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ファントームへのまなざし

世紀末に現れた少女

 

平成。1989に始まり2020年に終わるこの時代は、1991年のバブル崩壊とともに幕開けしたといえるだろう。昭和の戦後復興から続いた「大きな物語」が終焉し、ポップカルチャーは、『エヴァンゲリオン』などの「自我への意識」を主題とした作品が多く作り出される。
 そんな平成の幕開けから約9年、20世紀も終わりを迎えようとしていた1998年、15歳の少女が日本の音楽シーンを席巻した。宇多田ヒカルは1983年にアメリカにて、音楽プロデューサー宇多田照實と演歌歌手・藤圭子の間に生まれた。アメリカで幼少期を過ごした宇多田は、曲名や表現に英語が多用されている。また、時代に沿うように「自我」を主題とした作曲が多く見られる。

 

セルフセラピーとしての作曲

 

平成を象徴するポップカルチャーとして、宇多田ヒカルの6thアルバム『Fantōme』(2016)を挙げたい。「Fantōme」とはフランス語で「幻」や「気配」を意味する。このアルバムがリリースされたのは2016年である。
 実は、このアルバムをリリースするまでの2010年から2016年までの6年間、宇多田は「人間活動」として歌手活動を休止している。宇多田は「人間活動」をした理由について「有名人になってからの十数年間、どんどん自分が見えなくなっていってた」と述べている。この期間中、宇多田は母親の死、再婚、出産を経験する。宇多田はこのアルバムを、「人間活動」の期間中に亡くなった母・藤圭子へ捧げたアルバムだと述べている。藤圭子という今までは見えていた、そして見えなくなってしまった他者への「気配」に向けて歌ったアルバムである。

 

 今回のアルバム制作は「受け入れて、受け入れられる」というプロセスでした。作ること自体が究極のセラピーだったというか。母の生前はいろいろなことを公にできず、自分を制限していた部分もあったのですが、彼女の死とともに全てが公になって、自分に課していたセンサーシップ(=検閲)のようなものが無くなった。彼女が亡くなってすぐの頃は「もう音楽なんて書けないかもしれない」と思っていましたが、いざ書き初めてみると、羽ばたくぐらい自由に言葉が選べました。またその分、言葉の持つ力や難しさもあらためて感じました。―宇多田ヒカル

 

 ここでいう宇多田のセンサーシップ(=検問)とは、母・藤圭子の唄であろう。藤は昭和における代表的な演歌歌手である。宇多田はツイッターで、藤が宇多田へ演歌の持つ「暗く悲しい」表現の影響を与えたくないと言っていたことを述べている。(「Enka has a very particular style of singing, lyrics are often very sad, and my mother didn’t want it to influence my singing, or my life…」twitter/2010/10/11)
 母・藤圭子の死により、デビュー以来宇多田のセンサーシップ(=検問)であった藤圭子の演歌による表現への影響への懸念はなくなったのである。宇多田はこのアルバム制作におけるひとつの超克として、「日本語」への拘りを示している。アルバムに収録されている曲のタイトルもすべて日本語であり、曲にも英語による表現はわずかである。

 

 日本語の“唄”を歌いたかったんです。「真夏の通り雨」も始めから日本語だけの歌詞にしたかったし、日本語で歌う意義や“唄”を追求したかった。いまの自分の感覚だと、英語を使うことが“逃げ”に感じられて。あくまで自分の話ですけど、私の場合、歌詞に英語を用いる時は日本語ほど重要ではない言葉選びとか、シラブルの数が合うからとか、言いたいことを意図があって英語で言い直すとか、そんな感じだったんですね。まあ『First Love』の時はあの時なりに重要な使い方をしたりもしていたんですが。でも今回はそういうやり方だと「100パーの本気じゃない!」みたく思えて。だから本当に必要な言葉だけを並べて、しかもそれが自然と染み入るような日本語であって、尚美しいと思ってもらえる歌詞を目指したかったんです。―宇多田ヒカル

 

この言説に見られる日本語や唄への拘りは、藤圭子への強い影響を感じる。藤圭子の「死」により、「日本語の唄」がセンサーシップ(=検問)から宇多田の肉体へと刻印されたのである。実際に、収録曲は『真夏の通り雨』などに見られるように、藤圭子の「死」以前にはなかった「暗さ」「陰湿さ」「悲しさ」が全面的に表れている曲もある。
 では、『Fantôme』は具体的にどのようなことを主題とした曲なのであろうか。ここで補助線を引こう。清水浩司は『Fantôme』において、宇多田が「死と生」を日常的なポップアルバムとして昇華していることの重要性を指摘する。

 

 宇多田ヒカルの最新作『Fantôme』、その最大の特徴はなんといっても作品全体を覆う死と生の匂いである。死の要素は想像よりもはるかに濃く、深く、この作品を支配している。しかし本作が素晴らしいのは、単に死を扱っているという点にあるのではない。宇多田ヒカルという才能がそれを音楽的に高次元のレベルで昇華していることが重要なのだ。こんなに心地よく、美しいポップスの中で死というものを捉えた作品は近年の日本では聴いたことがない。本作は日常生活でも聴ける優れたポップアルバムになっているという点が非常に大事なのである。 ―清水浩司

