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AIと動物

 

今日もいつも通り「クリエイティブ」な仕事が終わり、夜の街を自動運転車に導かれて帰宅する。アレクサに宅配を命じて、静まったリビングでソファーにもたれかかると、最新のインターフェースが自動で表示される。明日の予定を教えてくれる人工音声にうんざりしながら、面倒なSNSに対処した後、ようやく安堵の笑みがこぼれる。しかしながら、人肌寂しいひとときに癒しを与えてくれたのは、数々の文明機器でなく、他愛のない猫動画であった。果たして、私たちが求めているのは高度な知能を持つ機械なのか、それとも、まぬけでかわいい動物たちなのか。

 

人工知能(以下AI)に関する諸課題を一言で要約すると、AIが自分の意志で行動できるようになるのかどうか、である。難しい言葉で言えば、志向性のある知能と、差延による自意識を持つ、超越的主体を人間が作り出すことができるのか、という問題だ。現在のところ「教師データ」をAI自らによって生み出すことはできない。最初の「教師データ」は人間が入力する必要があるだけでなく、「生徒」が迷うとき必ず「教師」が修正しなくてはならない。より高度なAIには、自分自身から発せられた差異に気づき、それにより自身を対象化する「自己触発」必要なのである。

かつてパスカルがデカルトを批判した際、神を原初に「一弾き」するだけの存在に貶めているといったが、AI技術においては、最初のスイッチ「一弾き」で、あとはすべて自律的に発展していくシステムが望まれている。これら諸課題は、総じて、人間とはなにか、知能とはなにか、といったトートロジカルな命題に回帰する。そもそも人間の知能が「自己触発」的に作動しているかが怪しければ、それに準じたAIが自律的に作動するはずがない。AI技術の発展とはすなわち、自己言及的な研究活動が、単なる円環的な循環で終わることなく、より高次元の議論を生み出すことができるかどうかということである。「人間の知能」における研究は必然的に「人間」がなんであるかという非常に実存的な問題を掘り下げていくになる。これはそれなり有意義なことであろう。しかしそうなると、ある疑問が浮かんでくる。一般的に言って、私たちがAIに期待していることはなんなのか、ということである。すでに十分すぎるほど現代人の人間活動を代替できるほどにAIは発達しているが、これは人間存在への深い理解を私たち自身が望んだ結果なのだろうか。人間の「一弾き」で動き出すロボットは、ちょうどデカルトが神の存在証明を行ったような、人間の存在証明から引き出された賜物で、それはそれで学究の成果として尊敬を集めるだろう。しかし本当にそれだけだろうか、AIに対してもっと別の欲求はないだろうか。

 

 

AIに関する議論は常に、人間の模造としての機械知能をいかに作り上げるか、もしくは逆にコンピューター技術から人間の脳を考えるといった、人間と半人間的な存在との関わりとして行われてきた。これは、言うまでもなく、人間を神の似姿として描く、啓示宗教の創造神と被創造物の対立構造を引き継いでいる。デカルトは創造神を始点にして、機械論的自然観を展開する。その後、神の自明性を根拠とする大陸哲学は、イギリス経験主義に批判され、最終的にカントの『純粋理性批判』によって退けられる。哲学史とシンクロするならば、人間存在を絶対的な根拠として組み立てるAI論は、カント的な批判哲学に晒されるべきであると思うが、ここでは深くは考察しない。それより、まず神と被創造物との関係から脱してから、AIの議論を見つめ直してみよう。

人間は、ホモサピエンスとして栄える遥か以前から、自らの身体以外を道具として扱い、様々な目的のために用いていた。その中でも動物の利用は革新的であった。ヒツジやヤギ、ブタといった家畜は約1万年前に家畜化されたといわれているが、それよりもさらに古くから人間に利用されていたのはイヌである。しかし、その時期については非常に幅広い説があり、定説はない。更新世(260万年前)の中期から、徐々に人間と生活圏を縮めていき、オオカミと混血を繰り返しながら家畜化されていったとされる。これら使役動物および家畜は、文字の歴史より長く、文明始まって以来、産業革命に達するまで、もっとも重要な動力源や食糧源であった。ここでは、「家畜」と厳密には家畜に入らないが人間に利用される動物たちを含めて「家畜的動物」を区別しよう。この家畜的動物たちは、物質的な貢献はもとより文化活動においても多大な影響を残したことは言うまでもない。古代洞窟絵画に描かれるのは動物であり、また原始宗教おいては動物的存在が必ず介在する。これらの事実を考慮するならば、やはりAIやそれに付随する技術も、少なくとも表象的には家畜的な存在であると言える。この発想はAIに限らず、すべての文明機器を動物のメタファーとして捉える「擬動物化」として拡張されうるが、ここではAIの自律的な存在という点を強調することで、ひとまず拡大解釈を避けたいと思う。

さて、AIには二つのタイプがあるとわかった。「人間の似姿として人形(機械)」と「家畜的動物としての機械」である。前者は原理的な学究段階であり、後者は発展応用段階にあるとも言える。前節での私たちの疑問には、人間は後者の「家畜的動物としての機械」を求めているのだ、と答えるのが今のところ適切であると思われる。

 

 

