識、前意識、無意識と三つの体系を区別した。意識は、今の私。前意識は、思い出そうとすれば意識にのぼることのできる意識。無意識は定義的に意識にのぼらせることのできない意識だ。
 無意識な願望が重要とフロイトは考えた。無意識内の本能的願望は絶えず意識への表出を求めているが、意識・前意識の道徳・倫理性によって歪曲された表出となる。では、無意識的な願望について考えねばならない。そして提出されたものが『性に関する三論文』である。

[第二期フロイト②/幼児期性欲・リビドー(性的エネルギー)]

フロイトは性的衝動を考えるとき、源泉・目標・対象の三つの側面から考察した。思春期からの性は、性器を源泉とし、対象である異性のパートナーとの性的結合を目標とする。対して、幼児期性欲は口唇や肛門部を性感帯として、そこの快感を得ることを目標とするから倒錯的な性質をもつ。
 正確ではなく、分かりやすさを目指そう。まずここでは、正しい性のあり方があることが大事だ。性器を源泉とし、対象が異性という他者で、性的結合を目指すことが正常なのだ。しかし待てよ、幼児期に立ち返ろう。私たちは皆、口唇や肛門部によって快を感じ、自分の指をしゃぶったり、肛門部を触ったりする時期がある。これを幼児期性欲と名指し、多くの人に残存している、そのようにフロイトは指摘した。
 自己流の解釈の濃度を高める。幼児期の快・不快で思い浮かべるのは、やはりおっぱいである。赤ちゃんが泣く、すると「とりあえずおっぱいかな」と私たちは考える。これは一般的だ。不快な状態を取り除く存在、すなわち快はおっぱいなのである。おっぱいを吸っているとき私たちは自分の口唇を知覚する。そのことによって、指しゃぶり自体が快になる。そして、この不快→快を求めるエネルギーを性的エネルギー(リビドー)とフロイトは呼んだのではないか。

[第二期フロイト③/エディプスコンプレックス]

この時期のフロイトの概念で、エディプス・コンプレックスも重要なもののひとつだ。父殺しという言葉は、聞いたことがあるのではないか。父やら母やらが難しく語られるとき、結構な割合でこのエディプス・コンプレックスが背景にある。
 エディプス・コンプレックスについての説明も、やはりおっぱいでいきたい。おっぱいにつながり続けていられるのであれば、私たちは快の状態でいられるはずである。しかし、そんなわけにもいかない。私たちは快をもたらすおっぱいから切断され、不快をもたらす世界に生きることを余儀なくされる。この切断をもたらす存在こそ、父である。だから私たちは普遍的に、快をもたらす母に愛を、切断をもたらす父に憎しみを抱いている。それが、エディプス・コンプレックスだ。
 私たちは、母を愛し所有したいと思うが、それは倫理的にも物理的にも本来かなわない。エディプス・コンプレックスは解消されねばならない。そこで私たちは、憎んでいるはずの父、同性の親に同一化することによってそれを解消した。とフロイトは考えた。

人間として新たな生を享けたものは、誰でも、エディプス・コンプレックスを克服すべき課題の前におかれるのである。これを果たさぬ者は神経症に墜ちてしまう。

 エディプス・コンプレックスは思春期に再び体験され、それを解決することが性的発展の目標とフロイトは設定している。

[第三期フロイト/自我・超自我、同一化(identification)]

さて、フロイトの話はもう少し続く。フロイトは第一期にはヒステリー患者の治療経験から、第二期には自らの夢の自己分析から理論をすすめた。では第三期は。第三期は、メランコリー(うつ病)の問題に取り組むことによってだった。
 フロイトは『悲哀とメランコリー』において、メランコリーいわゆるうつ病という病的な状態と、私たちが愛する対象を喪失したときに感じる悲哀とを比較した。私たちは愛する対象を喪失すると世界が虚ろになったと感じる。うつ病患者も「何らかの意識されない対象の喪失」を訴える。そのような共通点をおさえつつ、うつ病患者は世界ではなく自我が虚ろであると訴えることに着目した。

