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倒錯するシニフィエ、浮遊するシニフィアン

浮遊する「記号」

 

音がなる。別の音がなる。空間が現れる。空間に語が浮かぶ。語は解体し、音に組み込まれ、次の語の足場となる。
描線の群れが盤上デザイン踊り、ゲームを繰り広げる。布陣が入れ替わる。はぐれた線がノートに書きつけられる。それはMに似ている。―折笠良

 

折笠良『エンドゲーム・スタディ』

 

現在、21_21デザインサイトで開催されている『AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展』は、ミュージシャンの小山田圭吾(Cornelius)の新曲『AUDIO ARCHITECTURE』に合わせて制作された9組のアーティストによる映像作品である。
 参加アーティストの一人、折笠良による『エンドゲーム・スタディ』(2018)は小山田の歌詞に出てくる言葉(シニフィアン)がスクリーン上で浮遊する。記号が意味を失い、「ダンサー」として踊っている。

 

夜の終わりかた

 

tofubeatsの『朝が来るまで終わることのないダンスを』(2016)は、tofubeatsの盟友imoutoidの死に際して作曲された。この曲は、ダンスという「シニフィアン」からかけ離れた「切なさ」が漂っている。MVには、活気づく夜の街が朝に至るまでの都市風景が映されている。それは「ダンス」という活気に満ちた言語とは対極にある、「凡庸な風景」である。
 ところで、ダンスについての曲といえば、小沢健二『今夜はブギー・バック』(1994)がある。現在でもカバー曲として多くの歌手に歌われる曲である。この曲は、夜の「始まり」について描かれている。そして、ダンスを描写する歌詞が並んでおり、ブギー・バックを表現するように歌詞や音を表現している。
 対して、『朝が来るまで終わることのないダンスを』は「ダンス=シニフィアン」に対して「別の仕方で」アプローチをとっている。曲のタイトルにも表れている通り、この曲は夜の「終わり方」を主題に作曲されている。MVを見てみると、そのタイトルの通り、ディスコで流れるようなミュージックが流れ、活気づく夜の街が映される。しかしイントロが終わるとともに、「ダンス」というシニフィアンを想定していた聞き手は、静かな夜の都市風景へ放り出される。そして、曲を通じて活気づく夜の街から、朝を迎えるまでの時間が表現されている。
 シニフィアンが離陸し、裏の世界が描かれる。Tofubeatsは以下の最小限の歌詞でシニフィアンの浮遊を表現している。

 

ああ夜が来て 町に闇が降るよ

だれもいない電車で見た景色を

朝が来るまで終わることないダンスを

朝が来るまで終わることない音楽を 

 ―『朝が来るまで終わることのないダンスを』

 

静かな都市風景を舞台装置に、「朝が来るまで終わることのないダンスを」という言葉が、浮遊しながら踊る。

 

 

時間イメージとしてのダンス

 

「凡庸な風景」と「ダンス」。tofubeatsはこの風景に何を見たのであろうか。着目すべきなのは、tofubetsのダンスへのイメージである。
 ここで、もう一本補助線を引こう。國分は『ドゥルーズの哲学原理』「第Ⅲ章 思考と主体性」において、ドゥルーズの戦後の映画を対象とした映画論『シネマ2-時間のイメージ』を取り上げている。國分によれば、ドゥルーズが思考の習得について論じた『プルーストとシーニュ』を行為として実践したものが『シネマ1-運動イメージ』『シネマ2-時間イメージ』と位置付けられている。ドゥルーズは『シネマ2』で、ロッセリーニの四部作(『ドイツ零年』、『ストロンボリ』、『ヨーロッパ一九五一年』、『イタリア旅行」)を通じて、ネオ・リアリズムの定義付けを行っている。

 

ネオ・リアリズムを定義するもの、それはこのような純粋に光学的な状況が浮かびあがることである(そしてそれは音声的でもある、ネオ・リアリズムの初期には同時録音がまだなかったけれども)。―ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間のイメージ』

 

