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最終課題『平成の終わりに暑かった夏に―クリュセの魚を』のはじまり あるいは おわりとして 平成の話と『ナンバーファイブ 吾』

ユリイカ!私は「平成とはいかなるものであったか」という命題を解くことができました。

そのすべてを語る前に、『ナンバーファイブ 吾』を読み解くことで、その答えの一部を示すことにしましょう。

[下準備の下準備(キャラとキャラクター)]

私はこれから、『No.吾』の物語だけではなく、そこで描かれるキャラ/キャラクターについて読み解いていきます。さやわかは『キャラの思考法』で、社会全体でキャラ論は有用なものであるとして、その更新を試みました。私も同様にキャラ論は重要であるという立場ですが、その重要性はいまだ十分に理解されていないように思います。

キャラとキャラクターという概念が、なぜ大切かを説明させてください。それはインターネットが普及したことでより重要性を増しています。インターネットはSNS(Social Networking Service)を生みました。たとえば、FacebookやTwitterといったものです。それらは何を私たちにもたらしたのか。

多くのものがあるでしょうが、その一つは、出あう人間らしいもの(人格)の爆発的な増殖です。たとえばTwitterに表示される、アイコンとテキスト。それだけで私たちは、その向こうに人間らしいものを認めてしまいます。出あう人格の爆発的な増殖にあって、なぜキャラとキャラクターという概念が大切なのか。その概念は私たちがそのような環境の変化に適応して身に着けようとしている術だからです。

たとえば、あなたにとって大切な本が一冊であったとする。それなら、肌身離さず持っていればいいし、幾度も読むことで理解を深めればいいでしょう。しかし大切な本が幾冊にもなるとき、どうするか。棚をつくり、分類をし、アーカイブスをつくります。

人格についても同様です。出あう人格が少ない時代であれば、理解する機会は多く、キャラ化するなどという暴力的なことは必要ありませんでした。しかし、出あう人格が増え、膨大な数の人格を管理する必要性が生まれたのです。

だから、キャラというのは分類であり区分けされた棚の一区画で、キャラクターというのはその棚に収められる一冊の本です(実際にはキャラクターは複数のキャラに分類されるため、物理的な図書館とは異なった収め方をされますが)。私たちは、キャラ/キャラクターという概念によって、膨大な人格を迅速に理解し、円滑に処理することができるのです。

つまり、キャラ/キャラクターという概念は、私たちが身に着けた一種のシステムなのです。私たちが利用しているシステムであれば、その理解に努めなければいけません。キャラ/キャラクターを真面目に語る私たちを、ふざけている人間と思わず、人間の免疫システムについて語る学者のように思ってほしいのです。

下準備が長くなってしまったかもしれません。それでは、本論に入っていきます。

[『No.吾』]

『ナンバーファイブ 吾』は2000年から2005年3月まで『月刊IKKI』などで連載された、松本大洋の漫画です。松本大洋といえば、映画化された『鉄コン筋クリート』『ピンポン』で知っている人も多いかと思います。『No.吾』はその二つの作品の後に描かれた作品です。さやわかは『鉄コン筋クリート』のキャラクターのもつ暗示性や比喩性のストレートさを指摘しています。これは言い換えると、キャラが分かりやすいキャラクターを描いているといえます。そしてこの『No.吾』も『鉄コン』のその分かりやすさを継いでいる作品です。

まず、大まかにあらすじをおさえたいと思います。物語の舞台は、私たちと地続きの未来です。生態系を崩壊させた人類は、軍事力の放棄、人工の制限、機械文明の規制を法律で定めました。結果、大きな紛争はなく、軍隊は人類に一つだけ存在するのみとなっています。

そのような世界で科学者PAPAは、人間より優れた能力をもつ人造人間をつくりだしました。人造人間は、量産され、全員が軍隊の一組織である平和隊に所属します。その平和隊から、選りすぐられた9人で組織される集団が虹組です。

虹組はそれぞれNo.で呼ばれます。彼らは、高い地位を与えられましたが、役割は(大きな紛争はないため)、軍隊のイメージをよくするマスコットのようなものです。物語は虹組の一人であったNo. ファイブがマトリョーシカという女の子を連れて逃走したことから始まります。

第1話で描かれるのはNo.ワンに命じられ、刺客として送られたNo.ナインがNo.吾に殺害されるところ。

[昭和の殺害から始まる物語]

