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ポスト平成の批評 ~あらたな民主主義のために~

 

 

「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない。(中略)よりよい明日のために、かけがえのない子どもたちのために、私自身を、そして民主党を改革しなければなりません。まず私自身が変わらなければなりません」

 

壇上の男がこのように力強く云いきると、党代表選挙の行きつく先を固唾をのんで見守る会場からは割れんばかりの拍手がわきおこった。ふだんは寡黙で仏頂面とも云えるこの男にしては珍しく顔を紅潮させ、その眼には強い意志がみなぎっていた。剛腕とも、また政界の壊し屋と呼ばれたこの政治家が、衆議院議員選挙に二七歳で初当選して以来、もっとも人々の共感を得た瞬間でもあった。

小沢一郎。平成という時代の日本の政治は、良くも悪くもこのひとりの政治家を中心に動いていたと云ってもまちがいではない。平成元年に四七歳の若さで自民党幹事長に就任して以来、小沢はつねに政局の中心にいた。二度にわたる政権交代を成し遂げたことはもちろん、政党のたび重なる離合集散の裏側にはつねに「親小沢」か「反小沢」かという対立軸があった。そして平成最後の年であるいま、みたび政権交代を実現すべく再び野党の結集に向けて動き始めている。

小沢は「政策」より「政局」の政治家だと云われる。じっさい小沢の訴える政策は、同じ政治家のものとは思えないほど平成年間を通して大きく変わり続けてきた。はじめはいわゆる自民党的な大企業の利益を代表する保守的な立場であったが、平成五年に出版しベストセラーになった『日本改造計画』では新自由主義的な経済改革や自由化、政治改革を訴える。しかしのちに小泉純一郎が『日本改造計画』的な政策を推進すると、それまでとは反対に社会的格差を是正する生活者重視のリベラルな政策へと転換した。

もちろん、立場によってカメレオンのようにその政策が変わるのはいささか節操がないと思われても仕方がないが、それは小沢という政治家が徹底的にリアリストであることの証明でもある。小沢にとってのリアルとは「権力」であり、それは「数」であると云いかえてもいいだろう。「民主主義とは多数決である」という小沢の信念のとおり、どんな立派な政策を訴えたところで、過半数の支持を得て権力を行使できる立場にいなければそれはただの理想論にすぎない。そしてこの三十年間の政治が小沢一郎の時代であったことが象徴するように、平成とは多数決の、つまり小沢的な「民主主義」の時代であったと云える。

 

平成年間はいわゆるポピュリズム的と云われた政治がなんども猛威を振るった。郵政民営化を錦の御旗にたて、反対するものを抵抗勢力と名づけて求心力を得た小泉純一郎。自民党を閉塞した日本の象徴と見立て、政権交代することそのものを目的に戦い勝利した民主党。大阪都構想をかかげ、既得権にしがみつく守旧派と戦う姿勢を見せ話題の人であった橋本徹。いずれも反対する意見に「悪役」のレッテルを張り、それを殲滅することで勝ち抜く。ポピュリズムはしばしば堕落した民主主義の形態であるように云われるが、それでもやはり民主主義であることには違いはない。しかし民主主義の矛盾がもっとも顕わになるのは、圧倒的な支持を得るポピュリズムなどではなく、僅差で決着がついた時だ。

民主主義の基本が多数決であることは論を待たないが、いっけん公平であるように見えるこのシステムは、きわめて残酷な特徴を持っている。わずか一票差であっても多数を占めた意見が勝者であり、それが全体の意見を代表したものとしてまかり通る。このとき合法的でありながらどこか理不尽に思えるのは、そこで採用されなかったほぼ半数の意見が「なかったも同然」な扱いを受けることだ。「そうではないもうひとつの道」が抹殺されるという事実。それがどんなかたちの民主主義であっても最終的に多数決によってものごとを決するとなれば、この非暴力的な暴力にさらされることは免れない。

