本当にさようならクリストファー・ロビン
テディベア。
人間を食らう獣の偶像は、同時にもっとも愛されてきた偶像でもあった。語源であるセオドア・ルーズベルト米大統領が熊を助けたエピソードは20世紀初頭の逸話であるが、いまや21世紀のテディベアは、子供たちが描く空想の世界から飛び出して、拡張現実の世界に活きている。テディベアの表象を探求することは、空想と理想が入り乱れた暗澹たる時代に、子供じみた大人が子供に大人になるように諭す社会に、またはこの、動物はいないのに動物性で溢れかえっている奇妙な世界に、少しでも、わずかにでも道筋を示す灯光になりはしないだろうか。彼らを大人になり切れなかった大人の残骸として切り捨てるのは簡単ではあるが、まずは彼らのストーリーに耳を傾けようと思う、断罪するのはそのあとでも遅くはない。そう、もうテディベアに語りかける時代は終わり、彼らの語りを聞く時代になったのだ。
『プーと大人になった僕』(原題:Christopher Robin)。
クリストファー・ロビンは100エーカーの森を去ったあと、寄宿学校生活や従軍経験を経て、今では家庭をもち、鞄メーカーの中間管理職として多忙を極めている。人員削減を迫られ、家族でサセックスの故郷に戻る予定を中止して、自宅付近で人員整理に悩む中、プーは彼の前にひょっこり現れる。彼はプーとその仲間たちと共に徐々に子供時代を思い出し、家族とプーの仲間たちの重要性を再認識して、それゆえに仕事でも成功収めるのだった。空想のなかの住人であったクリストファー・ロビンが大人の世界で躓き、その後空想の世界の力を借りて現実を世直しするという展開は、ファンタジー「実写」映画の鉄板的な展開なのかもしれないが、それでもクリストファー・ロビンという空想世界の代表的な人格が大人になったということはなんとも解しがたい事実だ。
まず気をつけるべきなのはこの映画はディズニー版の『くまのプーさん』であるということ、にもかかわらず、そのアメリカ版のプーさんが、本家のイギリスを舞台にするという、屈折した舞台設定になっていることである。私たち一般に目にする『くまのプーさん』はディズニー版のカートゥーンであり、アクション性のあるコミカルな作品であるが、A.A.ミルンによる原作はイギリスの童話らしい落ち着いて詩的な雰囲気を持っており、ディズニー版プーさんはかねてから原作ファンの攻撃にあってきた。ではなぜこのような設定になったか言えば、やはりクリストファー・ロビンの大人時代というある種のシリアスさを描くのに、アメリカよりはイギリスを舞台にしたほうが、描きやすかったからではないかと推測する。または、従軍経験や寄宿学校生活など、クリストファー・ロビンのモデルである、A.A.ミルンの息子、クリストファー・ロビン・ミルンの半生を「少しだけ」重ねることを意識した結果なのかもしれない。
どちらにしても、クリストファー・ロビンを大人として描く矛盾性は、この映画のみならず、テディベアというモノにまつわる呪いである。子供はモノ(動物のぬいぐるみ)を動かして、逆説的な意味での<動物(動モノ)>にして遊ぶのである。それが反転して、この映画では「動物を模したモノが動く<動モノ>の世界を模した実写世界」というなんともパラドシカルで不気味な世界になるのである。
『くまのプーさん』(原題:Winnie the Pooh)は、もともと熊ではなく、熊のぬいぐるみとして描かれたことは十分に特筆すべきことであるように思える。なぜなら、そこにはすでに子供の目からみたオママゴト性(幼児性)を帯びているからだ。このオママゴト性とは、動物と<動モノ>を区別する目を持つということである。しかし映画ではその幼児性を「なにもしないこと」として一旦否定され、大人がそれを回復するという子供視点のオママゴト性を理解しない展開になっている。劇中、プーとその仲間たちと「現実世界の住民」とが遭遇するが、これが単なる彼らの驚き(例えば「ぬいぐるみの言葉がわかる」魔法や超科学的な仕掛けを噛ませることすらなく)として片付けられてしまうことは、子供の世界と大人の世界が陸続きである証左と言えよう。それは「センス・オブ・ワンダー」ではなく、単なる「アメージング」を求める現代の象徴でもある。まとめるならばこの映画は、現実から空想へ向かうことを、子供や大人という区別なく肯定的に扱う、現代の拡張現実的な世界観を見事に表現した作品であると言えるだろう。
