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宛名のない手紙

 

 

そのとき、ライトスタンドでビールをひとくち、すっと呑んでおじさんは、
「あっ」
とかすかに声をあげた。
「どうしたの?」
ビールになにかイヤなものでも入っていたのかな、と思った。
「いや」
おじさんはなんでもなかったように、またひとくちビールを口にする。
ぼくはおじさんがビールを呑んでいるのを見るのが好きだ。ぼくはまだビールが呑めない。一度だけ、お母さんの呑んでいるのに口をつけたことがあったけど、ちっとも美味しいとは思わなかった。お母さんは、子供には子供に似合った、大人には大人に似合った呑みものがあるんだって云っていた。ぼくも、大人になったらあの苦い味を美味しいと思うようになるのかもしれない。とにかく、いまのぼくにはビールは似合わないんだと思う。
「また残塁だ」
おじさんがつぶやく。
「うん、なかなか入んないね、点が」
「入らない。思ったとおりだ」
「なんで打てないんだろう、チャンスで」

ヤクルトスワローズは強いチームじゃない。何年か前、ぼくが初めてお母さんに神宮球場に連れて来てもらった次の年に優勝したけど、強いのはその時だけだった。だからお母さんは神宮に来ると、文句ばっかり云っている。だからぼくは、お母さんがビールを呑んで文句を云いはじめると、席を離れて違うところで試合を観る。
 おじさんに初めて会ったのは今年の夏だ。ライトスタンドの端っこの方でおじさんは一人で試合を観ていた。おじさんもお母さんみたいにビールを呑むけど文句を云ったりしない。静かにビールを呑みながら試合をじっと観ている。隣が空いてるって声をかけてくれてから、なんとなくいつもおじさんの横に座って試合を観るようになった。
 
「なんでだと思う?」
「なんでって、チャンスで打てないのが?」
「そう」
「そりゃ、チャンスに弱いからだよ」
「そうかもしれない。でも、ランナーがベースにあれだけいるんなら、ヒットを打たなきゃ。四番打者バレンティンにはホームランが似合ってる」
「大人にビールが似合うように?」
「大人にビールが似合うように」
おじさんはぼくを見て微笑んでまたビールを口にした。
「でも打てないんだよ。バレンティンだって」
「あれのせいなんじゃないかって思う」
「あれって?」
おじさんはビールを持っていない方の手でライトスタンドの後ろの方を指さした。
「応援団のこと?応援団のせいで打てないの?」
「応援団が悪いんだっていうのとは少し違う。さっき演奏してたチャンステーマのせいなんじゃないかって思う」
「チャンステーマ」
ぼくはおじさんの云う言葉を繰り返した。
「ランナーがベースに出ているときにみんなで歌うチャンステーマ。いくつかあるうち、さっきやってた〈チャンステーマⅣ〉のせいなんじゃないかって思う」
「なんでその〈チャンステーマ〉で打てなくなるの?」
「ちゃんと全部を調べたわけじゃないけど、試合を観に来たり、テレビで観ていたりして思うのは、あの〈チャンステーマⅣ〉が流れるときって、不思議なくらい打てないんだ。意味のないフライを打たされたり、ダブルプレイであっという間に攻撃が終わったり。せっかくいたランナーは残塁に終わる」
「ザンルイ」
「そう。一点もとれずにね。ネットでは〈チャンステーマⅣ〉のことを〈残塁テーマ〉とか〈残テ〉とかって云うらしい」
ふだんは静かにビールを呑んでいるおじさんが、こんなに話をするのははじめてだ。
「でも、そんな不思議なことってあるのかな。たまたまとか」
「そうかもしれない。でも、偶然じゃないと思う。あの曲には、チャンスで絶対にやっちゃいけない音楽の特徴が全部含まれているんだ」
「それってどんなこと?」
「ランナーが得点圏に進んでチームも観客も盛り上がっているのに、まず重苦しいテンポとメロディで前奏がはじまる。テンポが速くなっても、歌のリズムが複雑だし、みんなが手に持ったメガホンバットを叩いて拍子を取るには乗れない曲なんだ」
たしかに、ファンみんなが声をそろえて歌うには難しい音楽なのかもしれない。
「わかりにくいかもしれないけど、抑圧されたような、苦しいのを我慢して根性で耐えていこうというような、そんな音楽なんだ。せっかくのチャンスで盛り上がっているお客さんにとっても場違いだし、なにより積極的にチャンスで打とうとするバッターの気持ちが、固くなってしまうんだ」
「そうすると打てなくなる」
「打てなくなる」
ぼくは、ぼくにビールがまだ似合わないように、チャンスにも似合わない音楽があるということを知った。学校では教えてくれないことを、おじさんは教えてくれる。