二〇一六年にイギリスでおこなわれた、EUからの離脱の是非を問う国民投票では、投票結果は「EU離脱」への投票数が「EU残留」のそれを僅差で上回るというものであった。たった数パーセントの違いで、欧州経済共同体への加盟から四〇年以上にわたって参加してきたヨーロッパのコミュニティから退場することが決まった。いったん決着したかに見えたブレグジットだが、昨年(二〇一八年)秋にはウェストミンスター宮殿(国会議事堂)前で、EU離脱の撤回を求める五七万人というかなり大規模なデモがおこなわれた。もちろんデモがそれこそそのままイギリス国民の民意を代表しているとは云えないが、この選択が国を二分したままであることを示すには充分な出来事であった。国民投票という共同体を維持するための民主的な手段が、その共同体に修復しがたい溝をもたらすという矛盾。

その問題点を補うために、民主党政権時代にはさかんに「熟議民主主義」ということが云われた。きわめて単純化すれば、よく話し合うことでみんなが納得できるような意見を練り上げようということだ。政治哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、人と人が相互理解を深めるようなコミュニケーションによって普遍的で民主的な意見形成を可能にするような、国家権力システムに回収されない自律的な「政治的公共圏」の概念を示したが、これも単純多数決にならざるを得ない意思決定機構のそとに、そこから漏れてしまう多様な意見の生き残る場所があるべきだということだろう。

しかし、よく熟議をかさねたとしても、多数決のもつ問題点はなんら解決されないことはあきらかだ。国を二分する議論の果てに、経済のみならず民族、宗教などのさまざまなアイデンティティの問題があらわになり、それぞれの分野の専門家がそのメリット・デメリットを論じても、もはやそれが問題の全体像をとらえることにはつながらない。熟議をとおしてあらわにされてしまった対立は感情的なものとなり、理性によって熟議するものではなくなっている。そこで残されたのは、それでもなおひとところに生きなければならないという傷を負った社会である。

分断化社会は、権力者にとって支配しやすい社会である。なにか反対意見があがっても、その問題に関心がないメンバーにとってそれは重大なことではないため、決定的な共感を生むことはない。そうであれば世論や民意というものがいくら提示されても、それが一部のものでしかないと云い張ることで、為政者はそれを顧みることなく淡々とその座に居座り続けることができる。

その分断化社会の壁は、熟議で取り除けるものではない。どんなに話し合ったとしても、その溝が深まるだけだからである。国や、民族や、立場の違いを超えて、話し合えばわかり合える、あたらしい価値観が生まれる、などという幻想は、ときたまみられるジャンルを超えたコラボレーションという名の、居心地の悪い中途半端なパフォーマンスに似ている。壁はあっても構わない。その壁を乗り越えて、おおきなコミュニティをつくる必要などないし、そんなことはできはしない。

 

その著書『一般意思2.0』のなかで東浩紀は、こうした民主主義の問題にたいしてきわめて独創的なアイディアを提示した。東はルソーの「一般意思」という概念をフロイトの無意識と結びつける。そしてグーグルなどのビッグデータに集積されたデータベースは、わたしたちの無意識の集合を可視化したものだと云う。

「わたしたちはいまはまだ、政府を、市民が明示的な意思表示に基づき運営するものだと考えることに慣れている。だからこそ、市民間のコミュニケーションが重視される。しかし、もしルソーの言葉を忠実に適用するならば、来るべき政府2.0は、市民の明示的な意思表示(それはルソーの言葉では「全体意思」に相当する)ではなく、それよりもむしろ、情報環境に刻まれた行為と欲望の集積、人々の集合的無意識=一般意思にこそ忠実でならなければならないことになるだろう」(東浩紀『一般意思2.0』)

そのうえで東はその集合的無意識たる一般意思を政策決定に反映させる手段として、ニコニコ生放送のようなリアルタイムに有権者の意見が可視化されるようなシステムを、議論されている場に持ち込むことを提案する。そして政治家はそこに表示される意見の流れを無視できないはずだというものだ。政治家に「空気を読む」ことをさせるのである。もちろんそのプラットフォームとしてどのようなものがふさわしいかという問題はあるにせよ、理性というよそいきの意見とはべつの、文字通りわたしたちの「ナマの声」を意思決定に反映させるという意味で、これはきわめて画期的なアイディアであった。

