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振りすぎてはいけない

 

きらびやかに光るシャンデリアが、思い思いにめかし込んだ観客を照らす。開演時間になり、タキシードや燕尾服にその身をつつんだたくさんの演奏家たちがステージに登場し、オーボエの吹く音にあわせてチューニングを行う。期待感とともに緊張感をもたらす思わせぶりなひと間をはさんで、まだなにもはじまっていないにも関わらずわき起こる拍手のなかを登場する指揮者。彼または彼女の指揮のもとオーケストラが響かせる激しくまた繊細なサウンドに、観客はせわしない日常をつかの間忘れて、心地よい眠りに身をまかせる。芸術を損ねてしまいかねない「いびき」という名の悪魔を生み出す恐怖と戦いながら。

慣れないものを容易に近づけない数々の不思議な儀礼にみちてはいるが、特別な華やかさと抗いがたい魅力にあふれるオーケストラのコンサート。もちろん二人以上の演奏者のアンサンブルを必要とする音楽ジャンルはほかにいくらでもあるが、やはり五十人から百人という演奏者が、ときには数十もに細分化されたパートを受け持ち、ひとつの音楽のうねりを作りあげていくその様は圧巻である。

しかしそれだけの個性あふれる芸術家の集団であるオーケストラがどのように演奏を合わせているのかということは、作曲家の生む曲そのものや細かい演奏技術ほどにはこれまで語られることはなかった。一般的なイメージとして、聴衆にとってもいちばん目につく存在である指揮者が、その身振り手振りによって指示を出しイニシアティブをとっているように見える。よほど能力のない指揮者でないかぎりそれはけっして間違いではないのだが、だからといって指揮者「が」いくつもの音を合わせているわけでもないし、演奏者たちが指揮者「に」合わせているというわけでもない。もちろん、指揮者というポジションが専門家化した十九世紀後半から二十世紀中頃までは、指揮者は圧倒的な特権性をもって演奏を支配していた。演奏そのものだけではなく、オーケストラ団員の採用・解雇の決定権を持っていたり、プログラムや招聘するゲストの決定権を持っていたりすることもあった。だが現在はそのような指揮者は少数派だし、そのようなあるひとつの個性によって全体が染められてしまうことを演奏者も求めてはいない。

二〇一四年に惜しまれつつもこの世を去ったイタリアの名指揮者クラウディオ・アッバードはその晩年、世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督のポストを辞して、スイスのルツェルンで世界の一流楽団のメンバーやソリストを集める。アッバードはそのルツェルン祝祭管弦楽団とともに、人生の最後の十年で現代最高の水準のオーケストラ芸術を作りあげた。しかし、アッバードの呼びかけで集められたにも関わらず、ルツェルン祝祭管弦楽団はきわめて緻密ながら、不思議と自由で民主的なアンサンブルを聴かせて世界を驚かせた。いったい彼らはその一糸乱れぬ演奏を、誰に合わせてどのように演奏していたのだろうか。

 

 

思弁的実在論の日本への本格的な紹介者であり、その代表的な論客のひとりである千葉雅也は、ドゥルーズ研究によってそのキャリアをはじめた。それまでは「接続」の哲学者という面が語られがちであったドゥルーズにおける、「切断」というもうひとつの面について掘り下げたことで知られている。その処女作である『動きすぎてはいけない』のなかで千葉がとりあげる「非意味的切断」というキーワードは、ルツェルン祝祭管弦楽団をはじめとした現代最先端のオーケストラアンサンブルを考えるうえで大きなヒントを与えてくれる。

