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勝負の論理から戦いの論理へ―「意味のない無意味」から考えるスポーツ原論―

西暦2019年と2020年は、そう遠くない未来から見ても、現代日本史の巨大なメルクマールになることが間違いない年であるが、その政治経済的、文化的、歴史的意義を論じる以前に、両年は、「スポーツ」という人文学的になんとも評判の悪い概念の祭典であることを強調しておけなければならない。スポーツという文化活動が、社会的に絶大な影響力を持ちながら、非常に不安定な定義しか持たないのは、その歴史の浅さ故と、人文学者たちの学問的な琴線に触れないことから生じる不幸である。社会のモデルケースが戦争の英雄からスポーツ選手に代わったこと、社会規範がスポーツによって教育されること、また資本主義商業主義におけるスポーツなど、論じるべき事柄は枚挙に暇がないが、今回は、スポーツのとりわけ「勝負」と「戦い」に関する原理的な考察行う。(ひとまず、スポーツを競技性、娯楽性、教育性を含めた人間の諸身体活動であると定義する。)

スポーツは主に勝負をする。すなわち、勝ち負けを付けることが、大変重要な要素として位置づけられている。ここではいう勝負とは、競技性の有無に関係なく、明確な原因から結果が生じる事柄を指す。たとえば、陸上競技や複数で争う競技などは、1対1の対戦形式でない場合は厳密には勝敗はつかないが、その順位や結果が明示されるため、十分に勝負事であるといっていいだろう。また競技性がなくとも、例えば趣味でランニングをしたとしても、満足のいく結果や成果、快楽や苦悩が必ず存在する。これは広い意味で言えば、必然性をめぐる勝敗である。たしかに、純粋に楽しむために体を動かすことを「勝負」ということは奇妙な言い方であるが、考えてみれば、これらを脳内に分泌される「幸せホルモン」の量を競う勝負事である、と言い換えても何ら不都合はない。つまり、なんらかの因果的な必然性があり、また自分と同様の「相手」が存在する場合、すべての事柄は簡単に勝負に転じることができる。そして近代合理主義の発展に伴い、「祭」以上の意味をもつスポーツという概念が誕生したのだ。ではこのスポーツおける勝負の機能を今後「勝負の論理」と呼ぼう。
哲学者の千葉雅也は「無限に多義的な」近代社会の様相を、「意味のある無意味」として捉える。つまり、一つの対象を意味としては無限に広がるが、表現は有限なので、それは「穴」として有限性の中に無限性が残るのである。この「穴」に引き寄せられて接続過剰になることを千葉は戒めるのであるが、まさにこのブラックホール的な「穴」をめぐる争いはスポーツにおいては「勝負の論理」として顕在化する。ゴルフのホールやサッカーのゴールが、隠喩としてだけでなく、まさに「穴」として機能していることは言うまでもないだろう。またカンタン・メイヤスーは、カント以降の実在性をめぐる哲学的態度を「相関主義」として批判し、あらたな実在性を模索したが、これもまたスポーツの議論に引き合わせるならば、「勝負の論理」が敵と味方(事実性)を両サイドにわける「相関主義」であると読み替えられる。政治の文脈でよく使われるノーサイドという言葉は、昨今の政治状況を鑑みれば、お互いの事実性を確認する融和ではなく、相関主義が試合終了後も殴り合う「狂った」信仰主義に転落している状況を指す言葉であろう。