大きな歓声があがり、ライトスタンドはみんな立ち上がった。いっせいに傘を振る。また味方の攻撃になって、雄平がいきなり初球を打ってホームランになったからだ。一万人以上のひとが傘をいっせいに振るなんて、この神宮球場でしかありえない。
「さっきホームランだったら三点入ってたのにね」
「ものごとはそう簡単にはいかない」
「残塁テーマのせい」
「そうだとは決めつけられないけどね。でも音楽って、ひとが考えてる以上にひとの気持ちに影響があるんだと思う。だからこそ、応援歌を歌って応援するのにも、リズムに合わせてみんなが傘を振ったりするのにも意味があるんだと思う」
ぼくは横に座っているおじさんの顔を見上げた。ぼくのカンでしかないけど、おじさんはたぶん有名な曲を作る人かなにかだ。このおじさんだったら、ヤクルトスワローズを救ってくれるかもしれない。
「おじさん」
おじさんは呑んでいたビールをいっきに呑み干すと、ぼくの顔をじっと見た。
「おじさんが新しいチャンステーマを作ってくれたらいいと思う。だめかな、おじさんはきっと曲を作ったりする人なんでしょ?」
「なんでそう思うんだい」
「わかんないけど、音楽についてすごく詳しいから」
「残念だけど、おじさんは曲を作らない。小説を書くことはあるけど。たまに」
なんだ。おじさんは曲を作らない。新しい、みんなが明るくなれるチャンステーマがあったら、ヤクルトスワローズも広島カープなんかに負けないと思ったのに。
「ごめんね。たしかに若いころジャズを流すバーをやっていたこともあったから、少しは音楽のこと知ってるつもりだけど、作曲することとは全然違う。どうやって作曲するかなんて何も知らない。だから、それ以上のことは云えないんだ。世の中にはね、知らなかったことも知っているような顔をして、平気で話をする人もいるけれど、それは、本当はとても恥ずかしいことなんだ」
「ものごとはそう簡単にいかない」
ぼくはおじさんの真似をして云ってみた。じゃあ、どうしようもないのかもしれない。これからも、チャンスになるとあのテーマ曲が流れて、山田もバレンティンもかんじんな時に打てないのかもしれない。お母さんみたいに、みんなは文句を云うくらいしかできないのかもしれない。何年か前みたいにヤクルトスワローズが優勝することはまたあるんだろうか。ヤクルトスワローズには、優勝するってことがそんなに似合わないんだろうか。神宮球場にはあんなにビールが似合うのに。

「聞いてみてもいい」
たぶんとても悲しそうな顔をしていたぼくを見て、おじさんは優しい声でそう云った。
「ちょっと心当たりのアーティストがいる。スワローズのためにちからになってくれないか、聞いてみてもいい」
「ほんと?あたらしい曲を作ってもらえるの?」
「そこまではわからない。でも、そのひとが作る音楽だったら、もしかしたら選手も、スタンドのお客さんも、みんなで気持ちを合わせて応援できるかもしれない」
「おじさんがきいてくれるの?」
「うん。ちょっとその人とはつながりがあるんだ。手紙を書いてみようと思う。おじさん、作曲は出来ないけど、文章を書くことには人より慣れてると思うから」
「書くことが似合ってるんだね、おじさんには」
「そうかもしれない」

また大きな声が上がって、ぼくは思わず立ち上がった。大人たちがみんな夜空を見上げて歓声をあげた。山田哲人の打ったボールは高く舞い上がり、バックスクリーンに当たって、いきおいよく跳ね返った。

 

~    ~     ~

 

はじめてお手紙を差し上げます。会ったこともないあなたに、このようなお手紙をかくことになるとは、わたし自身思ってもみなかったことでした。ふだんの私は、もちろんそんなことはしないはずです。こうやって文章を書くことだって、いままでほとんどしたことがないような人間なのです。
 ふとしたことからある少年と知り合うようになり、なんどか言葉を交わすうちに、わたしはちょっとした嘘をついてしまいました。その子供があまりにわたしのことを何でもわかっている大人だと思ってくれているようなので、ついつい、誰もが知っているある有名な小説家になりきったつもりで、彼との会話を楽しんでいたのです。先日、その少年があまりに悲しそうな顔をしているのを見て、わたしはまた嘘をつきました。あなたのことを知り合いだなんて軽く云ってしまったのですが、もちろんわたしはあなたとは面識はありません。でも、そんな大人気ない真似をしたのも、すべてはその少年の望みをかなえてやりたいという、野球場に毎日足を運んでビールを飲むくらいしか趣味のないつまらない男の、いささか思い上がった願いゆえのことだと、お笑いくださればと思います。

