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「あの日」の「高橋源一郎」について 第一回

「あの日」なにかが起きた。僕に分かっているのはそれだけだ。未来、「あの日」をまったく知らない若い人に言われる。「『あの日』のことを、学校で聞いたよ。あなたの『あの日』のことを聞かせてよ」。そのとき、僕には「あの日」を語ることばがあるだろうか。高橋源一郎、東浩紀、佐々木敦には共通点がある。3人はそれぞれ「あの日」から、考えつづけ、自らのことばで「あの日」とそれに続く今を語ろうとしている。だから、批評再生塾でことばを学ぶと決めたとき、「あの日」についてのことばを学ぼうと思った。まずは、高橋さんに聞こう。高橋さん、「あの日」に何を思い、何を僕たちに残したのですか?「あの日」は2011年3月11日、東日本大震災が起きた日だ。

1.『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』

『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』は2012年の2月に発売された。2011年3月11日(「あの日」)から高橋がtwitterでツイートした発言の抜粋を時系列に並べてある「日記パート」と「あの日」からの様々な媒体に寄稿したテクストの抜粋である「文章パート」の2つで構成されている。高橋はこの本のおわりにで、次のように書いている。

「2011年」という特別な年に、ぼくが書いた、ツイッター上の「ことば」、それから、小説やエッセイ(もしくは、その一部、たとえば、冒頭)を、ここにおさめた。作品全部ではなく、その一部をおさめたのは、なにを書いたのか、ではなく、なにを書こうとしたのかを、知ってもらいたいと思ったからだ。

(中略)

いろんな意味で、特別な本になった。こんな本を作ることは、二度とないと思う。ぼくにとっての2011年という年が、この本の中に封じこめられている。

高橋が言うように、これは類書をみない本だ。様々な媒体に寄稿したテクストを再編纂した本はある、だとすれば、この本を特別にしているのはtweetの抜粋でつくられた「日記パート」部である。この本のはじめにからの引用。

ぼくがツイッターを始めたのは、2009年の暮れだった。そして、始めてすぐに、そこには、新しいなにかがあることに気づいた。

(中略)

ぼくは、ある晩、「午前0時の小説ラジオ」という番組を始めた。午前0時に、1時間近く、時には、2時間近く、一つのテーマについて、連続してツイートしてみることだった。

(中略)

そうやって、ぼくの手元から「ことば」が、インターネッットの「海」に流れていった。

まるで、街頭に立って、ギターを弾いたり、詩を朗読する人のようだった。多くの場合、街頭を歩く人は、ほとんど無関心で、その弾き手や、朗読者の横を通り過ぎてゆく。それでいいのだ、と思った。生々しい「ことば」が飛び交い、直接、取引される現場に、自分の「ことば」を置いてみること。それは、ずっと、ぼくがやりたかったことのような気がした。

幸い、反響があって、その「ことば」を出版してみませんかといわれることもあった。申し出に感謝しつつ、けれども、ぼくは断ることにした。ふだん、ぼくが書いている、小説や評論やエッセイの「ことば」とは、異なったものとして、もっと直接的ななにか、として、それを扱いたいと思ったからだ。

そして、「あの日」がやって来た。2011年3月11日だ。

2. 「あの日」の前と後で変わったもの

高橋はどうして、出版を断ったtwitterの「ことば」を、このようなカタチで出版したのだろう。

ぼくが、この本を作ろうと思ったのは、それから、その中に、出版するつもりのなかったツイッター上の「ことば」を載せようと思ったのは、「あの日」の前と後で、なにが変わったのかを知りたいと思ったからだ。

「あの日」の前と後で変わったもの、それはなんなのだろう。2011年4月29日、高橋は文筆家で友人の平川克美と『圧倒的な現実に、文学はどう対峙するのか』という対談を開いた。次の引用はその中で交わされた対話の一部だ。(※1)

高橋 (3月11日以降に世の中で)技術の話、経済の話しか出てこないのは、それ以外の話が出てこないのは、それ以外の話をすると諍いになるからだと思う。なんか暗いんだよね。これね、東浩紀さんがtwitter上で言っていたことなんだけれど、「3月11日まではあんなにtwitterが楽しかったのに、楽しくない」って。

平川 あの日を境にtwitterはガラっと変わりましたよね。

高橋 出てくる話題は経済や技術の話、数字の話と、あとは怒りや憎しみ。それから価値の話。数字の話は、自分は入れないし、価値の話になると諍いになる。そういうものが出てきてしまった。それで、その状況を指摘すると、怒りの矛先が自分に向く。

