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そうではなかったわたしから、そうであったかもしれないわたしへ

 

夢か現か。現か夢か。

いまのいままで見ていた夢が異様にリアルなものであったようなとき、目を覚ました自分がいる「いまここ」がはたして現実なのか、それともやはり夢を見ているのか、にわかに判別できない眩暈にも似た感覚におちいる経験。一枚のコインのどちらが表なのか裏なのかということは、単なる定義づけの問題にすぎないが、わたしたちがみずからのおかれた世界において、夢と現実との境界をさだめることはいささか困難な問題である。

ひとつには、みずからがおかれた「いまここ」が夢なのか現実なのかということを判断するためには、それを可能にするメタな視点を必要とするが、夢か現実かという二項対立を超えた高みにわたしたちが立つやいなや、その視点さえもたちどころに「いまここ」に回収されてしまうという無益ないたちごっこを生じさせてしまうこと。もうひとつは、夢と現実とはどこかではっきりと線を引くことのできるようなものではなく、わたしたちの意識のなかではそれはむしろ、主体であるわたしがそこにどれだけリアリティを感じているか、その濃度のグラデーションによって連続したものとしてしかあらわれないということである。

メタな視点に立つというひとつめの問題について、映画はその困難な経験を疑似的にでも可能にしてくれる。出演者と観客がおなじ空間を共有することで成立する演劇とは違い、映画のなかで繰り広げられるフィクションにどんなにリアリティがあっても、スクリーンとそれを見ている「わたし」はおなじレヴェルにはいない。見ている「わたし」が映画というフィクションには回収されることはないからだ。まただからこそ、スクリーンのなかのリアリティとそれを見ている「わたし」のリアリティは連続してはいない。人間にとって外部からの刺激をとらえるいわゆる五感のうち、もっとも多くの情報量を受け取るのが視覚だと云われている。そういう意味ではさまざまなフィクションを構成しうるジャンルのなかで、映像芸術は見るものに圧倒的なリアリティをあたえるが、それはあくまでも彼此の境を越えることのない範囲でのものだ。

見るものによりリアリティを感じさせることこそが、映画がそのながい歴史のなかで多くの人が求めつづけたものであった。そのために映画はCGや3Dという技術を取り込み、いまも変化し続けている。しかし「カメラをとおしてリアルを撮るという行為そのものが破綻している」(黒沢清)という意識を持つ表現者にとっては、スクリーンのなかのリアリティを追及したところでそれはわたしたちと切りはなされたファンタジーでしかありえない。むしろスクリーンのなかのリアリティと、それをメタな視点から見ている観客のリアリティとを、いかに連続しているかのように装うこと。映画監督・濱口竜介の作品はそこにおおきな可能性を見出しているように思われる。

 

濱口の映画には、電車、バスが走っていたり、登場人物がそれらに乗って移動したりというシーンがしばしばあらわれる。ほとんどの場合公共交通機関であるそれらが登場することの意味については、濱口自身は「ドリーを使っての撮影などが経済的な事情で不可能であるなかで、人物を乗り物に乗せることで風景を動かす」というような趣旨のことを対談などで述べているが、それだけにはとどまらない意味を見るものに感じさせる。公共交通機関は決められた道程を決められたタイムスケジュールにあわせて運行されるが、乗客にできることと云えば、どこで乗るか、どこで降りるかということを選択する以外にはない。そして降り立ったその土地が目的地である場合もあれば、そこでまた違う公共交通機関に乗り換える場合もある。

濱口の作品において、乗り物にのって移動することは、人生の無数にある分岐点から分岐点へと流れのなかで進みゆくことを意味している。その分岐点で、いまこのようである「わたし」はそうであったかもしれない「わたし」とたもとを分かち、たがいに違う道を走りはじめる。