メランコリー患者では、自我の一部がほかの部分と対立し、それを批判的に評価し、いわば対象とみなしている。

 どういうことか。昨今、うつ病とまではいかなくてもうつ的になったことがある人が大半ではないだろうか。そのときを思い起こしてほしい。自分を責める自分がいなかっただろうか。フロイトはそれに着目した。
 それが超自我である。この超自我の発生の説明は、決して難解ではないのだが、ややこしいものである。エディプス・コンプレックスの説明において、同一化(identification)という概念をなんとはなしに使っていた。これが超自我の発生にも重要となる。
私たちは、幼児期にはおっぱいという対象を幾度となく喪失する体験をするわけだが、対象の喪失は大人になってももちろん続く。たとえば、恋人との電話を考えてみてほしい。永遠にこの他愛なく、それでいて何よりも私を満たしてくれる会話を続けたいと思うだろう。しかし、電話を永遠に続けることはできない。かくして、私たちは愛する対象の喪失を経験し続けているのである。
 フロイトはこの対象の喪失の際に、私たちはその対象を同一化しているという。そして、大切なのがこの同一化させる対象は、今まさに喪失(不快)をもたらしたことだ。さて愛する対象を同一化し、自分に取り込むことで自我にした。その瞬間、自我は不快をもたらしたあいつでもあるのだ。こうして自我の中に分離した存在として確立していく、超自我があらわれる。
 フロイトはこの対象の同一化を、ちょうど、食物を食べて身体に取り入れるように、対象の心の中へのとりこみ(introjection)という原始的な機制によるものと想定していたようである。フロイトは次のように述べている。

自我はこの対象を取り入れて合体しようとし、リビドー発達の口唇期または食人期にふさわしく、食べるという方法をとる。

[ふめつのこころ]

さて、いささか唐突にだが、tofubeatsの『ふめつのこころ』MV解読に入る。MVは画面中央に水平線が引かれ、上ではダンスを踊る男が、下ではひたすらに食べる女がいる。ダンスは、tofubeatsにとって、自身の活動と同義であろう。その根拠とするのは、tofubeatsの『朝が来るまで終わることのないダンスを』だ。
 『朝が来る…』は、imoutoidの死をきっかけとしてつくられた曲だ。そして、あまり人に死んでほしくない、という曲であるとtofubeatsは言う。
 imooutoidとtofubeatsは、偶然に同い年、関西在住で、いずれも楽曲のインターネット投稿から、早熟の才能として見いだされていた2人だった。そのように言えば、幼馴染のように錯覚するが、実際に会ったのは2008年5月ごろ。それから1年後、2009年5月imouoidは心不全で夭折する。『朝が来る…』は、コンピレーション・アルバムで本来、imoutoidに任せようと思っていたトリの部分をうめる曲としてできた。
『朝が来る…』は4行の歌詞が繰り返される。

ああ 夜が来て町に闇が降るよ
誰も居ない電車で見た景色を
朝が来るまで終わる事無いダンスを
朝が来るまで終わる事無い音楽を

 ダンスはtofubeatsにとって特別だ。生きている限りtofubeatsは踊る、もしそこに音楽があるのなら。

『ふめつのこころ』のMVに戻ろう。上で踊る男は、tofubeatsでありコンテンツの生産者である。では下の食べ続ける女は何であろう。注目したいのは、女がスマートフォンで男が撮った動画を見続けていることである。そう、彼女はこうしてtofubeatsの作品を食べ続けている私たちである。
 作品を食べ続けているとは普通の使い方ではない。しかし、フロイトという解読ツールを知った私たちであれば、それがおかしいものとは思わないはずだ。そう、私たちが消費者として、音楽を聴いたり、MVを視聴したり、それはいずれも食べているのだ。対象を心の中に取り込んでいる(introjection)。
 ひとまず、満腹となるまで私たちは飽くことなく対象を取り込み続ける。そして、私たちは自我・超自我を膨大にふくらませている。はたしてそうか。自我・超自我は一つなのか、それは空間を占めるものなのか。私たちは何をしているのだろう、どこに向かうのだろう。疑問にぶつかってしまった。私が解読ツールとして発見したフロイトで読み解けたのはここまでだ。この行き詰まりにおいて、二つの選択肢がある。一つは解読ツールの更新を試みること、もう一つは暗号とのにらめっこに戻ることだ。それならば、後者を。

[inter mission…]

唐突な自分語りだが、私は楽曲のカバーというものが好きである。私は好きな曲がみつかると、そればかり聞いてしまうことがある。たとえば、幼少期の自分が何を感じたのかは分からないが、小さいころに私は大事MANブラザーズバンドの『それが大事』という曲をいたく気に入り、無限のリピートを大人たちに強いた記憶がある。
 『それが大事』という歌は、負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じぬくことの大切さを繰り返し僕らに刻み込み、ダメになりそうなときそれが一番大事だと教えてくれる。渋い歌である。幼少期の私が、まだそのような事柄を理解していたとは思えないが、もしかしたら、負け続け逃げ続ける後の自分の人生を予感してのことだったのかもしれない。大自慢ブラザーズバンドもどれが一番大事か分からなくなり、何かに負けたらしい。人生とは難しい。話がそれようとしている、カバー曲の話だ。

[TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)]

カバー曲は、そのように趣味が狭くなりがちな自分に新たな出あいをもたらしてくれる。好きな曲のカバーを聞いて、知らなかったバンドやジャンルを知り、原曲も相対化され理解を深めた。
 そうだ。カバー曲を聞けばtofubeatsが分かるであろう。『TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)』というMVがYouTubeにある。ここでtofubeatsは仮谷せいらとともに『今夜はブギー・バック』をカバーミックスしている。登場するのは4分13秒あたりだ。
 tofubeatsのパートはおよそ15秒。何が分かるのか。しっかりと聴いてほしいのは声だ。tofubeatsと仮谷せいらの声は、誰しも分かる。しかし、もう一人(あるいは複数と言っていいかもしれない)歌っている声がある。それがはっきりと分かるのは、最後だ。つづけるのさの母音のaを最後に残って歌っているロボットみたいな声。これが第三の声、おそらくtofubeatsの声を加工したもの。
 この声を聴いたとき、なぜ私がtofubeatsを聴いて、すぐに気に入ったのかの謎が解けた。私はかつて、この声と似た声の主にはまっている。その声の主をGLaDOSという。

[GLaDOS]

GLaDOSはPortal(2007)というゲームで生まれたキャラクターだ。それはまず音声だけの存在だった。GLaDOSを生んだPortal脚本担当のWolpawの話。Woplawは執筆で使用していたテキスト読み上げソフトの音声が、いたく気に入った。そこで、いわゆる無機質でない、皮肉屋、ナルシストなどのキャラを持った音声ガイドとしてのGLaDOSを脚本に書く。その時点ではGLaDOSは序盤のみ登場する脇役だった。しかし、製作過程でGLaDOSはテストプレイヤー、デザイナーたちの不思議な執心を集め、ついには物語の最後をかざるラスボスにまで出世する。
 GLaDOSの出世はゲーム内に限らなかった。Portalのプレイヤーは皆がその得も言われぬキャラクターに惹きつけられた。2007年、いくつものゲーム情報媒体がGLaDOSを絶賛し、取り上げた。そして、いまだにGLaDOSの根強いファンは多い。たとえば、映画監督であるギレルモ・デル・トロもその一人だ。彼の作品『パシフィックリム』(2013)ではGLaDOSとほぼ同じ音声の存在が登場する。もちろんGLaDOSファンは、それに気づき、湧いた。
件のGLaDOSの音声は、Woplawが聞いたテキスト読み上げソフトによってつくられているのではない。声優Ellen McLainに演技をさせ録音したものを素材として、あえて機械音声の特徴を付与させている。そう、そこには奇妙な欲望の在り方がある。
 一つのGLaDOSファンサイトを紹介したい。ここでは、テキストを入力するとGLaDOSの声に変換してアップロードしてくれるボイスジェネレーターがある。変換された音声データはダウンロード可能なものとして自動でデータベース化される。現在はサイトの更新がされてないようで(2017年まではしていたようだ)、ジェネレーターはその運転を停止している。サイトの片隅には変換されたメッセージ:122499、変換待ちのメッセージ:93969とある。変換待ちには、私のテキストがある。GLaDOS的な何かはある時期から、少なからず欲望され続けてきた。

 GLaDOSは、データベース消費というあり方、今日の私たちの欲望の表象だ。それは、どのような欲望か。私たちは、自分というものを一つの素材ととらえ、素材の集積であるGLaDOSのような何かの完成をこそ目指しているのではないだろうか。
 GLaDOSはtofubeatsと言い換え可能だ。いや、同じではないのかもしれない。tofubeatsの声、すなわち声を素材としてつくられた声(Voice)とも音(Sound)とも言えない曖昧なそれは、人間と機械、生者と死者の境界を曖昧にさせる。それはデータベースの欲望以上の何かが到来していることを告げている。様々なものに宿る幽霊のような何か。
 まだ、tofubeatsの解読には続きがあるが、ひとまずここまでとしよう。私だけではtofubeatsの解読は手に余る。さらなる解読者を。いや、このように終えよう。この文章もまた、サンプリングによってつくられた暗号である。それはtofubeatsのそれのように、素材にすぎない。私はさらなる暗号を待っている。


参考文献

佐治守夫ほか『岩波講座 精神の科学 パーソナリティ』岩波書店, 1983

文字数:7987

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