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にらむその眼は何を見ているのか ~十一代目市川海老蔵論~

 

≪目次≫

Ⅰ 奇妙な役者

Ⅱ キューブリック凝視 ~顔のない目線~

Ⅲ 「見得」とはなにか

Ⅳ 合わない目線が生み出すフィクション

Ⅴ 中心のない円 ~能楽師の身体論~

Ⅵ 内面を埋めた歌舞伎役者たち ~明治・大正・昭和の歌舞伎精神史~

Ⅶ 海老蔵と幸四郎の記号論 ~『寺子屋』の松王丸の型をめぐって~

Ⅷ にらむその眼は何を見ているのか

 

Ⅰ 奇妙な役者

その怪力で悪七兵衛景清が自らをいましめた縄をいきおいよく引きちぎると、ひびきわたる大音声に獄屋の格子は砕け散り、舞台には折れた柱が次から次へと落ちてくる。はげしく鳴らされる津軽三味線にのり、とりまく捕り手を蹴散らしていく景清。はては舞台正面に現れた巨大な鏡餅の上に登り、これまた六間はあろうかという大海老を片手で持ち上げ見得をする。

考えてみれば、これほど理屈のとおらない奇妙な芝居はない。しかしこの、あとにもさきにも例をみない荒唐無稽な大芝居を演じ、観客から大喝采をうける役者がいる。

十一代目市川海老蔵。

歌舞伎の歴史のなかでも、最も由緒ある名跡である市川團十郎という、燦然と輝く名前を近い将来に継ぐことを宿命づけられた男である。市川團十郎家すなわち成田屋は、元禄年間に活躍した初代市川團十郎(1660~1704)をその祖とし、おもに荒事と呼ばれる荒々しく豪快な様式を家の芸とする。

これまでに十二人の團十郎がその芸を守り受け継いできたが、もちろん江戸歌舞伎の宗家として別格な存在でありながらも、かならずしも彼らのすべてが「團十郎らしい」團十郎ばかりというわけではなかった。陰鬱な悪を感じさせる役を得意とした四代目や、上品な色気ある二枚目役で人気を得ながら若くして自殺してしまった八代目、普通の銀行員でありながら婿養子として成田屋に迎えられ、九代目亡きあと役者として遅いデビューを果たした十代目(死後に名跡追贈)など、それぞれに個性のある團十郎によって、三百年以上の歴史が築かれてきた。二〇一三年二月、十二代目團十郎が惜しまれながらこの世を去って以来、この成田屋の看板を背負いながら新しい試みをつづけているのが、現・海老蔵である。

海老蔵はまだ新之助を名乗っていたときから、発声・口跡の悪さ、芝居のまずさなどがたびたび専門家より指摘されてはいたが、同時に「海老様」と呼ばれた祖父・十一代目團十郎を彷彿とさせる端正な容姿、荒事を演じるにふさわしい大きな目玉など、そのたぐいまれなる素質は多くの見巧者たちをうならせた。成田屋にとっては團十郎についで重要な海老蔵という名跡を十一代目として襲名した頃から、ぐっと芸力に磨きをかけるようになる。

懸案の発声の悪さを改善するために、坂東玉三郎の紹介と云われるヴォイストレーナーのもとで試行錯誤を重ねたと聞く。本来は海老蔵の声帯はたいへん優れた「楽器」で、持っている声そのものはツヤと深みのあるゆたかなものであることはもとより明らかであったため、数年の迷走を経て魅力的な声へと変貌した。またかなりの本格的な筋肉トレーニングと食事管理(いずれも個人的な趣味の部分もあるにせよ)につとめ、鍛え上げられながらもしなやかさをもった肉体を手に入れた。

そして上演される歌舞伎の演目について、また歌舞伎というジャンルそのものについての更新にも積極的だ。成田屋の家に伝わるいわゆる「歌舞伎十八番」のうち、レパートリーとして上演されるのは『勧進帳』『助六』『暫』『矢の根』『鳴神』『毛抜』などに限られていた。他の十八番の演目もごくまれに新しい趣向で復活狂言として上演されることはあったが、なかなか定着しないままに忘れ去られていた。そんな状況のなか、十二代目團十郎が『外郎売』『象引』『景清』を復活させたのを受け継いで、海老蔵は残る演目もさまざまな機会に復活させ(父・團十郎から「一つは封印せよ」といわれたとのことで、二〇一八年現在の時点で『不破』以外の十七演目の復活を完成させている)、そのうちの少なくないものは自身の手で再演を重ねている。また、オペラ歌手や能楽師といった、歌舞伎とは関わることのなかった他ジャンルとのコラボレーションも積極的に行っている。

しかしここでとりあげたいのは、もちろん海老蔵の役者としての成長ぶりではない。たぐいまれなる才能を持った人気役者の秘密にせまるものでもない。それまで愛する人を虐げられ自らの未来に絶望していたはずの人物が、まぶしくもめでたい舞台の真ん中で巨大な鏡餅の上に乗り海老のオブジェをかかげて見得をするというある意味グロテスクな舞台。そこに観客が興奮し拍手をおくりそれどころか感動の涙まで流してしまうという「フィクション」がどのように成立しているのか、それを検討することである。