「いまここ」にいる「わたし」の主体から見れば、そうでなかった可能性とは、いまここにある「わたし」ではないものとして否定的に認識されるものでもある。もちろんそのベクトルは一方向なものではない。つまり逆に「そうでなかったわたし」から見れば、いまここにいるわたしというものは、やはり「そうでなかったわたし」である。しかしいっぽうで「可能性」とは現にリアルなものとして現前しているものもふくめ、そうであったかもしれないものたちの潜在性の集合つまり「全体」として考えることもできる。そのときすべての可能性は否定的に見出されるものではなく、それ自体として存在しつづけるものとしてとらえられる。「そうでなかったわたし」は、「そうであったかもしれないわたし」と云いかえることができるのだ。そして「いまここ」にいるリアルな「わたし」も、そんな「そうであったかもしれないわたし」のひとつにすぎないと悟るとき、リアルな「わたし」はその無限の「そうであったかもしれないわたし」たちにこのうえない親密さを感じているのである。

 

二〇一八年に公開された最新作『寝ても覚めても』においては、現実感のうすいゴーストのような「麦」とどこにでもいそうな好青年「亮平」を、東出昌大が一人二役で演じている。柴崎友香による原作においては、この二人の顔がそっくりであるということは彼らと恋人関係にあった朝子の主観でしか語られない。それどころか小説の終盤において、朝子が亮平を捨て麦と山陽新幹線で逃げる場面、ふと朝子は麦の顔を見て「違う。似ていない。この人、亮平じゃない」と思うにいたるが、視覚イメージが読者にゆだねられている小説ならではの、一種の叙述トリックとも云うべきみごとな効果をあげている。

それが映画では朝子以外の人物はおろかスクリーンを見つめる観客にも二人がおなじ顔をしていることは(極端に云えばキャスティングが発表された段階から)あきらかなので、映画化においては昔の恋人と今のそれが「まったくおなじ顔をしている」という、現実に考えるとまずありえない世界がはじめから前提となってしまう。濱口はそれを逆手に取り、非現実的な麦のいる世界と現実的な亮平の世界とを、まるで川のように流れるひとつのリアリズムの世界の時間のなかでシームレスにみせる。なにが現実で、なにが夢なのか。映画の朝子が再会した昔の恋人・麦を選んで逃げる車のなかでつぶやくセリフは象徴的だ。

「あたしはまるでいま、夢を見ているような気がする。ちがう、いままでのほうが全部長い夢だったような気がする。すごく幸せな夢だった。(映画『寝ても覚めても』)

そしてこのセリフが「夢から覚めたもの」でなかったことは、そのあと朝子が引き返し亮平のもとへ向かうことでもわかる。ここで重要なのは、この映画をすぐれたものにせしめているのは、スクリーンのなかのフィクションにきわめてリアリティを感じる点だ、というような単純なことではない。ひとつのフィクションのなかに濃度のことなるリアリティが違和感なく共存すること。それらが互いの輪郭をぼやかしながら見事なサスペンス(宙吊りされたもの)を生み出すことに成功しているということなのだ。

麦と亮平は誰が見てもおなじ顔を持つが、彼らはおたがいにとって「そうであったかもしれないわたし」としてあらわれる。同時に、朝子のなかにも「麦と一緒であることを選んだわたし」と「亮平と一緒であることを選んだわたし」が重なり合って存在しており、そのどちらが本当の自分であるかは朝子自身はもちろんのこと、スクリーンを見ているわたしたちにも判断できない。仙台の手前で車を降り大阪にいる亮平のもとへ向かった朝子が存在しているとおなじように、車を降りることなく北海道へ麦とともに向かった朝子も、やはり存在しているのだ。わたしたちがスクリーンのなかに見せられている朝子は、そんな無数の朝子のうちのひとつにすぎない。

 