『シネマ2-時間のイメージ』とは、『シネマ1-運動のイメージ』の続編である。
 國分功一郎によれば、ドゥルーズのロッセリーニにおけるネオ・リアリズムの定義は、映画をアンリ・ベルクソンの再認論で読み解かれたものである。國分の『ドゥルーズの哲学原理』では、この「運動イメージ」と「時間イメージ」の整理が行われている。

 「運動イメージ」とは、「登場人物が知覚する→知覚が行動を促す」。つまり、知覚と行動が直接つながっている(「運動イメージとは、知覚と行動の連鎖によって定義されるイメージである」『ドゥルーズの哲学原理』)。これを國分は、〈「運動イメージ」=「何をなすべきか」が明らかなイメージ〉と位置付けた。(たとえば、チャールズ・チャップリンの『街の街灯』で、チャップリン演じる浮浪者の、道の傍らで花を売るかわいそうな少女を「知覚」する→ボクシングでお金を稼ごうと「行動」する)

 一方で、「時間イメージ」は第二次世界大戦後に「運動イメージ」より移行されたものである。國分によれば、「時間イメージ」とは、「何をなすべきか?」が明らかでないイメージである。「知覚はもはや行動へと延長されない。登場人物は、状況に反応することができず、状況の中をたださまよう。」(『ドゥルーズの哲学原理』)(たとえば、ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』で、自転車を盗まれた父に対して、息子はただそれを眺めることしかできず、無情に時間だけが流れていく。)ドゥルーズは、アンリ・ベルクソンの再認論をベースに、「運動イメージ」と「時間イメージ」をそれぞれ「自動的再認」「注意深い再認」と位置付けている。では、「運動イメージ=自動的再認」と「時間イメージ=注意深い再認」は、いったいどちらが豊かなのだろうか。ここで、國分の行った、ドゥルーズの「自動的再認」と「注意深い再認」に対する比較に注目しよう。

 

 一見すると、自動的再認がもたらすイメージの方が注意深い再認がもたらすイメージより豊かなものに思える。注意深い再認はいくつかの特徴を引き出しては消えていくのに対し、自動的再認がもたらすのは対象そのもののイメージであるように思われるからだ。
 しかし、この豊かさは見かけだけのものである。自動的再認は実のところ、対象から、我々の関心を引くもの、反応や行動へと延長されるものしか取り上げない。
 それに対し、注意深い再認がもたらすのは、「いくつかの特徴」にすぎない。だが、この再認は我々に、対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強い、そのつど対象へと向かわせる。我々はしたがって対象の特異性と直面することになる。・・・
 それによって我々の前には、単に光学的で音声的なイメージが現れる。これこそが―ドゥルーズによれば―「真に豊か」なものである。―國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』

 

 

我々は、ドゥルーズの提示した「運動イメージ」と「時間イメージ」を、前者を小沢健二の『今夜はブギー・バック』、後者をtofubeatsの『朝が来るまで終わることのないダンスを』に読み換えることができる。『今夜はブギー・バック』が「ダンス」という知覚を表現に直結させているのに対し、『朝が来るまで終わることのないダンスを』は、知覚を「表現=行動」に連鎖することができない。MVで見られるようにディスコで流れるようなイントロが流れるが、歌が始まるとtofubetsの見ている都市風景のモンタージュが映し出されるだけであり、ダンスが「最小の回路」で表現されている。tofubeatsは、imoutoidの死に対して、リテラルなダンスとして表現するのでなく、無情に流れる夜の「時間イメージ」を主題として表現している。
 そういった意味で言えば、『朝が来るまで終わることのないダンスを』は、約20年前に小沢が提示したダンス・ミュージック『今夜はブギー・バック』を批判的に乗り越えようとした作品であると言えるだろう。

 言葉と対比される舞台を前に、我々は「ダンス」の「シニフィエ=イメージ」への想像力を掻き立てられる。

 

 イメージを膨張させるかわりに、収縮させること。他のすべての回路にとって内的限界として機能する最小の回路を探求すること、それが現働的イメージを直接的、対照的、連続的ないし同時的でさえある分身のようなものに接合するのだ。 ―ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間のイメージ』

 

 

参考・引用文献

・ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(2006)法政大学出版局

・國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(2013) 岩波現代全書

文字数:3494

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