『ブリグズビーベア』(Brigsby Bear)
幼い頃に誘拐されたジェームズは怪しげな数学の研究に没頭する夫妻に監禁されていた。夫妻は彼に外は危険であると教え、外部との接触絶ち、ニセの教育番組である「ブリグズビーベア」を見させて倫理性を教えようと考えていた(しかし夫妻は予想以上に番組を熱心に見続けるジェームズに困惑気味である)。そしてついに、夫妻は警察に逮捕され、ジェームズは保護される。彼は本当の両親に暮らすようになるが、幼い頃から監禁されつづけて、「ブリグズビーベア」でしか人間関係を知らない彼にとって、現実社会は摩訶不思議なものであった。そして紆余曲折経て、彼は仲間たちと「ブリグズビー」を完成させるために映画制作に乗り出していく。
『プーと大人になった僕』とは対照的に、『ブリグズビーベア』は空想から現実へ目覚める物語である。空想を単なる空想で終わらせるのではなく、周りを巻き込んで自己実現と社会参画を両立させたジェームズの姿は、独我論的空想から抜け出すためのサクセスストーリーだ。「ブリグズビー」は小さなテディベアというよりは、等身大のマスコットキャラクターであり、ジェームズもまたそれを理解しているのであり、「プーさん」の世界とは一線画する世界観であるが、しかしそれは物語の冒頭部分、つまりジェームズが保護されたあとの話であり、彼が監禁されていた時の彼の世界観は十分に拡張現実的であったと想像するのは容易い。「ブリグズビー」の番組はジェームズにとって<動モノ>的であり、それでいてオママゴト的でもあったのだ。
仲間たちと作った「ブリグズビー」映画が上映され、ジェームズはスタンディングオベーションで観客に迎え入られる感動的なラストシーンで幕を閉じるのであるが、果たしてその後のジェームズとブリグズビーの人生を苦慮することは単なる邪推であろうか。彼は自立できるのか。彼はブリグズビーに執着し続けるのでは。すでに劇中ではその特異な出自が周囲弄ばれており、それが彼を映画制作に向かわせる要因になるのであるが、映画の完成はむしろブリグズビーというモノに依存することになる。ジェームズはブリグズビーがいることで、ようやくジェームズであることができるのだ。結局のところ、彼もその周囲も、ブリグズビーというモノが動くことで<動モノ>的空想性に希望を見出したのであり、ジェームズは決して自由になってはいないのだ。
モノをモノとして扱うことは、モノに相互作用を求めないこと、「なにもしないこと」でそれを信じ続けることである。ブリグズビーはモノである限り永遠に存在しつづける。それに話かけつづけることは、やはり幼児的であり続けるということである。ブリグズビーとジェームズの10年後は、アイロニカルでアダルトな「大人」の物語になり得るのだ。
『テッド』『テッド2』(Ted, Ted2)
悪態をつきながらマリファナをふかすテディベアのテッド。想像するだけで可笑しな設定だが、劇中ではもっとひどい。国民的なカートゥーンである『ファミリー・ガイ』ではピーター・グリフィンを演じるセス・マクファーレンは、落ち着きのない「ダメな」テディベアを快闊なボストン訛りで飛ばしていく。クマのぬいぐるみが職探し、友情、恋愛、結婚に頭を悩ませ、人工授精による出産を決意する。笑いの種は尽きないのであるが、笑ってだけではいられない。この作品から人間とモノの関係に決定的な変化を見出すことができるのだ。
