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見知らぬ岸辺から

きみの持っているものはきみの持っていないもの―言い換えれば、きみの持っていないものはきみの持っているものだ。

僕は見知らぬ岸辺を前にしばし佇み、冒頭のテクストを「翻訳で読む読者は、オリジナルで読む読者に対してどのような位置にあるのか?」という問いの答えとして拾いあげる。批評再生塾というツーリズムに参加し、鴻巣友季子の問いに誘われ、自分では決して踏み入ることのなかった森を抜け、ここにたどりついた。もうそろそろ戻らねばならない。その前に、ここまでの道程をひとまず振り返ることにしよう。

J・M・クッツェーの『Stranger Shores』

冒頭のテクストは、南アフリカ共和国出身のノーベル章作家J・M・クッツェーの評論集『Stranger Shores』の巻頭に置かれた「古典とは何か? 講演」(初出1933年)の一節である。クッツェーは、自分が南アという「辺境」の出身であることを強く意識している作家だ。この講演で彼は「辺境」に位置するとはどのようなことかということを、T・S・エリオットの同名の批評「古典とは何か」を皮切りに問い直していく。

T・S・エリオットの「古典とは何か」

「古典とは何か」が発表された1944年、エリオットにとって、普遍的な「古典」といえるにふさわしいのは古代ローマの詩人ウェルギリウスであり、英国文学が達しえた古典はせいぜい二流のものにすぎなかった。クッツェーが指摘するように、エリオットの「古典とは何か」は、強引で、自分の個人的な好みを押し付けるているだけという印象を免れない。しかし重要なのはエリオットがこの批評を通し、読者にいかなる警鐘を鳴らしていたかにある。なぜエリオットは「古典」というものを問い直したか。「古典」を見失ったとき、人は「地方的」になってゆくからである。エリオットは「地方的」という言葉に多くの意味を与える。「地方的」とは「首都的な教養、或いは、洗練性の欠如」であり、かつ「思想、教養、信条の狭さ」である。また「地方的」とは「限られた地域内で獲得された規範を人間の経験全体に適用するところから生ずる価値の曲解、つまり、あるものは除外し、あるものは誇張すること」なのであり、この曲解が偶然的なものと本質的なものを混同させ、一時的なものと永遠的なものとを混同させる。さらに「新種の地方性」なるものが、知恵と知識、知識と資料との区別が分からなくなり、技術によってこそ人生の問題は解決すると考える現代において、目立ってきたという。

現代に於ては、新種の地方性が現れつつあります。この地方性は、恐らく、新しい名称を与えられるべきでありましょう。それは空間に於ける地方性ではなく、時間に於ける地方性であります。この地方性にとって、歴史とは、人間の意志が行われ、棄てられていった記録に過ぎず、世界とは、現在生きている者のみが所有して、死者が共有することのない財産であります。この種の地方性の脅威は、吾吾すべて、地球上のあらゆる国民が、こぞって地方的であり得るということであり、田舎者であることに満足しない者は、唯、隠者になることが出来るだけであります。

別の個所より引用。

もし、吾々が未来への信頼をやめたら、過去は、十分に吾々の過去であることをやめるでありましょうし、死せる文明の過去となるでありましょう。

クッツェーの言を借りれば、このとき、エリオットは歴史の理論を自らに装備していた。その理論からすれば、イギリスもアメリカも、永遠の首都ローマに対する地方と定義されていた。エリオットは、この講演の聴衆として想定されていたであろうイギリス文壇に、自らが空間的にも時間的にも「地方」であるということを忘れてはならない、言い換えれば、「古典」を見失わなってはならないと説いた。そうすることが、エリオットには、イギリスないしヨーロッパ人にとっての成熟にいたる必要不可欠なプロセスと思われたのだ。

