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語らぬものをまえにしては、沈黙することができない

 

ドイツの建築家ブルーノ・タウトによって「モダニズム建築の傑作である」と評された旧東京中央郵便局の庁舎は、東京駅丸の内の大規模な再開発のながれのなかで取り壊され、2012年に38階建ての高層ビルJPタワーとして生まれかわった。建て替え時には戦前の優れた近代建築の破壊であると批判がおき、また東京駅前の景観を損なうべきではないとのことから、低層部分の道路に面した部分については吉田鉄郎の設計による旧庁舎の構造躯体をそのまま残し、外観の窓やタイルなどは復元されている。この低層階にもうけられた商業施設KITTEのなかのインターメディアテクにおいて、特別展『石の想像界―アートとアーティファクトのはざまへ』が催されている。

本展の特徴は、鉱物標本としての天産品である石と、石を素材としまた主題としたアートとをあえておなじレヴェルで混在させ展示したことにある。いわゆるアートといわれるものが日用品からいくら区別されようとも、それが人工物(アーティファクト)であることには変わりがない。またそれが鉱物標本であっても、自然界から人間の意志と手で切り取られたものであるならば、その意味でやはり人工物(アーティファクト)である。その一点においてサイエンスとアートにおける石を、「かたちや、組成や、テクスチャーが面白い。そうしたシンプルかつフラットな眼で、陳列物を眺めて」ほしいというのがキュレーションの意図である。

 

Abdelkader Benchamma (1975~)の『無題(石切り場にある石盤)』は、石切り場にさりげなくかざられた石盤を描いたインク・ドローイング。切り出されたものが素材としての石なのか、ものを書かれる道具なのか、それとも考古学の対象である資料なのか、相対するものとの関係性によって、これからいかようにも変えてみせる石のさまざまな顔の可能性を、この作家らしいシンプルかつ質感あるタッチで描いたもの。

Gabriel Orozco(1962~)の『丸石と手』は、川の流れのなかで長い年月をかけて研磨された結果生みだされるなんの変哲もない丸石を、右手の中で高速でひっくり返しもてあそぶさまをただひたすら撮ったという映像作品。自然において悠久の時を必要とするはずのさまざまな過程が、人間の手によって不自然なまでにショートカットされる現代社会。そこへ向けられた批判的な問いを、他愛のない遊戯性のなかに見出すことができる。

Charlotte Moth(1978~)の『思考する作業、作業する思考』は、ロダンの有名な作品を思わせる大理石の石像をさまざまな視点から断片的に写真に撮り、それを石版印刷したものを並べたもの。ひとつの統合されたものとしての石像を見ることが出来ないバラバラな視点をいくらならべて集合化しても、私たちが本来向けるはずであったまとまった一つの作品としてその石像を見る視点とはけっして同じものではない。そこには背中や、指や、足といった切り離された部分へ向けられた意識の集合しかなく、それは見るもののなかで完全な石像のイメージを構成することを拒んでいる。タイトルが示すとおり、頭のなかにひとつのイメージを統合する思考の過程を考えさせる。

 

アートとしての石とサイエンスの対象としての石をフラットに鑑賞してほしいという趣旨よりもむしろ、なんでもない自然物をアートと云えるのかどうかといった、あまりに語りつくされ今日ではいささか凡庸となった問いのみごとな変奏を本展に感じたのだが、それは会場であるインターメディアテクがKITTEといういささか特殊な建物のなかに存在するゆえだと云えば穿ちすぎだろうか。

はじめに述べたように歴史的建造物の保全を訴える反対派への配慮もありつくられたこの建物は、もとの建築物の構造を残し壁面などができるだけ再現された。しかし、いささか人工的と云ってもいいほどにレトロでスタイリッシュに統一された丸の内周辺のビル群のなかに埋没してしまっては、それはもはや旧東京中央郵便局という歴史的建築物の価値を、補足情報としての知識を伴うことなくしては観るものにうったえかけることはないだろう。傑出した近代建築の面影を少しでも残そうと意図されたレプリカは、そのおかれた環境にあっては歴史的経緯を説明するなんらかの「キャプション」なくしてはもはやレプリカとしての意味さえ持てないものになってしまっているのである。

もちろん、ある対象がアートとして見られうるかどうかは、対象と見るものをとりまくなんらかの「コード」によって規定されるという面もあるだろう。あやしげな詐欺師の売る壺にありもしない価値を見てしまうのは、詐欺師によってたくみに語られる/騙られるコトバや買い手の欲望といったものによって新たな意味がそこに生みだされるからだ。その演劇的と云ってもよいフィクションは、なにもアートに限ったことではない。ボードリヤールが「消費社会」と呼んだ現代におけるあいまいな価値の体系や、貨幣経済システムそのもの、あるいは宗教などひろくみられる現象だ。しかしそういった「コード」をはなれて対象とそれを見るものが向きあったとき、それがなんであるかがわかることを前提とすることなく、アートは見るものとのあいだに自立した関係をつくることができる。説明されることでまた別の見かたが生まれることはあっても、それは関係のありかたが変化するのであって美的価値が増えるわけではない。付加情報が多ければ多いだけ学術的な価値を増すサイエンスとの違いがそこにある。

特別展の入り口近くに展示された『北米先住民族の祝祭物』(紀元前600年〜500年)はそのことを端的にしめしている。サイエンスにおいてはこの黒光りする石のオブジェが宗教的な儀礼においてどのような「機能」をはたしていたかを特定する(あるいは仮定する)ことが求められ、それが明らかになるほど考古学的に意味があるものになる。しかしその「機能」がどのようなものであったかわからなくなった現代にあってその石のかたまりは、むしろなんであったかという本来の意味をはぎ取られたからこそ、あらたにアートとしての価値を創造することを見るものに「要請」する。つくり手としての特権的なアーティストが存在しないからこそ、見るものがそこに目と心というノミで自分だけの造形を見出していくのである。そこにはなにか固有名や解説の書かれた「キャプション」は必要とされてはいない。

 

わたしたちが対象をアートだと考えさまざまな意味をそこに付加していくことは、もちろん私たち自身が対象をそのようにとらえたいという欲望をもつゆえの能動的な行為であることは違いないが、同時にそれは意識を向けざるを得ない対象によってわたしたちがそのようにさせられてしまう受動的な行為でもある。語らねばならないのは壺を売る詐欺師ではなく、壺を前にしたわたしたち自身なのだ。

ひとはなにも語らないものをまえにしたときしばしば饒舌になる。なにも云ってくれない石を見て、わたしたちはそのオブジェクトに意味を与え続けることでその耐えられない沈黙を埋めようとする。その埋め尽くそうにも埋め尽くせないイメージの洪水に満たされた場所こそが、精神分析家ラカンの云うところの「想像界」だろう。

語らぬものをまえにしては、わたしたちは沈黙することが許されないのである。

 

 

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