「行き過ぎた能力はそれが弱点になる。今の王は危険だよ。創造と破壊を同義に思っとる」

「死ぬなよNo.苦!! 死んでも死ぬなっ! No.王はダーウィンの適者生存を信じている」―第三話、No.苦の走馬燈

No.苦の本名はヒロシ。クラシック音楽ばかり聞いていて、メガネ(ゴーグル)をしています。彼は昭和の日本を思わせるキャラです。

一方、No.吾は吾(我/私)という字があてられていることから、主体(私たち)の象徴と考えられます。物語が昭和の日本を象徴するキャラNo.苦の殺害から始まることは、平成を生きる松本大洋がNo.吾と自分を重ねて物語を始めているかのようです。

[マイク(No.王)]

さて、No.苦にNo.吾の殺害を命じた、No.王はどんなキャラクターでしょう。言い換えるのなら、どんなキャラで構成されているでしょう。本名はマイク・フォード・デイビス。その名前から、ある人はアメリカ的なキャラをみるでしょう。しかし、アメリカというわけではありません。彼はおそらく、人間的に正しいとされている全てのものの象徴です。彼は、正義の象徴であり科学の象徴。虹組という惑星の中心である恒星。誰よりも正しく、賢い。

平成にそのようなものとして登場したものにインターネットがあります。起源としては1960年代と言われていますが、私たちにとって身近な存在になったのは平成でしょう。2000年代、インターネットに多くの人が希望を抱きました。

松本大洋もNo.王をどこかインターネットを意識して描いているのではないでしょうか。たとえばNo.王の登場によって、虹組は同調という能力に目覚めたように描かれています。同調について、詳しく見てみましょう。

[共感と共鳴、同一化と感染]

PAPA  「つまり他の連中が皆、彼に共鳴した場合・・・」

ドノバン 「共感だ、博士。共鳴とは違う」―第十二話

上記の引用は、同調という能力について、PAPAとドノバンという人間が交わす会話です。同調をPAPAは共鳴する能力であると考えています。しかし、ドノバンは共鳴という言葉を理解できず、共感の言い間違いだろと言います。ですが、虹組を作ったのはPAPA。彼ら虹組は共感ではなく共鳴によって、つながっています。同調とはどのようなものなのでしょうか。

まず、共感と共鳴の違いについて考えましょう。共感という言葉の主体として想定されているのは、個をもった人間です。一方、共鳴の主体は、どちらかというとモノです。だから、ドノバンは共感の方が正しいと感じたのでしょう。ですが、共鳴なのです。

そして、これは平成でも起きていることです。近代、私たちは共感によってつながってきました。これは同一化モデルといいます。しかし、インターネットやグローバル化によって平成の私たちは、共鳴によってつながる主体となりました。これを感染モデルと言っています。

たとえば、同一化モデルで選挙の当落を考えている人は「なぜ、優れたAより明らかに劣っているBが当選するのか分からない」といいます。しかし、私たちは同一化によってつながっていません。主体は人間ではなくモノ。同調させるとはすなわち、受信させるかさせないか。それが感染モデルです。

主体を携帯電話のようなものと考えてみてください。あなたの携帯電話は今、電波を受信していますか?その電波は震源から中継点を経てあなたの携帯に届いています。そして感染モデルでは、受信したあなたは新たな中継点になります。

感染モデルでは、もう一つ大切なことがあります。それは確率的な(いいかえれば偶然な)ものであるということです。おなじ場所にいるのに電波が受信できたり、できなかったりという体験を誰しもしたことがあると思います。つまり、そこには確率が存在します。アルバート・アインシュタインが量子力学を批判する際に「神はサイコロを振らない」と言ったと語られていますが、現在は「神はサイコロを振っている」ことになっているのです。

まとめましょう。感染モデルでは、私たちはBが当選した際に「なぜ」と意味を考えても、理解できない現実が存在します。私たちが言えることは次のようなことだけなのです。「Bが当選したのは、Bの方が私たちに受信させやすい電波を起こしたからかもしれません」

[そしてテロリズムが起こる]

『No.吾』の話に戻ります。同調ははじめ、微かな影響しか及ぼさないものでした。しかし、次第に強いものとなっていきます。そんなある日、No.王は軍隊の全権委任を要求するも拒否され、テロリズムを起こします。