M・J・クッツェーの「古典とは何か? 講演」

先ほど「エリオットにはイギリスもアメリカも首都ローマに対する地方であった」と述べた。なぜ「イギリスは」ではなく、「アメリカ」も必要であったかといえば、エリオットは生粋のイギリス人ではなかったからだ。エリオットは1888年9月26日にアメリカの南西部地方、ミズーリ州セント・ルイスに生まれた。イギリスに渡るのは1914年のオックスフォード大学留学がきっかけで、この年の暮れ頃よりロンドンに定住する。このころに書かれた彼の初期の詩には「半ば野蛮な国に、時代に遅れて生まれた」という感覚が全般的にみられる。そして、これは植民地人(あるいは、エリオットのいうところの地方人)には得てしてみられるものだと、クッツェーはいう。「古典とは何か? 講演」では、私とは他者であり、自伝とは「他伝」であるというクッツェーにあって、あらゆる点でエリオットに自らを重ねる。エリオットの「古典とは何か」はウェルギウスの『アエネーイス』を古典として再認定する試みであった、とクッツェーが言うとき、「古典とは何か? 講演」もそのように意味づけされる。すなわち、エリオットのそれを古典として再認定しようとする試みであると。

バッハは古典であるか

クッツェーが古典とは何かを問い直すとき、エリオットの軌跡に自分を重ねる営みから、15歳のとき彼がバッハという古典に出会った瞬間へと話は移る。1955年、彼を取り巻く文化は、急速に、合衆国の一地方になりつつあった。その文化にあっては、クラシック音楽はむしろ女々しいとされ、ラジオからは当たり障りのないアメリカのポップ音楽が大量に流されていた。あってなきが如きクラシックの知識の彼は、偶然に隣家が流したバッハの『平均律クラーヴィア曲集』(当時はもちろん曲名を知らない)を耳にし、瞬間に、凍りつき、呼吸する気力すら奪われるという経験をする。彼は、それを啓示の瞬間と名指す。それは、彼にバッハには内在する超越的な力を有していると思わせるに十分な個人的体験であった。しかし、それに実質的な根拠はあるのだろうか、と彼は問い直すのである。

あの経験は、私がそうと理解したもの―利害関係抜きの、ある意味で非個人的な美的経験―だったのか、それとも、本当は、世俗的関心の偽装された表現だったのか。

安易な古典の概念、すなわち、無時間的で、あらゆる境界を越えて無条件に語りかけるものであるという定義にバッハを照らし合わせるとき、バッハは少なくとも、無時間的にそれではなかった。バッハが彼自身となるには、1892年、ベルリンにおいてメンデルスゾーンが指揮をした『マタイ受難曲』の演奏を待たねばならなかった。そして、それは明らかにバッハと言う形象がドイツのナショナリズムとプロテスタンティズムを促進するための道具の一つとして利用された出来事であった。

社会文化的にみたとき、バッハは少なくとも、不可視で物言わぬ古典であった時期があり、真に古典となるには音楽の質によってではなく、ある大義の一部として提示される必要があった。そのような話を提示し、私たちに自らの欺瞞の影をありありと見せた後に、「しかし」とクッツェーは言う。

時代を越えて語りかけられるというのは、私たちが今日自己欺瞞なしには抱けない観念なのだろうか。この問い―私は否と答えたいと願うのだが―に答え、古典という概念から何が救出できるのかを見るために、バッハの話のまだ語っていない半分に戻ろう。

バッハの話のまだ語っていない半分

素朴な疑問。もしバッハがそんなに無名な作曲家だったのなら、メンデルスゾーンはどうやって彼の音楽を知ったのだろう。

まだ語っていない半分は、この疑問のピースを埋める話だ。バッハは不可視で物言わぬ古典であったと前に述べたが、それはバッハの名声という観点からの評価にすぎない。実際の演奏というものに目を向けると、ある特定の人々には途切れることなく届いていた。ある特定の人々とは、プロの音楽家と熱心なアマチュアであり、その中にはモーツァルトという後の天才も含まれる。彼らの間である種の秘教的娯楽としてバッハは演奏され続けた。そのことによって、メンデルスゾーンはバッハを知り、バッハは彼自身になる機会を得たのである。このことにこそ、バッハが古典であると自信を持てる根拠があるとする。すなわち、テストされても生き延びるものこそ、古典ではないかというのである。テストとは、音楽においては、どんな形であれ演奏されることだ。

そして今日初心者が『平均律クラーヴィア曲集』の最初の前奏曲をたどたどしく弾くたびに、バッハは音楽という職業の内部で再びテストされているのである。

翻訳とは

文学における翻訳とは、この音楽における演奏、すなわちテストにあたるのではないか。ただ演奏されればよいとクッツェーは言っていない、あくまで音楽と言う職業の内部で演奏(テスト)されることが必要なのだ。なぜ音楽家によってのテストに信頼をおけるかについて、彼は次のように述べている。