平川 よく出るのが「今は、そんな話をしている場合か」だよね。

高橋 自粛ね。あれも価値やらイデオロギーの問題なんだよね。こういうときは、そうするもんだというが、なんで?と問うと、誰も答えてくれない。

平川 我々の友人の内田樹も「疎開のススメ」というのを書いたら、相当にバッシングがあったみたいなんだよね。

高橋 パニックを誘うってね。それまではね、何を言ってもみんなそんなに怒らなかった。今は、必ず誰かが怒るんだよ。

平川 苛立ってるよね。寛容さがなくなっているというのは、ある。

高橋 寛容さがないというのは、政治的になっているということなんです。政治というのを、twitter民は無しで今まで過ごしてきた。無しで過ごすというのは、すごくいいことだったんだけど、免疫がなくなるんですよね。ずーっとなしで過ごしてきたから、自分が政治的になっていることに気が付かなくなってたんですよ。政治が活発だった時代っていうのは、みんな政治的なものに敏感で上手に避ける術を持っていた。

平川 受け身の取り方がわからないってやつだよね。

高橋 そう、だからすごく政治的になっていて、暗い。なんか言おうとしても、言いにくいなっていうのは、そんなつもりはなくても、政治的な文脈で解釈されてしまう雰囲気が蔓延している。

高橋は早い段階で、2009年に新しい何かがあると感じたtwitterが「あの日」以降は違った何かになりつつあり、変わったが最後、もう二度と戻ることはないと悟ったのではないか。2011年10月17日、高橋は小説ラジオで「あの日」から考えてきたこと・ぼくたちの間を分かつ分断線 と題したtweetをした。長いtweetなので、抜粋して引用したい。

分断線1 「あの日」から、ぼくたちの間には、いくつもの「分断線」が引かれている。そして、その「分断線」によって、ぼくたちは分けられている。それから、その線の向こう側にいる人たちへの敵意に苛まれるようになった。それらの「分断線」は、もともとあったものなのかもしれないのだけれど。

分断線2 本来、誰よりも共に戦うべき人たちの間に引かれてしまう、見えない線がある。見える線を挟んでの応酬は、どれほど厳しいことばが行き交っても、ある意味で健康だ。誰と誰が対立しているのかは明らかだからだ。だが、見えない線を挟む沈黙の応酬は暗い。無言の嫌悪の視線がそこにはある。

分断線6 その分断線は、誰が引いたのか。ぼくたちが自分の手で引いたのだ。その、いったん引かれた分断線は、二度と消えることがないのだろうか。分断線を越えること、分断線を消すことは不可能なのだろうか。自分が引いた分断線から、ぼくたちは出ることができないのだろうか。

分断線7 ツイッターは、分断線を挟んだことばの応酬に適したメディアだ。敵はすぐに見つかる。そして、見つけた敵に憎しみのことばを投げかける。なぜ、そんなことをするのかと訊ねると、「いや相手を説得しようとしているだけだ」「大切なのは議論なんだ」という答えが戻ってくることも多い。

分断線8 ぼくは長い間ずっと、どうして、対立する者たちの間で、豊かな対話が成り立たないのかと思ってきた。少なくとも、表面的には、誰も、対話を拒否してはいないのだから。熟議や論争によって、新しい解決策が見いだせるかもしれない、とぼくは思ってきたのだ。

分断線9 こんな文章を読んだ。「人間は説得されて変わることはありません」。その通りだと思う。そして、ぼくは考えてみた。ぼくは、半世紀近く多くのものを見たり、読んだりしてきた。その中に「説得されて、もしくは批判を受けいれて、それまで培ってきた自分の考えを改めた人」がいただろうかと。

分断線10 ぼくの記憶に残っているのは一人だけだ(あとの例はすべておぼろだ)。哲学者の鶴見俊輔さんだ。

(中略)

分断線19 いま、ぼくたちは、たくさんの分断線を引いている。考え方の微細な違いにこだわり、分断線を増え続けている。そして、その線の内側から、その外側にいる連中に、恐怖の、もしくは侮蔑の視線を注ぐのである。そうやって、ぼくたちは衰えてゆくのだ。

分断線21 でも実際は、ぼくたちは、正反対の考えの持ち主にではなく、近い考えの持ち主との、ささやかな違いの方に、一層、苛立つ。しかし、彼らは「敵」なのだろうか。違いより、共通のものの方がずっと多いのではないだろうか。