『プーと大人になった僕』や『ブリグズビーベア』では大きな摩擦となっていた空想と現実の折り合い、動くモノ(テディベア)が人間社会に認知される過程は、『テッド』においてはわずか3分で完結してしまう。しかし、『テッド』における「ぬいぐるみがしゃべることへの驚愕」が3つの映画の中でもっともリアルであることは大変な皮肉であると思う。ジョン・ベネット少年が「友達がほしい」と願い、テッドが誕生した「奇跡」が起きたのは1985年であったが、時は残酷に過ぎ去り2012年、35歳になったジョンとテッドはうだつが上がらないオッサンコンビになっていた。いつまでも雷におびえるジョンとテッド。ジョンの彼女に疎まれ、部屋から追い出されたテッドは悪態をつきながら職探しを始める。ジョンもテッドも大人になりきれない子供じみた大人である。しかし、R15+指定の映画であることからもわかるように、映画内容は極めてアダルトである。テッドの暴言の数々は、ポリティカルコレクトネスに雁字搦めになっているアメリカ人の鬱憤晴らすものである。人間が言えない本音を、テッドが代弁しているのだ。インド系アメリカ人に「9/11をありがとう」、黒人の精子バンクを拒絶された精子と決めつける、ウェイトレスが「ファックミーアイ(あたしとヤッての目)」をしていると騒ぐその姿は、中学生でしかないが、しかし同時にポリコレに神経を尖らせて身動きが取れない現実の閉塞感を打ち破る、「大人」な発言にも聞こえてしまうから不思議である。現実世界の停滞と、アイロニーがインフレ的に盛り上がっていくシニカルさは、いわば「スタグフレーション」のように、なにも解決しないのにも関わらず、なりふりかまわず膨張していく。成長も成熟もなく、そこにあるのは通貨的な膨張だけなのだ。
ベルクソンは近代における笑いとは「生命活動の機械化」であるとした。チャップリンの『モダンタイムス』のように、本来なら可変的な主体である人間が、モノ的(機械的)な反復を繰り返すことがアイロニーとして捉えられていた。しかし『テッド』では、モノがせわしく動き回り、人間的に振る舞う<動モノ>性こそがアイロニーの正体である。テッドは<動モノ>である限り、ジョンを永遠に子供と大人の中間に宙づりにさせる。アイロニカルな<動モノ>から問わなければいけないのは、そもそも結局のところ大人とはなんであるのか、子供とはなんなのか、その違いはあるのかということである。子供じみているのにアダルトなテッドが暴言を吐き捨てて、それを見て大人が子供のように笑う世界は、『プーと大人になった僕』に負けず劣らず、私たちを困惑させるのである。
『さよならクリストファー・ロビン』と『グッバイ・クリストファー・ロビン』
私たちは道筋を照らそうと、ここまでテディベアをめぐる表象を見てきたが、残念ながら進めば進むほど隘路が狭まっていくように思える。しかしもう一度だけ辛抱して『ウィニー・ザ・プー』の世界にお付き合いいただけないだろうか。テディベアがモノから<動モノ>になった100エーカーの森。ここに立ち戻らなければ、私たちは永遠に「プーさん」の世界からは逃れられないのだから。
クリストファー・ロビンが『プー横丁にたった家』の最後にプーにいった「なにもしないこと」。このことの恐ろしさを非常によく描いた短編小説が高橋源一郎の『さよならクリストファー・ロビン』である。この世界は誰かが描いた物語の世界であり、そして誰も物語を書かなく
なったせいで世界は徐々に虚無に飲み込まれていく。最後に残ったプーとその仲間たちは物語の中に生きる偶像の残酷な運命を嘆き、ついには皆消えていく。
この短編小説では大人と子どもの区別がない世界、物語を語る側と語られる側が同一の世界、あるいは大いなる外部を持たない世界の不可能性を端的に示している。大人は大人だけでは物語は作れないし、子供は子供だけで物語を作ることができないのだ。逆にいえば大人と子供の区別が物語一般の十分条件であること、またその持続性は大人と子供という存在によって担保されるという法則を導き出せる。高橋は、まさにこの場で「大人であることはなにか」を突き付けている。私たちはやはりクリストファー・ロビンに戻らなければならない。