そこへいたる道程として、まず歌舞伎の特徴である「見得」という演技術についての考察をあしがかりに、芸の根幹である「型」というものが一般的な「演出」とどう違うのか、それが近世から近代へどのように受け継がれまた変遷をたどってきたのかをみる。そして海老蔵と、彼とほぼ同世代の役者である十代目松本幸四郎との「型」へのアプローチの違いや、能楽師の身体表現などとの比較をとおして、現代の歌舞伎において「型」が持ちうる意味を考える。

そこに示されるのは、突然変異ともいえるひとりの役者の手によって、明治以降変質しつづけた歌舞伎がその新しい姿を見せるかもしれないという可能性であり、それとともにその歌舞伎のありかたが、現代演劇や他の舞台芸術などと同じコトバで語り得るものになるのではないかという問いである。

 

Ⅱ キューブリック凝視 ~顔のない目線~

スタンリー・キューブリックは、カメラの使用法、一点透視図法、ライティングへのこだわりなど、意識的にその手法にこだわった映画監督として知られている。そんなキューブリックの映画においてとりわけ印象を残すのが、しばしば効果的なシーンで登場人物が極端に上目遣いでカメラをにらみつける、キューブリック凝視(Kubrick stare)とよばれる手法だ。いわゆる「カメラ目線」という表現方法は映像作品ではさまざまな効果を生むが、このキューブリック凝視はまた独特な存在感を示している。彼らが恐れおののき、怒りにふるえ、ときにはあやしく微笑みながら無言でこちらを見つめる三白眼の「目線」は、必然的に観客のそれと交わることになり観るものをたじろがせるのである。

そんな「目線」のなかでもいささか特殊な例が、代表作のひとつである『2001年宇宙の旅』のなかで見出される。この作品は人類が月に住むようになった時代に木星探査へと出かけた、宇宙船ディスカバリー号がおもな舞台となる。暴走するコンピュータを停止させるべく船長ボーマンが孤軍奮闘するシーン、また彼がスターゲイトを通り抜けていくシーンなどでこの上目遣いの三白眼はつかわれているが、そのなかにあっても最も印象的な「目線」はディスカバリー号に搭載された人工知能HAL9000のそれである。

HAL9000はいわゆるヒト型ロボットのような独立した身体を持っているわけではなく、あくまでディスカバリー号に搭載されたプログラムだ。宇宙船の運行や船内のさまざまな環境制御を行っているが、同時にコトバをつかって乗組員とコミュニケーションをとり、相手の考えや気持ちを察したり、また自身の思考部分が停止されることに恐れを感じ「こわい」「やめて」などと発言したりと、人間的な面をもっているのが特徴だ。そのHAL9000にとっての「眼」にあたるものが、宇宙船内いたるところに設置されたビデオカメラだ。乗組員との会話のシーンなどでも繰り返しこのカメラのレンズそのものが映し出され、あたかも彼らが顔を突き合わせて話をしているように見えることがあるのだが、なにも云わないHAL9000がじっと何かを見ているときや、何かを考えているときにもしばしばカメラがクロースアップして映し出され、それがきわめて効果的な「キューブリック凝視」になっている。

そもそもビデオカメラのレンズは顔ではないし、そこにはにらんでいるだの三白眼だのといった表情はあらわれていない。それを眼であり「目線」であるとわたしたちが認識するのは、前述のように乗組員との会話をつうじて繰り返し話し手の顔であるかのように映し出されることで刷り込まれるためだ。それにもかかわらず、その偽装された眼がスクリーンのこちら側に向けられた映像を見るとき、わたしたちはその不気味なまでに鋭い「目線」が観客である自分に向けられているかのように錯覚し、同時にただの人工知能に過ぎないHAL9000の内面を覗き見るかのような不思議な感覚におちいるのである。

このHAL9000の偽装された眼が他のどんな登場人物よりも印象を残すのは、HAL9000の「内面のなさ」に由来する。それは人工知能に心や感情があるのかどうかとういう議論とは関係ない。たしかにHAL9000は人間的な感情があるかのような発言をするが、それは同時に文字通りコンピュータによって計算されたものであるという冷たさも感じさせるし、なによりそれを具体的な表情としてそとにあらわれたものから読み取ることを拒絶している。つまりここで云うHAL9000の内面のなさとは、より正確に云えば、HAL9000に内面があるかそれともないかということをわたしたちが認識できないということであり、その不確定性こそが、観るものを「ありもしない」内側へと引きずり込んでいくのだ。もっとも有名なキューブリック凝視の例として知られるのは『時計じかけのオレンジ』の主人公アレックスのそれだが、このタイトルのもとになった“queer as a clockwork orange”(時計じかけのオレンジのように奇妙な)という下町のコックニーが、「何を考えているかわからないおかしなやつ」という意味であることも、そのことをきわめて象徴的に示してくれる。