指揮者という特権的な基準のもとで行われていた近代的なオーケストラアンサンブルは、ドゥルーズが云うところの「ツリー」のようなものだと云える。すべてをしっかりと支える幹と、そこから明確な構造をもってひろがる枝葉のつくる堅牢な構造。それに対して指揮者の絶対的支配からのがれたオーケストラのそれは、リゾーム(地下茎)に例えることができるだろう。それぞれが高い音楽性と際立った個性をもった演奏家たちが、かならずしも指揮者の指揮にピッタリと合わせるのではなく、お互いに影響を与えまた受けながらその瞬間に生成されるアンサンブル。ひとつの楽譜を同じメンバーが演奏しても、つねに新しい可能性をまといながらその都度違う顔を見せる。もちろん決められた楽譜という枠組みはあるものの、微細なレヴェルではその可能性は限りなくひろがるべきであり、それこそが録音とは違うコンサートでの演奏の価値を保っている。

しかし、いくら解き放たれ生成変化の連鎖をみせたとしても、一流のオーケストラの演奏がそう簡単に崩壊するわけではない。その自由なアンサンブルの連鎖を切断し、ひとつのまとまりとして演奏を成立させるものがあるからだ。しかもそれは演奏者が意識して意図したものではなく、ある意味では無意識のレヴェルで否応なく切断されるのである。

千葉によれば、ドゥルーズの「切断」にはふたつの段階がある。

まず、切断A─ ─ 権力の強いるしがらみからあなたを切断すること、それと正面から闘わないこと。そして、接続─ ─ しがらみの側方に、勝手に接続されていく関係のリゾームを見いだす。のみならずさらに、切断B─ ─ そのリゾームをあちこちで切断すること。(千葉雅也『動きすぎてはいけない』)

このように千葉はまとめ、はてしなくのびていくリゾームが有限化され、繋がりすぎない、意味を持ちすぎないための「切断」の重要性を示す。

これをオーケストラのアンサンブルにあてはめてみれば、切断Aとは指揮者の強権的な支配―先んじて示される全体像から演奏を開放することであり、切断Bとはそのひらかれた可能性によって演奏が崩壊するのを演奏者の身体に宿った演奏習慣やシンクロへの無意識な欲望によって回避することなのだ。

クラシック音楽のアンサンブルとは面白い生き物で、なんとなく耳にしていると、一定のテンポ(速さ)で演奏されるように感じられるジャンルの音楽も、実はつねに速くなったり遅くなったりというわずかながらの変化をともなっている。なにかのきっかけで誰かが秩序ある列を離れて音を出すとそれにつられるように音楽が動きだす(テンポが速くなったり遅くなったりする)。しかしそれでも演奏が破綻しないのは、演奏者としての身体に染み込んだ共振性とも云うべきブレーキである。

新宿駅の南口改札内のコンコースを行き交う人々を想像してみよう。通勤時にはいちどに何百人もの人々が視界に入るほどの混雑ぶりを見せながら、ほとんどの人はたがいにぶつかることなく(平気でぶつかって謝りもしない御仁も少なくないが)、目的の方向へ歩いていく。その場にいる誰ひとりとして、他人がどこへ向かってどのように歩いているかなどは知りもしない。しかしそれでも複雑にたがいを回避をしながら蛇行し早足で駆け抜けていく。毎日、毎時間同じようなオートメーション化された光景が繰り広げられるが、それでもそれらは万華鏡のようにいちどとして同じものではあり得ない。このとき人々は目的のもとに意思を持って自由に歩いてはいるが、同時にみずからの肉体をそこにいる他人と同じく他者化し、その場で生成される無意識レヴェルでのルールに身をまかせ行動の可能性の切断を受け入れることで、みごとなアンサンブルを作り上げている。

古典的なオーケストラのアンサンブルにおいて、「他のパートをよく聴く」ことが求められる。しかし、この「よく聴く」というコトバには罠がある。他のパートを「聴いて」合わせていては、それはいつまでもお互いは一つの音楽にはならないし、またなにより反応が遅れるぶんだけタイムロスが生じる。実はアンサンブルは「聴きすぎてはならない」のである。

自分とは違う動きをしているパートに耳を向けるとき、「聴く」という行為そのものが聴いている主体と聴かれている他のパートである他者との超えられない壁をつくってしまう。そうではなく、アンサンブルするオーケストラに必要なのは、他のパートを「入れ替わり可能な自分のパート」ととらえ、オーケストラ全体をその都度生成されるひとつのまとまりである自分自身として感じる感覚なのだ。