 

宇多田は、昭和に藤が演歌で表現していた「死と生の匂い」を、現代(=平成)にポップとして表現した。では清水の指摘する「死と生の匂い」とはなにか。「桜流し」と「道」を例に詳しく見よう。「桜流し」は東日本大震災後の2012年に発表された曲で、6年間の「人間活動」期間の中で唯一発表された曲である。「道」は2013年に亡くなった母・藤圭子への歌である。
 「桜流し」は「人間活動」中、それも震災直後に歌われた曲であり、宇多田の情動が見られる曲である。この曲では特に、開いたばかりの桜が散ることを歌っており「死」を主題として扱っている。一方、「道」は、先に述べたように母に向けた歌であり、母が亡くなった後の自分の「生」を歌っている。
 ここでは、『道』と『桜流し』のアルバムの収録での順番に着目する。アルバムでは、『道』が1曲目に、『桜流し』が最後の12曲目である。宇多田が、このアルバムのテーマは「輪廻」であるというように「生」から「死」が流れるように収録されている。そして、最後の『桜流し』が終わると『道』が始まり、アルバムを通して「輪廻」が繰り返されているような表現をしている。

 

 

他者との対話

 

もう一点このアルバムで着目すべき点は、「他者との対話」による作曲である。『Fantôme』は清水の指摘する「死と生に匂い」とともに、他者との共作が3曲収録されている。「人間活動」以前の宇多田は、自己の内面を描くことで大衆の共感を得てきた。そのため、デュエットの曲を出すことはほとんどなかったが、このアルバムでは椎名林檎や小袋成彬、KOHHとのコラボレーションによる曲が収録されている。
 とくに『二時間だけのバカンス』でデュエットした椎名林檎は宇多田と同じ1998年にデビューし、平成のJ-POPシーンを席巻してきた。平成を代表するアーティスト、宇多田と椎名が共演した『二時間だけのバカンス』は、「日常と非日常」をテーマにした曲である。

 

 日常と非日常の危うい関係を表現したかったので、母であり妻でもある二人なら説得力が増すし面白いかなと。私は子供が出来るまで“日常”というものがなかったので、日常を手に入れた分、非日常的なスリルを求める気持ちも分かるようになったんだと思います。

-宇多田ヒカル

 

この『二時間だけのバカンス』では、宇多田と椎名が交互に歌う方法がとられている。この歌で興味深いのは、宇多田と椎名で「バカンス」の位置付けが異なっている点である。

 

朝昼晩とがんばる 私たちのエスケープ

思い立ったが吉日 今すぐ連れて行って

二時間だけのバカンス 渚の手前でランデブー

足りないくらいでいいんです

楽しみは少しずつ ―(『二時間だけのバカンス』宇多田ヒカルサビパート)

 

家族の為にがんばる 君を盗んでドライヴ

全ては僕のせいです わがままにつき合って

二時間だけのバカンス いつもいいとこで終わる

欲張りは身を滅ぼす

教えてよ、次はいつ? ―(『二時間だけのバカンス』椎名林檎サビパート)

 

宇多田のサビパートを見てみると、これは明らかに「人間活動」の事について表現している。忙しい「非日常」からのエスケープとしての「日常=バカンス」である。一方、椎名のサビパートは、家族のためにがんばる男(=他者)の「日常」を盗むスリルを味わう「非日常=バカンス」である。
 「バカンス」の定義を、宇多田は「束の間の日常」、椎名は「スリルを味わう非日常」と定義している。『二時間だけのバカンス』における、宇多田と椎名にとってのバカンスの交錯による表現は、他者との対話だからこそ得られる複層性を帯びている。
 またこの曲を通してわかるのは、自分の内面を「打ち明け話」のように歌っていることである。KOHHとのデュエットである『忘却』でも人間活動へ至る苦悩を「打ち明け話」のように表現している。

 

平成におけるファントームとは

 

ここでまとめに入ろう。どうして『道』や『桜流し』に見られる「死と生の匂い」、『二時間だけのバカンス』に見られる「他者との対話」によって構成される『Fantôme』が平成が象徴していると述べられるのだろうか。
 『道』や『桜流し』に見られるのは、デビュー以来宇多田が追及し続けた「自我」の、「人間活動」(=母親の死、再婚、出産)を通して迎えた極地であろう。
 『二時間だけのバカンス』での、「他者との対話」に見られるのは東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べた「大きな物語が終焉したあとの小さな物語」である。小さな「バカンス」の共演による「離散的」な作曲は平成を象徴していると言えるだろう。
 平成を席巻した宇多田ヒカルが「人間活動」を経て世に送り出したこのアルバムは、まさに現代における浮遊した「気配」「幻」へのまなざしであり、アンビエントな時代を象徴している。

 

参考・引用記事

・Real Sound「宇多田ヒカル『Fantōme』を大いに語る」(http://realsound.jp/2016/09/post-9393_2.html)

・encore「宇多田ヒカル特集vol.1――『Fantōme』ディスクレビュー (http://e.usen.com/special/12941/)

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