この異様な効果をもたらすキューブリック凝視と奇妙な類似性を感じさせる表現方法が、日本の伝統芸能に見出すことができる。歌舞伎における「見得」である。

 

Ⅲ 「見得」とはなにか

「おれに任せておけということよ」
 頬っ被りをし下手に座っていた与三郎が立ち上がり、懐に手を入れじりじりと舞台中央へ寄っていく。
「おかみさんぇ……ご新造さんぇ……お富さんぇ……いやさお富、久しぶりだなぁ」
「そういうお前は」
 不審そうに尋ねる上手のお富をしり目に、与三郎はいきおいよく手ぬぐいを取り顔をさらす。
「与三郎だ。おぬしゃあおれを見忘れたか」
「えぇ」
 一瞬ふたりは顔を見合わせたかと思うと、ぐいっとからだをひねり各々にポーズをとりツケ打ちにともないきまる。

歌舞伎のなかでも人気の高い演目である『与話情浮名横櫛』の「源氏店」のワンシーンである。やくざの愛人として囲われていたお富と出会って恋に落ちてしまった与三郎が、やくざに制裁をうけ海に投げ込まれて生死をさまよう。命はとりとめたがゆすりをなりわいにするようになった与三郎が、偶然にも三年ぶりにお富と再会する場面である。このあと、「命の綱の切れたのを…」という名科白がつづく。春日八郎の歌った「死んだはずだよお富さん」で昭和時代にはよく知られていた話だ。

ここで大事なことは、この短い場面のなかでもっとも緊張感がたかまりクライマックスになるのが、けっしてセリフの応酬ではなく、ツケ打ちとともにふたりの身体の形がきまるところにあるということである。歌舞伎においてセリフというコトバも大事だが、それ以上に役者の身体がつくりだすダイナミズムがその根幹にあるのだ。

演劇評論家の渡辺保はこの歌舞伎役者の身体的な演技を、動きをともなう「しぐさ」と静止する「きまり」のおりなす静と動の演劇であると定義し、次のように云う。

つまりいくつかの動きの連続が漸層的に積み重ねられて一つのクライマックスとしての「きまり」をつくる。このことが重要なのは、小さな一つ一つのしぐさによってエネルギーを発散しつつある身体が、最後の瞬間に大きくそのエネルギーを凝縮させるのが「きまり」だという点である。(渡辺保『歌舞伎~過剰なる記号の森』より)

この身体がつくりあげる「きまり」とそれへ向かっていく「しぐさ」が描き出すエネルギーの折れ線グラフ。時間軸という流れの中での「音楽劇」としての顔を持つ歌舞伎の大きな特徴だ。この「きまり」は折れ線グラフのかどかどにおいて、小さなものはちょっとしたアクセントとして、大きなものはひとつの頂点として存在する。その大きな「きまり」のうち特に強調され、より力強い表現をおこなうのが「見得」とよばれるものである。

「見得」はおもに立役(男の役)においてなされる「きまり」の一種である。一連の動きの流れの中でひときわ大きく身体をきめ、「の」の字を書くように首を大きく振りかぶり、ここぞというポイントでちからづよく見開かれた眼でにらむ。多くの場合は「ツケ打ち」とよばれる樫の板と拍子木をバタッ、バタッと打ちつけた音をともなうダイナミックなものになる。

この「見得」を説明するのに「映画などにおけるクロースアップのようなもの」と語られることが多いが、はたして適切なたとえかといえばそうではあるまい。クロースアップは被写体を大写しにして強調すると同時に、強制的に見る対象を限定する。しかし歌舞伎の「見得」とはそこに流れているエネルギーをせき止め、緊張感が最大限に高められたひとつの静止画にしてみせることである。それはわかりやすく云えば静止しながらも実は時間が流れ続けているという矛盾の上に成立したスクリーンショットである。そのスクリーンショットは、じっと見つめているはずの役者そのものだけではなく、まわりの脇役との構図や背景などもっと広い範囲のものを含んだものになっているはずだ。歌舞伎が「絵面」の芸術と云われるゆえんである。そのとき観客ひとりひとりの眼がカメラになるのであり、「見得」の瞬間わたしたちはそのシャッターをきる。

このときひとつの奇妙な現象がおこる。舞台の上で役者が「見得」をするとき、その役者と目が合うなどということはほとんどない。考えてみればあたりまえで、これは歌舞伎に限ることなく役者はどこか一方に顔を向けて芝居をしなければならないわけで、とくに横幅の広い歌舞伎の劇場においては「見得」の瞬間に役者と目が合うのはほんのひとかたまりの観客に過ぎないだろう。それにもかかわらず、わたしたちは役者と目が合っているような感覚におちいることがある。もちろんそれは錯覚には違いなのだが、なぜそのような現象がおこるのだろうか。

 

Ⅳ 合わない目線が生み出すフィクション

(続く)

 

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