分断線22「いまは、そんなことをやっているべきではない。こっちの方が大事だろ」ではなく「きみは、それをやるのか。ぼくは、こっちをやるから、別々に頑張ろう」といえるようになりたい。それが、難しいことであったとしても。

分断線23 ぼくたちはばらばらだ。ばらばらにされてしまった。放っておくなら、もっとばらばらになるだろう。ぼくはごめんだ。やつらが引いた分断線なんか知るか。ぼくたちが自分で書いた分断線は、ぼくたちが自分で消すしかないんだ。

高橋は悟ったりなどしていなかった。高橋はよく「子どもは本当に賢い」ということを口にする。だからtwitterが子どものころを思い出して、わずかな間だけでも、あのころに戻れるよう、「ことば」を残していた。

「『あの日』から、ぼくたちの間には、いくつもの「分断線」が引れた。それは、もともとあったものなのかもしれないのだけれど」と高橋が言うように「あの日」を境にすべてが変化したのではない。「あの日」によって、それまで見えにくかったが姿をありありと照らされたものがある。次回はそれを中心に「あの日」に迫っていきたい。(次回につづく)


ちょっと脱線して、高橋さんを知ろう ①愛と過剰なひと

高橋さんは2011年5月に、漫画家の羽海野チカさんに、こんなtweetを送っている。

毎日少なくとも一回は(1巻から読み始め5巻までよんでまた1巻に戻る)ループにはまっております。なので、いま書いている小説は絶対『3月のライオン』の影響を受けていると思います。ほんとに。

ここでの「書いている小説」とは、『恋する原発』のことだ。それを知って『恋する原発』を読むと、たしかに羽海野さんの漫画にとても似ていると思った。羽海野チカさんの漫画の特徴は、愛と過剰さにあると思う(羽海野さんの作品は大好きなので、こんな二言で済ませたくないのだけれど)。羽海野さんの漫画はとにかく愛にあふれている。羽海野さんは漫画そのもの、登場人物、読者、そのどれも愛しすぎていて、1ページ1ページにこれでもかと色々なものを詰め込む。それから羽海野さんの漫画の登場人物はみんな妥協しなくて、全力で、汗や涙でびちょびちょ。それは羽海野さん自身がそうだから。そんな羽海野さんの人柄を表すエピソードにこんなのがある。それは『ハチミツとクローバー』がアニメ化したときのこと。羽海野さんは完成したアニメを見ながら、幸せになったそうな。そこで羽海野さん、アニメスタッフの方々にお礼の気持ちを伝えたいと何かを送ることにした。本当に喜んでもらえるものが送りたいと、現場に伺った際に直接スタッフに要望を聞いて、色々と思考錯誤しつつ繰り返し送っていた。ある日、羽海野さんは自分の送ろうとしているものを見て愕然とする。「これ、田舎のお母さんが一人暮らしの子供に送る救援物資的な何かだ・・・」。大好きです、羽海野先生。

『恋する原発』も愛と過剰さでできていると思った。高橋さんの家族、小説そのもの、大切な人々、ニッポンのみんな、世界のみんなへの過剰な愛。高橋さんはその愛と過剰さからヒーローになることが多い。でも『恋する原発』で高橋さんはヒーローになろうとしたのではなくて、羽海野さんの漫画に出てくる尻尾を全力で振っている犬になろうとしたんだと思う。あのときは、みんな今までにないくらい怒ったり、悲しんだり、絶望したりで疲弊していた。みんなが厄日続きのサラリーマンだった。そんなサラリーマンを救えるのは羽海野さんの描く犬たちだ。疲弊しきって玄関を開けると、犬は全力で尻尾を振って自分に駆け寄ってくる。そして顔をベロベローってなめあげる。「おかえり!ご主人!疲れてますね!でも、私はご主人に会えてとにかくうれしい!遊びませんか?私、とにかく遊びたいのですが!」「お前はいいな気楽で、悩んでる自分がバカみたいに思えてくるよ」「ワンっ! (ほんとは色々分かってるけど・・・)」


ちょっと脱線して、高橋さんを知ろう ②贈与のひと

『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』に、午前0時の小説ラジオという連投tweetが4点掲載してある。一つめの小説ラジオは、3月21日の『正しさ』について—『祝辞』だ。2011年3月、卒業式を行わない大学が幾校もあった。高橋さんが勤める大学も卒業式をおこなわないことを決めたらしい。当時の高橋さんは「たとえ建前でも真理を教えるのが大学なのに、よくわからない理由で卒業式を行わないのはいかがなものか」と憤っていた。学生の多くも納得がいかなかったのか、卒業式を行うはずだった日に、少しだけ着飾って学校に集まり「卒業式」のようなものを自主的に行った。そのときに高橋さんが読むつもりだった「祝辞」をtweetにしたのが、3月21日の『正しさ』について—『祝辞』だ。演説には人一倍うるさい高橋さんがつくった祝辞だから、大変に素晴らしいものだ。全文を是非、みんなに読んでほしいのだが、今回は僕がみつけた高橋さんらしさがでている場所を抜粋したい。