しかしここには想定されていない問題がいくつかある。ひとつは公共の場では決して口にはしないような感情的な意見、いわゆるネトウヨ的な極端な意見が、表の世論さえもある方向へ動かしてしまうという近年の傾向である。ネットにあふれる多数の近隣諸国との関係を悪化させかねないさまざまな言説。それらが政策意思決定に反映されることは本当に建設的なことなのだろうか。前述のブレグジットも、ネット空間で増幅された感情的な部分がそのまま意思決定につながり、投票結果が判明してから「そんなはずではなかった」という声が多かったと聞く。

もうひとつは、そのように可視化された「全体意思」たる民意も、「一般意思」たる集合的無意識も、現在の日本においてまったく意味を持たなくなりつつあるという問題だ。公約を果たせる見込みがなくなったために引責して身をひいたり、女性問題やいわゆる「政治とカネ」で辞任したり、そのような光景はもはや過去のものかもしれない。公表されたデータに行政上きわめて重要な虚偽があっても、親しい友人のために国有地を破格の値段で払い下げるようなスキャンダルがあっても、お金がかからないという触れ込みで誘致したイベントの予算が雪だるま式に膨らんでも、そしてそれによって圧倒的多数の国民から反発を受けても、それらはいっさい為政者の判断には影響しないということが非常に増えている。

つまり政治家はもはや「空気を読む」必要がなくなったのである。それは前述のように、分断化社会においては恐れるべき世論などどこにもないからだ。ちょうどこの論考が発表される数日後には、沖縄県名護市辺野古の新基地建設の埋め立ての賛否を問う県民投票がおこなわれるが、菅官房長官は「投票結果にかかわらず基地の辺野古移設は粛々と進める」と述べた。公の意思決定である住民投票でさえも、なんら行政に影響を与えることはないという事実。それどころか、住民投票に参加する自治体と参加しない自治体とで対応が分かれたり(結局は全自治体が参加することになったが)、ひとつの自治体のなかでもかなりの感情的な議論になったりというケースもあると聞く。多額の税金を費やして実施した「民主主義」があとに残すのは、切り刻まれ分断されたコミュニティだけなのだ。

それではもはや、東の云うような「一般意思」というものを可視化すると云うのは、理念にしか過ぎないのだろうか。この分断化社会のなかで、「一般意思」を考え得る可能性はないのだろうか。

 

政治学者の田村哲樹はその『熟議民主主義の困難』のなかでジョン・S・ドライセクが「文化」を「言説」によって再解釈することの重要性を説いていることを紹介している。ドライセクはそのうえで、一般的な価値観そのものを論じるのではなく、個人や集団それぞれのニーズについて焦点を絞ることで、その対話は生産的なものになると考えている。しかもそれはハーバーマスが云うような「公共圏」ではなく、非制度的な「言説を通じた関わり合い」のなかでこそ熟議は行われ得るというのである。つまりある固定化された文化やアイデンティティにではなく、そのつど変化していくものに対応するために、言説が有効であるということだ。それはまさに「ジャンル批評」が言葉のちからによっておこなってきた、個人の価値観やコミュニティの内的なコードを書き換えていくという作業にほかならない。

平成時代においては、サブカルチャーといわれるジャンルをはじめとして、それまで語られることはなかったようなおおくのものが批評対象になった。それは個人の趣味や欲望の対象が細分化されたものにともなうものだが、どうじにそれらの「ジャンル批評」がよりいっそうの細分化、ジャンル化を促したという面もあるのではないだろうか。じっさいに、誰もに共通の情報源であったテレビや新聞は、平成の三十年間のあいだにその役割をインターネットにしだいに譲り渡した。そこでは各々がみずからの興味のあるものにアクセスし、おなじ意見を持つブログを選択して読むようになる。批評もまた、分断化されたコミュニティのなかでよりディープな情報を求める読者に向けて発信されるようになるのは自然なことだろう。