こうしてお手紙で私があなたにお願いしたいことはただひとつです。昨年最下位に甘んじてしまったある野球チームのために、新しい応援歌を作曲していただきたいのです。

日本の野球の応援と云うのは、本場アメリカのメジャーリーグからみるととても特殊なのだそうです。あちらでは内野席から外野席まで観客は思い思いに試合を見ているのに、日本の野球は外野席の真ん中に陣取った応援団のリードに合わせ、見事なまでに応援をし続けます。応援はチームによってそれぞれ特徴があり、リズムにのったり、簡単な振りがついていたり、様々です。外野席に集まるファンにとって、試合を観戦することが目的なのか、そこでみんなと一緒に応援パフォーマンスをすることが目的なのか、自分でもわからなくなっている人もいるかもしれません。
 わたしはそんなにノリが良い人間ではないので、応援団からは少し離れたところで静かにビールを呑みながら応援するのですが、一心不乱に応援をする一万人ちかいライトスタンドの観客の一体感は、なかなか見ものです。

あなたの音楽をはじめて聴いたのはYouTubeでした。いまの若い人たちには自然でもわたしにとってはいささか新鮮なサウンドでしたが、興味をもって次から次へとあなたの作った曲を聴いているうちに、しだいに良い意味で「慣れ」ていきました。MVを見ていると、ああ、わたしたちの日常はこんなにさりげなくて、お洒落でいいんだな、と思います。頑張れという無責任な声に疲れながら生きているわたしたちに、もうちょっと肩のちからを抜いていいんじゃないか、と軽く云ってくれている気がします。そして、それは「みんな」そうなんだから、とも聞こえます。

 

あなたのつくる音楽は、聴くものにすてきな一体感をもたらします。その一体感は、もちろんライブ会場で音楽に合わせノッている人々の一体感だけではなく、不思議なことに、スマートフォンから流れるあなたの音楽をイヤフォンで聴いているこの「ひとりのわたし」にもたらされるものなのです。押しつけられることのないゆるやかな流れの中にいながら、たぶんどこかにいる「みんな」も、この同じ流れの中でこうやって一緒に聴いているんだ、と無意識に思わせてしまう、そんな一体感です。

そんな不思議な一体感をもたらすのは、ひとつは単純に繰り返される要素の重なり合いでしょう。リズム、ハーモニーパターン(いわゆる「Just The Two Of Us進行」とも云われる定番の和音進行)の繰り返し、曲によっては執拗なまでの歌詞の繰り返しなど、それはいたるところに見出すことができます。古今東西、単純な繰り返しをともなう音楽は、聴くものを時間や空間から解き放ち、自分とそれ以外の間の関係性をぼやけたものしていくちからを持っています。それは祝祭や宗教を演出したり、忘却や陶酔をもたらしたりという役割を果たしてきました。あなたの音楽には、その繰り返される音楽のもつ(ある意味では暴力的な)向心性というものが、無理やりではない非常に自然なかたちで存在しているのです。それは、繰り返されるいくつものレイヤーを、たくみに重ね合わせるあなたのテクニックゆえなのでしょう。

あなたの作品のジャケットデザインに使われているイラストも、とても独特ですね。なんという名前の方でしたか、その方の描かれる80年代か90年代前半を想起させるいささかレトロな絵柄と、あなたの曲とが不思議にマッチしています。あなたの音楽そのものも、古い時代の音楽からインスピレーションを受けたり、それを素材として使うこともあると聞きました。もちろん、どこか懐かしいものがあるから一体感が生まれるというわけではありません。素材と距離を持ってあくまで素材として扱うことで、「ここ」ではない、「いま」でもない、それらを越えた時間や空間を生み出しているのです。
 あなたは自分の歌声さえもリアルなものとしては考えず、つねに加工して使用していますね。声もまたあなたという名札を剥がされ、素材のひとつとして扱う。固有名や時代性を失わせることで「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」を生じさせている。それだからこそ、その中に多くの人が入っていける。誰かの世界ではない、誰のためのものでもないからこそ、多くの人がそこに心地よい居場所を見出す。誰でも受け取ることができる、宛名のない手紙。それがあなたの音楽のもたらす「一体化」の秘密でなのですね。
 かつてセクシーシンボルと云われたある女優の死にあたって、彼女の写真を加工した作品を発表し話題になった有名な「ポップアート」の旗手がいましたが、あなたはまさに現代の「ポップ」そのものなのです。

顔も名前も知らない人が、たまたま隣り合う野球場の外野スタンド。音楽に合わせ身体を動かし、また短いコールを延々と繰り返す。その瞬間しか存在しない「みんな」の間に不思議と生まれる一体感。あなたの作り出す音楽が野球の応援そのものだなんて云いません。ただ、あなたの生む世界は、野球の応援にとても「似合って」いるのです。
 どうかお願いです。応援するチームが優勝するその日を夢見ているひとりの少年のために、みんながひとつになれる応援歌を作っていただけないでしょうか。それは、誰のものでもないからこそ誰をも受け入れる、きっとすてきな応援歌に違いないのです。

 

M・C マイ、コンポーザー。

平成三十年八月

 

文字数:5988

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