『グッバイ・クリストファー・ロビン』は2017年の映画であるが、前述の「プー」映画とは似て非なる史実ベースの伝記映画である。原作者A.A.ミルンとその息子、クリストファー・ロビン・ミルン(以下クリストファー・ミルン)の「本当の」半生を描いている。この映画では『くまのプーさん』の制作秘話を伝記的に紹介し、(たとえば、プーという名称が近くの沼にいた白鳥に由来すること、クリストファー・ミルンは当時家族からビリー・ムーンと呼ばれており、「クリストファー・ロビン」という名前にはなじみがなかったということなど)また「世界一有名な」息子となったクリストファー・ミルンの葛藤も重要なテーマとして扱われている。映画では最終的に父と息子は和解したように見えるが、現実は映画よりさらにシビアな様相を呈している。クリストファー・ミルンの自伝である『クマのプーさんと魔法の森』(原題:The Enchanted Places)では、クリストファー本人の悲壮な叫びと、美しい思い出が混在する複雑な思いが垣間見れる。
・・・父が私の幼い肩に乗っかって、現在の地位にのぼり、私から名誉を奪い去り、ただ、父の息子であるという空虚な名声だけ残してくれたのではあるまいかと思えるときもあった。

彼は単に本名がクリストファー・ロビンあるということ、クリストファー・ロビンのモデルであるということで苦しんだのではなく、子供時代のクリストファー・ロビンが奪われ、しかしそれが同時に自分の外では存在し続けるというアンビバレント状態に苦しんだのだ。彼はその後、クリストファー・ミルンとして生き、幼い頃のクリストファー・ロビンと「プーさん」(実際にはエドワードという名のテディベアであった)を封印しようとするであるが、しかしそれは「世界一有名なテディベアとその伴侶」がいる世界では許されなかった。彼は常に二人に分裂して生きていかざるを得なかった。彼は就職することをあきらめ、ひっそりと本屋を営むことになるのだが、その後も「クリストファー・ロビンの本屋」「どうせ親の印税で賄っている」という世間の声に苦しんだ。そのためか、彼は父の死後も『くまのプーさん』の印税をもらうことを拒否し続けた。これは成人後の両親との関係悪化も影響していたようだ。
クリストファー・ミルンには脳性麻痺障害をもつ一人娘、クレアがいた。ミルン夫妻は、終生クレアを熱心に看護し続けた。彼は工兵としての従軍経験を活かし、クレアの生活に合った「椅子、お盆、皿やフォーク」をハンドメイドで作ったが、それは彼にとって大きな喜びであったようだ。彼の友人であった作家のガイルズ・ブランドレスによれば、クリストファーは最終的に「クレアのために」と父からの印税を受け取ることを決めたのだが、不思議なことに彼が「父母の遺産」と表現したものは、クレアに工作物を作ることができた才能のほうであった。
1996年、クリストファー・ロビン・ミルンは亡くなり、クレア・ミルンは2012年に逝去している。A.A.ミルンからの遺産は現在でも「クレア・ミルン・トラスト」としてイギリスのコーンウォール州とデヴォン州の障害者支援基金として生き続けている。晩年のクリストファーは、動物園にて「プーさん」のモデルになった「クマのウィニー」像の除幕式に姿を現したり、その他慈善活動を熱心に行ったと伝えられている。
ところが、不幸にも、フィクションの上のクリストファー・ロビンは死ぬことを拒み、彼と彼の生きている同名人は、いつもうまくいくというわけにいかなかった。

普通の主人公であればすぐに忘れ去られてしまうのに、永遠に空想世界に存在し続けるクリストファー・ロビン。<動モノ>が大人のオママゴト性を隠蔽しつづける時代、<動モノ>的空想世界に依存しつづける社会、アイロニカルに膨張し続ける<動モノ>になんの手立てを打てないでいる世界。この変種の拡張現実に最初に向き合ったのは紛れもなく、クリストファー・ミルン本人である。彼はモノを信じること、モノから応答を求めないこと、「なにもしないこと」を受け入れること、これを実践せざるを得なかった。彼の「プー」はいつに動くことはなかった。そして彼は子供時代のクリストファー・ロビンに別れを告げたのだ。
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