それではスポーツは単なる「勝負の論理」に動かされる受動的な「穴」でしかないのか。千葉は先ほどの有意味性を纏う「意味のある無意味」に対して、「意味のない無意味」という概念を立てる。物事がなにかの相関としてあるのではなく、ただ単にそこにあるのである。また千葉はこれを「意味のある無意味」の「穴」に対して、それに蓋をする「石」であるという。意味の多義性で接続過剰になった対象を切断する無意味、これが「意味のない無意味」である。「石」はスポーツでいうところのなんであろうか。球技におけるボールであろうか。学生野球の練習において、石拾いやボール拾いは下級生が行う雑用の定番であるが、間違っても石とボールを混合することはない。ボールは生きているのだ。選手と選手の間の相関によって規定されている。では「石」は何であるのか。千葉は「意味のない無意味」を「身体=形態」であるとする。また彼はラカンの「ファルス」に対して、常に変態し続ける存在として「パラマウンドparamound」という言葉を作り、これを「意味のない無意味」の身体として表現する。さしあたり、身体を「勝負の論理」対抗するものとして掲げることは間違いではないと思うが、しかしこの「パラマウンド」という概念はなんであろうか。千葉は、現代芸術家の森村泰昌「セルフポートレイト」作品群において、その魅力は脱構築性というよりも、無意味性にあるとする。森村の身体をめぐる表現は「戦い」である。ラカン的「ファルス」の受け入れも去勢も拒絶する「戦い」だ。千葉がいう「パラマウンド」とは、森村のこの無意味で自爆的な「戦い」を称賛する言葉である。つまりこの身体:パラマウンド:戦いとはスポーツにおける「勝負の論理」に先んじて存在する実在性である。これは、なにかのために戦うといった目的や理念を持つような戦いではない。ただ単に無意味に戦うのである。これを「戦いの論理」と呼ぶ。注意が必要なのは一般的に言われる「日の丸を背負い、チームのために、家族のために、夢を叶えるために、」戦うことは、この場合は「勝負の論理」として、「負けられない戦い」として現前化する。「戦いの論理」は無意味な実在性として、ただ単にある身体めぐる在り方だ。例えば、先ほどのノーサイドという言葉は本来ならばラグビーフットボールの伝統である、「アフターマッチファンクション(試合後の敵味方を含めた食事会)」のことであり、またそこでのジェントルマンシップ(紳士性)の相互確認であった。いわばそれは「勝負の論理」を排除した「戦いの論理」の発露の場である。しかしそれが「戦いの論理」という無意味な地盤を失った途端に、場外乱闘的な勝敗なき勝負の場になってしまうのだ。

以上の議論を踏まえてみると、巷にあふれかえっている勝利至上主義批判が大変歪んでいることに気づく。なぜなら彼らは、「勝利」至上主義を批判できても、「勝負」至上主義は批判できないからだ。彼らは、日本のスポーツ界における非合理性を指摘することで、持続性のない勝利主義を批判するが、最終的には(正しく)勝つためには時に負けること(休む)にも意味がある(「意味がある無意味」)という言説を強化しているにすぎない。スポーツにおける「ただ単に戦う」という身体性は考慮されることはない。昨今の例では、日本大学アメリカンフットボール部の違法なタックルおよび愚行は、「勝負を駆り立てさせたシステム:言語(監督)」の問題として解決したが、残念ながら「戦いにおけるただ単なる愚行:身体(選手)」について何か問題提起されることはついになかった。罰として必要であることは、非合理なものを合理的に矯正することではなく、非合理なものとして無意味に受け止めることである。

さて、この「戦いの論理」が「勝負の論理」に対して先んじて存在する必要があることを確認した上で、「戦いの論理」の危険性にも言及しなければならない。千葉雅也が問いかけている「単純素朴な暴力」は、まさにこの「戦いの論理」から引き出されると考えるのが自然であろう。彼は、力をめぐる議論においてサッカーやテニスを「効率性」を求めるスポーツとして退けて、自己破壊のマゾヒズムを基礎とするプロレスを挙げる。そしてプロレスにおけるマゾヒズムは子供の弱さに回帰することであり、この幼稚性こそがスポーツにおける下部構造であると主張する。「戦いの論理」はこの下部構造を主軸にして、またスポーツ全体も「戦いの論理」を地盤にしなければならない。それでも日大アメフト部の「事件」のように、時折幼稚性が暴力性に転化して暴走することは、避けられないだろう。しかしそれを極端に恐れて避けるのでなく、意味のない無意味として受け入れるべきである。

現代の合理性の波は、近代合理主義の落とし子であるスポーツがもっとも強烈に晒されている。しかし商業的国家的に強化され続ける「勝負の論理」は、スポーツに留まらず、我々の生活圏にまで拡張している。スポーツや各分野における勝利偏重傾向は、合理性という武器を片手に邁進しているが、つまるところ彼らの行きつくところはギャンブルでしかない。世界一のギャンブル大国である日本では、いまや、女子高生までが「ワンチャンある」と叫び山師的享楽に耽っている。そもそもスポーツの起源たる古代祭典の類は、理性や合理性、ギャンブル的娯楽が入る余地がほとんどなかった。むしろ合理性からあぶれたカオスや剰余の発露としての役割が強かったはずだ。しかし、今スポーツを巡る状況は勝負の合理性を突き詰めていき、カオスを回避する方向にある。プロ野球におけるコリジョンルール、サッカーにおけるVARなどテクノロジーの導入は、避けられない合理化の波である。これに対抗するために「戦いの論理」はもう一度再考されるべきである。たしかに戦いは危険ではある。しかし「意味のない無意味」としての戦いは、本当に無意味である限りにおいて我々の身体であり、変態し続ける「パラマウンド」のぶつかり合いである。我々に真に必要なものは、「ワンチャン」や勝ち目がなくとも戦い続ける無意味な気概なのかもしれない。

文字数:3875

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