もちろん、それはとくに濱口作品に限ったことではない。『寝ても覚めても』とほぼ同時期にフランソワ・オゾン監督の『2重螺旋の恋人』が日本で公開された。このオゾンの最新作は、おなじ顔を持つ二人の精神分析医のあいだで翻弄される若い女性が主人公であること、その二人が終盤近くに顔を合わせるシーンがあること、主人公が「ある人物」を訪ねたときに目にする光景など、奇しくも『寝ても覚めても』といくつもの共通点を持っている。オゾンは過去の代表作『スイミング・プール』などでみられるように、どこまでが妄想でどこからが現実なのか、その境界をあいまいに見せる魔術師だが、この作品でもその舌を巻くあざやかな手並みは健在である。二人の男の存在も、主人公クロエを悩ましていた衝撃の事実も、そもそもの基本的な人物関係にいたるまで、いったいなにが本当なのか、観客は最後までけっして判断することができない。

ある意味で似ている二つの作品だが、オゾンの天才的なたくらみが及ぼしているリアリティのシームレス化があくまで作品世界の枠を出ないものであるのにたいし、濱口が見せてくれるのは作品世界のみならず、スクリーンのなかのリアリティとそれを見ているわたしたちの「いまここ」にいるリアリティとのあいだのシームレス化だ。わたしたちは濱口の作品をまえにして、スクリーン上のフィクションと、みずからがいる世界のあいだの境目が薄れていき、そこに文字どおり引き込まれていくのを感じる。スクリーンに映しだされている世界のリアリティではなく、その世界に自分もいる「かのような」リアリティを。そのとき、わたしたちのなかで何が起きているのだろうか。

 

ロカルノ国際映画祭で高い評価を得た濱口の代表作『ハッピーアワー』(二〇一五年)に登場するあかり、桜子、芙美、そして純の四人は仕事も家庭環境もことなる友人どうしだ。あるときは寄り添い合い、またあるときは反発しあう。三浦哲也がその著書『ハッピーアワー論』で詳細に分析して見せたように、彼女たちの関係をささえているのは「重心」だ。作中で行われるワークショップのなかで、ひとりの人間のなかにある重心、また複数の人間が寄りかかることでその「あいだ」に生まれる重心を感じるさまを観客は目の当たりにするが、たんなる関係性というコトバには置きかえることができないその目に見えない「重心」が四人の関係にリアリティをあたえている。しかしそのお互いにもたれかかる関係は、おたがいが「そうであったかもしれないわたし」であると感じているからこそ成り立っている。だからこそ、作品中盤において四人のうちのひとりが姿を消したとき、彼女たちのあいだに保たれていた絶妙なバランスが崩れていく。彼女たちにとって誰か一人が抜けるということは、自分自身の可能性の喪失にほかならないからだ。

わたしたちが濱口映画の世界に身をおいている「かのような」錯覚をおぼえるとき、おそらくフィクションのなかの登場人物たちに「そうであったかもしれないわたし」を感じているのかもしれない。わたしたちはスクリーンのなかの彼らに自分が体重を預けているように感じ、またおなじように彼らも自分にもたれかかっている「かのような」錯覚をおこす。そのとき、きわめて親密な存在になった彼らと観客のあいだには「重心」が生じているはずだ。濱口の短編映画『不気味なものの肌に触れる』(二〇一三年)でえがかれるのは「不気味なもの」すなわち「他者」に触れるその越境についてだが、「そうであったかもしれないわたし」という「他者」に触れてよりかかるとき、わたしたちはやはりスクリーンのなかのファンタジーへと越境している。

「いまここ」にいるわたしから「そうであったかもしれないわたし」へ感じるあこがれ。それこそがわたしたちを濱口映画のスクリーンのなかへ入り込んでいかせるものなのだ。そしてたくみにつなげられた登場人物どうしにも起こっているその相互干渉状態の海にわたしたちもゆっくりと身を沈めていくことで、わたしたちが感じているリアリティの濃度のグラデーションはかぎりなくゆるやかなものになる。夢と現との境目は、そこではかぎりなくとりのぞかれている。濱口監督がわたしたちに見せてくれるのは、そのような幸せな時間なのである。

 

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