平成もまた、テロリズムを抜きに語ることはできません。私たちの消えないトラウマ。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ(911テロ)です。9.11テロ以降のテロリズムで特徴的なのはインターネットが利用されたことです。

テロリストとなったNo.王は、自らが生まれた城に立て籠もり、同調能力によって平和隊を操り、地球軍と抗戦します。物語は終局へと向かいます。

ですが、平成を語るために、もう一人のキャラクターを読み解きたいと思います。No.吾が連れて逃げたマトリョーシカです。

[マトリョーシカとマリー]

マリー、パパのけんきゅうきやいよ。くんしはひょうへんするのよ。A・T・G・Cのはいれつでせいたいけいをもつかさどろうとしゆ、かがくちゃのかんがえかたがえらぶってゆのよ。ひとは、みずとつちとそらのなかでいきゆかんかくをなくしたわ。しんかのかたちはひとがえらんだやだめなのよ。かなしいことがおこゆわよ。―第三十三話

マトリョーシカは以前、マリーと言う名を持っていました。マリーもやはりPAPAによって生み出された存在、人造人間唯一の娘でした。PAPAは女性を生み出すことを禁じられていました。雌雄によって人造人間が存続できる種となることを人間が恐れたためです。しかし、PAPAは極秘裏に研究をし、秘密の研究室でマリーは生まれました。

マリーはマイク以上に聡明で抗うことのできない絶対的な力を持っていました。マリーはPAPAのすべてになりました。高い塀の中で極秘裏にすごすPAPAとマリー。塀の外が見たいというマリーを不憫に思いながら、PAPAはその閉ざされた生活を愛しました。

ある日、マリーはPAPAを夢のような世界に誘い、さようならと告げます。翌朝、マリーはマトリョーシカとなりました。聡明さや絶対的な力は失われ、どこか不気味な女の子になりました。

マリーとマトリョーシカは何の寓話なのでしょう。補助線をひきたいと思います。東浩紀は『セカイからもっと近くに』で、小松左京の『日本沈没』には社会的な母と動物的な母が描かれていると述べています。社会的な母は癒してくれますが、子供を産みません。一方、動物的な母は癒すことはありませんが子供を産みます。これを、そのままマリーとマトリョーシカにあてはめることが出来るのではないでしょうか。

マトリョーシカがなぜ子供を産む性の象徴といえるのか。マトリョーシカはロシアの入れ子人形であるマトリョーシカを思わせる風貌をしています。入れ子構造は子を産む象徴として考えられます。どうしてか。その説明のために、私の身近であった出来事の話をさせてください。

佐々木敦は2018年8月2日から8日にかけて、『ものかたりのまえとあと』という、佐々木が運営するSCOOLで初の展覧会を開催しました。また私が受けている批評再生塾の第5回講師である土居伸彰は、課題文の中で自身が執筆した『個人的なハーモニー』について少しだけ言及しました。『個人的なハーモニー』はユーリー・ノルシュテインがつくった29分の短編アニメーション作品『話の話』をめぐる本です。私は『ものかたりのまえとあと』に赴くことができず、『話の話』そのものはまだ見ることができていません。しかし、私にはそれらは同じもののように感じました。どうしてでしょうか。

『ものかたりのまえとあと』、ものかたりを一つのものと考えると、佐々木はその「まえ」と「あと」を想定しました。その構造は、必然的に『「ものかたりのまえとあと」のまえとあと』を要請します。同様にして『話の話』は『「話の話」の話』を生みます。ぼくが、同じように感じたのは、そのどちらも物語が好きな人が次の物語が生まれるようにと祈ったように思えたからです。

『ものかたりのまえとあと』も『話の話』もマトリョーシカも入れ子構造です。入れ子構造は子供(次のもの)を生みます。

[動物的な母を社会から守らなければならない時代]

マトリョーシカを動物的な母とすると、『No.吾』は世界が送り込む刺客からマトリョーシカ(動物的な母)を守る話と読むことができます。平成も私たちがマトリョーシカを社会から必死に守らなければならない時代だったのではないでしょうか。

たとえば、2018年7月に読売新聞は「流産した胎児をお腹に抱えたまま働くことを余儀なくされた看護師がいた」と報道しました。これは、動物的な母をないがしろにする時代が象徴された事件のように思います。この女性は、妊娠していると分かっているにも関わらず、夜勤をしていました。妊娠している身体をないがしろに、社会的な役割を果たすことを半ば強要されていたのです。それが一因となっての流産であることは疑いようのないことです。女性は流産したことを職場に告げました。しかし職場から返ってきた言葉は「シフトを急に変えることは難しい。亡くなった子供を取り出す処置は、次の休みに受けて」というものでした。女性は亡くなった子供をお腹に残し泣きながら働いた数日間を振り返り、「心がこわれそうだった」と述べています。