千葉はドゥルーズについてジョルジョ・アガンベンが書いたメモから次のように論を展開する。

セルフエンジョイメントは、エゴイズムではない。なぜなら「自分に満足する」としても、この喜びは、自分を、自分とは異なる「元素たち」、つまり他者たちのまとまりとして観ることであるからである。(千葉雅也『動きすぎてはいけない』)

そして千葉は「他者たちになるほどに、私たちはますます自己になる」ことと「喜ばしく自己になるほどに、私たちはますます他者になる」の背中合わせな関係を晩年のドゥルーズのなかに見出し、他者への生成変化と「個別化」「主体化」は識別できないと云う。(前掲書)これこそ、成熟したオーケストラのなかで起きていることではないだろうか。他者たち(他のパート)のまとまりとして自分を感じ、それをオーケストラそのもの、すなわち自分ではないものとして感じること。それこそが、めいめいが思うままに演奏する可能性を有限化するものになっているはずだ。

 

 

それならば、現代のオーケストラアンサンブルにおいて、指揮者とは何者なのだろうか。千葉雅也の最新単著である『意味のない無意味』で示される「非ファルス的盛り上がり」というキーワードが、そのヒントになるように思われる。

けれども私の議論では、先にファルスの原‐特徴として挙げておいた「他からくっきり区別されている」という、いわば「準‐ファルス的」な特徴を残そうとしています。それはファルスに似ているけれどもファルスでないような「可能性の膨らみ」です。しかし無限のポテンシャルが無限の持続で展開されるのではありません。何らかのヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの。それを私は「非ファルス的膨らみ」、「非ファルス的盛り上がり」、「非ファルス的もっこり」(non-phalic mound)と呼ぶことにしたい。(千葉雅也『意味のない無意味』〜「不気味ではない建築のために」)

ステージの中央で、指揮者は一段高くなった指揮台のうえでひとりだけ立って突出している。近代的な指揮者がもっていた父権的な特権性を剥ぎ取られたモニュメント。それはステージのうえにいながら唯一「自分で音を出すことのない」音楽家である。彼または彼女にはみずから音を出さないかわりに、ステージのうえで出されるすべての音を聴く権利/義務がある。千葉がその「非ファルス的な膨らみ」を墳墓に例えたように、指揮台のうえの指揮者はすべての音を受け入れる穴のようなものである。すぐれた指揮者の手の動きには「音が見える」と云われる。音を出していないにもかかわらず「音がみえる」のは、オーケストラの出す音によってその空白が埋められるからにほかならない。

ならば、指揮者は現代のオーケストアンサンブルにおいてはなにをし得るのか。オーケストラの前に立ち汗をかきながら手を振り回しているのが、聴こえる音の視覚化といったただのパフォーマンスにすぎないわけではない。

クラウディオ・アッバードは、そのキャリアのはじめには出てくる音と同時に棒を振る指揮者だったが、しだいにオーケストラの音の出よりかなり早いタイミングで指揮をするようになる。一流オーケストラであれば程度の差はあれど多くの指揮者が行っている、いわゆる「先振り」とよばれる振り方だが、晩年のアッバードはそれが極端に顕著で、場合によっては一秒ちかくもオーケストラより早く指揮を振る。ただでさえ自分で音を出さない指揮者だが、その音を指し示す動作さえも音のないところで空を切るのである。しかしそのことで、オーケストラという有機体に対して音楽の方向性を指し示すことができる。そして、指揮者の強制的な支配からのがれたオーケストラは、その指揮者の導きのなかで自由に、しかし乱れることなくアンサンブルをはじめる。

もはや指揮者は父権的な支配者ではない。すすむべき道を照らすだけなのだ。みずから生成変化する能力を備えた一流のオーケストラを前にしたとき、おそらく指揮者は「振りすぎてはいけない」のである。

 

文字数:5000

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