それでは、より議論を進めて、この「家畜的動物」がAI議論のアポリアとなっている諸課題においてどう対応しうるかを考えていこう。まず根本的に、動物は超越論的主体になり得るか。これはどうやら不可能である。なぜなら言語を持たないからだ。デリダの用いた差延という用語は、自分から発せられる差異を記号によって表現することで、自己を対象化して、自意識を獲得できるということである。やはりここには言語が介在しなければならない。

一方ハイデガーは、「石には世界がなく、動物は世界が窮乏していている。」と述べて、現存在(人間)の優位性を説いたが、アガンベンはそう一筋縄ではないハイデガーの叙述に注目する。

問題が困難を極めるのは、われわれの探求では、こうした動物の窮乏や動物固有の囲い込みを解釈するために、あたかも動物に関連する事柄をひとつの存在者であるかのように問題を想定するとともに、その関連を動物に顕著なある存在論的な関連として想定しなければならないという点にある。実際、この規定通りにはいかない以上、必然的に〔動物の〕生の本質は破壊的考察という形式においてのみ近づきうる、というテーゼに帰着することになる。だからといってこのことは、人間存在にくらべて〔動物の〕の生には価値がない、もしくは低い水準にあるといったことを意味するわけではない。むしろ〔動物の〕生とは、人間世界ではおそらくまったく認識されない開かれた存在に満ちた領域なのである。(Heidegger 1983, 371-72)

 

ハイデガーは人間が「理性的動物である」という定義を拒絶して、理性と言語を用いないで人間と動物を規定しようとした。彼によれば、動物はユクスキュルの言うところの環世界に閉じており、世界(存在)には触れることはできない。しかしながら、また動物は世界に「開かれ」ているともいう。この「開かれ」という概念は非常に独特の響きがあり、矛盾するようにも感じるが、アガンベンは、自らの思想に引き付けてこう答える。

 

人間はおのれの動物性を宙づりにし、そうすることで、生が例外領域へと勾留され置き去りにされる=追放されるような、「自由で空虚な」領域を開くのである。

 

「動物の擬人化」と「人間の動物化」が混ざり合う現代において、この「開かれ」という概念は、非常に示唆に富む言葉であるが、ここで気になるのは、家畜的であることと、動物的であることが、未分化であることだ。「人間の動物化」はすなわち奴隷であること意味するが、これもやはり、動物が簡単に家畜になり得るという前提があるのではないだろうか。ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』で示した通り、家畜化できる動物は全動物の1%にも満たない。どんな動物も動物園に入れてしまえば、家畜的動物にはなり得るが、繁殖に成功しなければ、家畜化したとは言えない。その繁殖がいかに厳しい状況であるかという事実を鑑みても、この「開かれ」または「動物性が宙づり」にされている状態において、家畜はもしくはAIが、どこにどのように当てはめるべきかということは興味深い課題であろう。

 

 

最後に、この「動物園の檻は動物を閉じ込めているのか、私たちを閉じ込めているのか」という問題に、ディンゴの例を出して終わりたい。

ディンゴはオーストラリアに棲息するイヌ科であるが、もともとはオーストラリアの原住民の家畜として大陸に渡り、のちに野生化した動物である。ディンゴについては、先ほどの触れたイヌが家畜化されていった過程を説明するのに、興味深い研究がある。オーストラリアの原住民はディンゴの子犬を巣穴から奪い、必要であれば食用とするが、普段は自由に居住地で残飯をあさらせている。その子犬が成犬になると、繁殖のために原野にもどり居住地の近くに巣穴を作るのだ。そして再び人間は子犬たちを奪う。これは一見すると、人間が都合よくディンゴを搾取し利用している、半家畜的な状況のように見える。しかしよく考察すれば、ディンゴにとって、子犬を奪われたほうが、子犬の生存率が上がるという事実があり、それがゆえに人間の居住地の近くに巣穴を作る母犬のほうが、そうでない母犬より子孫を残すことができるという構図になっている。またディンゴと人間の関係は予想以上に複雑である。そもそもディンゴは野犬と交雑可能であるため、純粋なディンゴは定義が難しく、ペットして飼われているものも多い。その一方、野生のディンゴ(非常屈折した言い方である)は家畜や人を襲うため、その対策としてディンゴフェンスと呼ばれる「万里の長城」が南東部一帯に張り巡らされている。まさに、これは人間が檻の中にいるのか、ディンゴが檻の中にいるのかわからない状況である。

ディンゴを巡る状況は、家畜と動物と人間とが共生という言葉では括れない複雑な関係性を維持していることを示している。それでは、このような議論が「家畜的動物」と定義したAIにどのような示唆を与えるだろうか。簡潔にまとめれば、完全なAI制作の困難さは動物の完全な家畜化の困難さに比例するのではないか、ということだ。また、ハイデガーとアガンベンの「開かれ」における人間と動物の緊迫した状態は、家畜的動物とAIの関係を深化発展することで、なんらかの新しい視座が生まれる可能性がある。これからの議論を期待しよう。

 

 

 

 

参考文献

 

『人工知能のための哲学塾』 著三宅陽一郎 BNN新社

『開かれ 人間と動物』 著ジョルジョアガンベン 訳岡田温司・多賀健太郎 平凡社

『犬 その進化 行動 人との関係』 編ジェームスサーペル 訳武部正美 緑書房

文字数:4496

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