しかし人々の欲望するものが枝分かれし、そのコミュニティに閉じこもれば閉じこもるほど、それぞれのコミュニティのあいだは「翻訳不可能」なものになっていく。そのとき「一般意思」として可視化されたかに見えるその共同体の集合的無意識は、結局その共同体を構成するどの「わたし」の意思とも重なりあわないものになってしまうのだ。

しかし、その分断化されたコミュニティの頭上には、それぞれにそのコミュニティ固有の「一般意思」があるはずだ。そのコミュニティの数だけある「一般意思」どうしのあいだに穴が開いていて、それらがつながることができるとしたら。そのような過程をへることで、集積困難になっていたはずの「一般意思」に近いものを社会全体で共有できる可能性が考えられるのではないだろうか。そして、そのコミュニティのあいだにワームホールを空けることができるものがあるとすれば、それもやはり批評のちからだろう。批評の「メタな視点」はそれぞれのジャンルに共通するものを見出したり、そこにはないあらたな意味を附加したりする。

文学も、ポップカルチャーも、美術も、演劇も、映画も、哲学も、それぞれのジャンルはひとつになりはしない。しかし、それらがもつ「可能性」は重なりあうことができる。あるマンガを特徴づけている傾向が、まったく違う演劇のそれと重なり合うことが。あるクラシック音楽の演奏を成り立たせている考え方が、関連性もなかったはずの美術展を語るうえでのおおきなヒントになり得ることが。それとおなじように、異なる価値観を持ったコミュニティどうしも、それぞれが個別にありつづけたままで、その「可能性」は重なりあう。「あなた」が「わたし」であった可能性。「わたしたち」が「あなたたち」であった可能性。「A∨B」という決定を強いられる選択強要社会とも云うべきもののなかで、批評的な視点はその選択を宙吊りしたまま受け止めることを可能にし、人々の「関心の地平」を拡大するという役目を果たすだろう。その共感とも云いかえることができるものは、どうじにこれからの民主主義を成り立たせるものになるはずである。

こうして再び可視化された「一般意思」を共有する社会においては、人々が感じる他我の境界線はいまよりもずっとあいまいなものになるだろう。そして、そのときはじめて多数決という民主主義が機能する。ワームホールによって人々が欲望レヴェルでつながっている限り、多数決の勝者にとって敗者はもはや排除すべき敵ではなく「そうであったかもしれないわたし」であるからだ。また、多数決によって不可逆的に分断されない(しかしそれぞれのコミュニティはかわらずありつづける)社会では、それこそいまより安心して「熟議」ができるようになるだろう。分断されない世論を前にしては、為政者もそれを無視することはもはやできはしない。

 

毎日刻々と報じられる天皇の病状のため纏わざるを得なかった昭和の終わりの暗さとは対象的に、なかば意味もなく浮かれたような、なかばシニカルで他人事のような、そんな不思議な空気をまといながら平成という時代が終わろうとしている。しかし、官房長官であった小渕恵三が額縁を手にして「新しい元号は『平成』であります」と宣言したその瞬間から誰もが感じたような、なにか新しい時代がはじまるのだという根拠もない期待に満ちた明るさを、再びわたしたちが感じるとは思えない。

​​平成とはつまるところポスト昭和であった。批評家の蓮見重彦が​いみじくも「ポスト」という言葉にはそれ以前のものを「全的に否定し、いわばそれそのものを駆逐するという殺戮の意思がこめられている」(蓮見重彦「『ポスト』について」)と云ったように、「ポスト」にはたんなる時系列的なつながりを超えた、アンチとしての意味をもつ。小沢一郎は、つねに自分のいたコミュニティを飛び出してアンチの立場に身を置くことで対立軸を創りだし、二者択一の多数決ゲームを繰り返してきた政治家であった。だが、もはや二項対立を勝ち抜き、数えきれないアンチとディスコミュニケーションを続ける時代には終わりを告げなければならない。

ポスト平成の時代は、アンチ平成の時代になってしまうのだろうか。それとも、過ぎ去った平成とゆるくつながりながら、新しい可能性を紡いでいくのだろうか。

 

文字数:7000

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