この女性は、心を壊すことなく、第二子を妊娠、職場をやめました。本当に強い人だと思います。でも、それで良かったとは到底言えません。失われた子供は戻らない。壊れなくても、消えない傷が残ることがある。たしかに、この事件は極端なものかもしれません。けれど、社会的な役割のために身体的な自分をないがしろにすることは、私たちは誰しも経験しているのではないでしょうか。

少子化は動物的な身体をないがしろにした私たちの帰結として起きています。このように言えば、「昭和は今よりも労働環境は過酷であったが、少子化になることはなかった」と反論があるでしょう。労働環境でいえば、たしかにそうなのかもしれません。平成に顕著になった動物的な身体性の軽視は労働環境だけで語られる単純なものではないです。あるいは、少子化というものが人間の動物的な側面をみないことだけで起きているわけではないとも言えます。

少子化は平成を越えて、私たちが考え、乗り越えていかなければいけない問題です。私も答えは見いだせていません。しかし、この論の目的は平成を語ること。平成は、「子供を産む」ということの意味を私たちに問いかける時代でした。

[物語の終局と3.11]

テロリズムを起こして以降、No.王は自らの内の邪悪が増大していくことに苦しみます。そんなとき、かつての仲間、虹組の亡霊がNo.王に告げます。「大丈夫。まるいおんながすないぱーを呼んだよ」No.吾がNo.王の立て籠もる城へとやってきました。

No.吾について、あまり詳しく説明をしていませんでした。No.吾は、バカなスナイパーとして描かれています。言動は、ハードボイルドですがあまり深いことは考えていません。ですが、狙撃の腕は確かでした。結局、虹組の誰一人としてNo.吾を仕留めることはできませんでした。

No.吾とマトリョーシカ、彼らは動物的な私たち、言い換えれば自然に属している私たちです。自然は、しぶとく生き残り、最終的に人間の誤りを正します。

私はNo.王をインターネットの象徴と思えるとして、論考を進めてきました。でも、多くの人にとってインターネットは誤っていないし、これからも絶対大丈夫だろうと思うでしょう。私も半分はそう思っています。では、No. 王の殺害は平成では起きていないのでしょうか。いえ、平成に自然によって終わりを告げられたもう一人のNo.王がいます。それは、福島第一原発です。

原子力発電は、昭和に生まれたNo. 王です。それは、昭和には科学の結晶のように思われ、私たちに石油燃料によらないエネルギーをもたらす希望として登場しました。福島第一原発が起きたとき、盛んに言われたのは「想定外の事象だから仕方がない」ということです。「想定外の事象だから仕方がない」いいかえれば、「合理的には福島第一原発は絶対大丈夫と考えられた」ということです。

No.吾は涙を流しながら、No.王に引き金をひきます。No.吾の涙はどうしてなのでしょう。No.王はそうではない未来もあったはずでした。偶然に、No.王は黒に感染し、後戻りのできない状態になってしまったのです。No.吾は彼の純粋さも、かつて持っていた可能性も知っていました。

終幕は、No.王殺害後しばらくたった地球が描かれます。No.王が射殺された現場、すなわち立て籠もった城は観光地となり、観光客が訪れているようです。マトリョーシカとNo.吾には子供が生まれていました。

[おわりに]

平成にはオウム事件や、9.11テロというテロリズムがありました。そして3.11のような人災と天災がありました。3.11は自然が私たちの依存し信頼していたものを一日のうちに脅かすものに変えてしまったかのように思えました。しかし、それは私たちへのメッセージであったのだとは思えないでしょうか。私たちは通信を回復しなければならないのだと。回復できたとき私たちはこう問うはずです。

ソコカラナニガミエル?


参考文献

松本大洋『ナンバーファイブ 吾』小学館, 2000-2005

さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップデート』青土社, 2015

東浩紀『コンテンツの思想』青土社, 2007

東浩紀『セカイからもっと近くに』東京創元社, 2013

『ユリイカ 1月号』青土社, 2007

文字数:7553

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