音楽家になるためには、長い訓練と修行が必要だからである。その訓練の性質が、他人に精密に聴いてもらい役に立つ批評をしてもらうよう繰り返し演奏することを必要とするからである。そして、演奏の種類が、先生に対する演奏から、授業のための演奏、そして様々な演奏会での公的演奏まで幅広く制度化されているからである。

彼の言を僕は、少しだけ書きかえたい。

翻訳家になるためには、長い訓練と修行が必要だからである。その訓練の性質が、他人に精密に読んでもらい役に立つ批評をしてもらうよう繰り返し読まれることを必要とするからである。そして、翻訳の種類が、先生に対する翻訳から、授業のための翻訳、そして様々な出版での公的翻訳まで幅広く制度化されているからである。

最悪の野蛮を生き延びるものが古典である

書きかえてみたが、なんだか、しっくりこない。結論を急ぎすぎたのだ。クッツェーの「古典とは何か? 講演」に戻ろう。

古典とは生き延びるもののことであると言うことは、私たちが生きるという観点からは何を意味しているのか。そのような古典概念は人々の生活の中でどのように現れるのか。

この疑問の答えを知るには、クッツェーと同時代のポーランド出身の古典詩人ズビグニェフ・ヘルベルトを見るのが一番の早道であるとする。ヘルベルトにとって古典の対義語は野蛮だ。ポーランドは周期的に野蛮になる隣人に挟まれた国で、彼の国の古典は野蛮の襲撃に幾度となく見舞われてきた。彼によれば、古典は何らかの本質を持っていたから生き延びるのではない。最悪の野蛮を生きた何世代もの人々が手放すことができないとして守り抜くもの―それこそが古典なのである。

古典は生き延びることによって自らを定義する、このパラドックスに行き着いて、クッツェーはこの講演での自らの行為を自己省察的に振り返るのである。すなわち、自分が今行った、批評はいかなることであったのか。

古典の問いただしは、いかに敵意に満ちたものであれ、古典の歴史の一部なのであり、避けられないし、歓迎すべきものでさえある。なぜなら、古典が攻撃から守られねばならない限り、それは決して自らを古典だと証明できないからである。

批評とは古典を問いただす義務を負うものである。

批評とは、古典の一部であり、古典がそれ自身となる過程で要請するものでありうるとして、クッツェーはこの講演を結ぶ。

おわりに

「古典とは何か? 講演」は、終演を迎えた。次の目的地に向かうためにも、定められた集合時間に遅れるわけにはいかない。だが、まだ鴻巣友季子の問いのいくつかに答えを見いだせていない。僕は慌ててポケットをまさぐり、一枚の紙片をみつける。これは鴻巣友季子から問いの以前に渡されたものだ。そこには何が書いてあるか。

翻訳とは一語一句が批評であり、批評とは一行一行が翻訳です。テクストに他者のことばを聴き、見えない他者に向けて書いてください。(※1)

そう、翻訳とは批評なのだ。翻訳は古典の一部である。それは、ときに古典を問いただす。問いただすためには、音楽家がそうするように、翻訳家は長い訓練と修行を経て、一語一句を吟味しなければならない。それは、ときに古典を野蛮から守り抜く。たとえば、鴻巣は原文がワインであるとするならば翻訳はコルクのようなものだとする。適切なコルクによって、古典はそれが生まれた地より、時間的にも空間的にも、遠く離れた、いささか野蛮な地の住民に届けられる。しかし、それこそが、古典をそれ自身たらしめる歴史において必要なことなのかもしれないのである。

ここから見える景色は素晴らしく、この岸辺より先もある。しかし、ひとまず戻ることにしよう。この場所へと至る道は覚えた。いつでもというわけにはいかないが、また来ることもあるだろう。


※1 本年度の批評再生塾ホームページにおける講師紹介での鴻巣友季子コメントを参照した。

参考文献

T.S.エリオット『エリオット全集 3 詩論・詩劇論』 中央公論社 ,1981

J.M.クッツェー『世界文学論集』(田尻芳樹訳)みすず書房, 2015

平井 正穂ほか『エリオット』研究社出版 ,1979

鴻巣友季子『熟成する物語たち』新潮社, 2012

 

文字数:5382

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