祝辞20 あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。それでいいのです。もし、あなたが、どうしても、積極的に、「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。

祝辞21 いいですか、わたしが負担となる金額を寄付するのは、いま、それを心からはすることができないあなたたちの分も入っているからです。三十年前のわたしなら、なにもしなかったでしょう。いま、わたしが、それをするのは、考えが変わったからではありません。ただ「時期」が来たからです。

祝辞22 あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。その「時期」が来たら、なにかをしてください。その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。共同体の意味はそこにしかありません。

文脈を補足しておくと、①幾人かの教え子が「なにかをしなければいけないとおもうのだけれど、なにをしていいのかわからない」といった。②高橋さんは、被災地に、かなり大きな寄付をすることにきめた。③でもこれは、今、声高に言われる「正しさ」という同調圧力に従ったわけじゃない。というようなことから祝辞20のtweetにいたる。さて、どこが高橋さんらしいかという話だ。高橋さんは、平川克実・内田樹両氏との対談『劣化する言葉、憂鬱な現実』 で次のような話をしている。(※1)

僕の父親は76歳でなくなったんです。今から20年前。僕は父親のことが大嫌いで、早く死んでほしいと思っていた。死んだときは「清々した」とまで思った。ところが10年前、子どもの歯磨きを一緒にやっていたとき、鏡に父親がいた。「あ、化けて出た!」と思ったら、何のことはない自分だった。父親と同じ顔になってしまっていたのだ。鏡など、毎日みていたはずなのだが気が付かない。気がつく日は突然にやってくる。そして、なんだか泣けてくる自分に気がつく。父親が何を考えていたのかわかるのだ。彼は、子どもを、ただ、かわいいと思っていたのだ。

父親のことを聞くと、ギャンブルが好きで芸術家肌の人だという。それ、俺じゃんと思った。ほぼおんなじ(浮気ばっかりするところも)。そのとき、ふと不思議なことを思った。僕が前にいたんだ。彼というのは、僕だったのかもしれない。

さっき言った、重苦しいものを切るというのは、過去をきるということなんです。現在だけで生きる。で、それがいいと思っていた。でも60歳になってやっとわかった。「過去がない自分というのは、未来もない」と、人間の容量をわざわざ減らしていた自分に気が付いた。過去というのは、現在のためにある。父というのは、現在の僕のためにあったんだと気がついた。そのときから、僕は過去のことを急に研究し始めることになった。

家風という話もあったので、その話もしたい。うちの家風は「食べにいったら、必ずお前がみんなの分を払って帰れ」だった。母親から聞いた嘘みたいな話がある。うちの父親の友人が集まって酒を飲んでいると、いつも父親は慌ててかけつける。「誰かに払われてしまうんじゃないか」と不安で、慌てていたそうである。

僕もすっかり同じで、人に払わすのは恥だと思うようになっていた。彼は貧乏なときもそうであったらしい。

大変にいい話なので、長く引用してしまった。しかし、申し訳ないのだが、この話を引用した理由は、高橋さんが「食べにいったら、必ずお前がみんなの分を払って帰れ」という家風をすっかり身につけてしまっているということを抑えてほしいだけだった。それを抑えて、3月21日の『正しさ』について—『祝辞』の抜粋部を見直してもらいたい。高橋さん、かっこよく言っているが、要は、またおごっちゃったのである。そう、高橋さんは贈与の人なのだ。贈与とは何か。贈与は、give&takeやら等価交換ではないよということだ。AさんからもらったらAさんに返さなきゃというのが、give&takeの要だ、できたら同じぐらいの価値のものを、できるだけ早く。でも贈与はその返礼を禁じる。だから、高橋さんは言う「その『時期』が来たら、なにかをしてください」と。


※1 引用は、いずれも、声と語りのダウンロードサイト・ラジオデイズ http://www.radiodays.jp/で販売されている音源より筆者が書き起こした。なお、書き起こす際に、意味をゆがめないように注意しながら、多少の書き加え・書き換えをおこなっている。

文字数:7625

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