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〈壁〉なき時代をこえて

 

「ただいま終了いたしました閣議で元号をあらためる政令が決定され、第一回臨時閣議後に申しましたとおり、本日中に公布される予定であります。新しい元号は『平成』であります」

小渕官房長官はこう云うと毛筆で新元号の書かれたパネルを掲げた。わたしたちはこれから自分たちの前に続いていく新しい時代が名付けられたことを目と耳の両方で知らされた。時代の名前が変わったことでわたしたちの生活に直接なにか変化があったわけではないが、過剰なまでにさまざまなイメージをともなう「昭和」という二文字から看板をかけ替えられただけで、新しい時代がはじまるような空気をもたらした。

平成元年、というよりも一九八九年の十一月、東西冷戦の象徴であったベルリンの〈壁〉が崩壊。〈壁〉の崩壊やそこにいたるまでの様子は連日テレビ画面に流れ、わたしたちは「平成」の文字と同じようにその変化にリアリティをもって見入った。長く続いていた戦後が終わりを告げたのだとわたしたちの多くが感じたに違いない。政治的な〈壁〉、イデオロギーの〈壁〉といったものが壊れていくのを目の当たりにし、その先には新しい世界が開けているのだと思われた。

しかし、平成の世がまもなく終わろうとしているいま、それがほんのひとときの幻想にすぎなかったことは誰もが知るところだ。ベルリンの〈壁〉崩壊からひと月あまりたった十二月末、右肩上がりを続けていた日経平均株価が史上最高値を記録したが、その後それを頂点にまもなくバブル経済がはじけ、日本の経済は長いあいだ閉塞感につつまれる。増加の一方であった人口が減少に転じ、深刻な将来の超高齢化社会への不安が見えてきたのもこの平成時代だった。漠然とした不安などではなく、そんなに遠くない未来にやってくるさまざまな問題をはっきりと認識しながらも、それにたいしてどうしてよいかわからないまま繰り返すしかない毎日。現実の〈壁〉の崩壊とともにはじまった平成という時代は、それを遮るものがなくなったのにもかかわらず、不思議に閉じられた空気のなかにあった。

 

平成の時代のはじまりにわずかに先立つ一九八五年、村上春樹は長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書き下ろした。現実の世界を思わせる「ハードボイルド・ワンダーランド」で暮らす計算士の「私」の章と、一角獣の住む〈壁〉に囲まれた「世界の終わり」のなかにいる「僕」の章が交互に進行し、しだいに二つの世界がリンクしあうかのように書かれている。世界のあり方そのものに「私」の個人的な内面が直結しているさまを見事にえがくことに成功しており、その後の村上文学が大きく拡張する転機になった作品であるとともに、その後九十年代にマンガやアニメ、またゲームなどで「セカイ系」とよばれることになるジャンルの源流のひとつとして考えられている。

「セカイ系」とは、きわめて個人的な領域と、はてしなく大きく拡がった世界の構造そのものが直結しているようなありかたをもつ、九十年代からゼロ年代にかけて一大潮流となったフィクションのジャンルである。「セカイ系」のフィクションには、中間にあるはずの社会というものがすっぽりと抜けており、ある意味それは現実をはなれて個と宇宙そのものの一致に無限の可能性を見出す真言密教的なありかたのようでもある。

これら平成の前期から中期にあらわれた作品の多くに共通するのは、わたしたちが現に生きているこの世界ではなく、「ここではない別のどこか」をえがこうとしているということである。フィクションの枠を超えた「メタフィクション」的な試みが純文学のみならずミステリーやSFの分野でもさかんに行われてきたということも、この世界そのものをえがく対象としてはいないという意味では同じだ。遮るものがないはずでありながら閉塞感のある「この世界」の中でなにかを選択することをやめた人々が、別の世界へと可能性を求めた姿を反映していると云えるだろう。

しかし現実であれフィクションであれ、ある世界が存在するためには、その世界を成り立たせるためのルールが必要である。それはしかしそのルールがアクセス不可能なものであることを知ったとき、それは越えられない〈壁〉となってわたしたちの前に立ちはだかる。それは個人が閉じこもろうとする世界であっても、それを成立させているルールがある以上同じことであり、この大きな世界構造そのものとつながっているかにみえた私的な領域でさえ、結局は〈壁〉に囲まれたものにすぎなかったということだ。九十年代からゼロ年代にかけて、見えない〈壁〉にかこまれた「この場所」から逃げ出したわたしたちは、逃げ込んだそのさきの世界もまた〈壁〉に取り囲まれているということをなかば無視しようとしたのである。

 

しかしながら平成も後期になると、まさにわたしたちの世界が〈壁〉に囲まれていることそのものをえがく作品が生まれた。二〇〇九年から今もなお連載が続く諫山創のマンガ『進撃の巨人』である。
人類はそのむかし、人間を捕食する巨人たちによって絶滅の危機にさらされたが、いまでは巨人の進行を阻む高い三重の壁に囲まれた広大な土地で、恐ろしい過去を忘れ平和に暮らしている。そんなある日、突如としてあらわれた「超大型巨人」と「鎧の巨人」により一番外の城壁を突破され平穏な日々は打ち砕かれる。二番目の城壁の内側まで撤退を余儀なくされた人類だったが、巨人の秘密を知ることで、その力を利用し失われた領域を奪回、そして城壁の外の巨人たちに戦いを挑む、という話である。

けっして画力に優れているとは云えないこの作品がまたたく間に多くの読者を魅了し、様々なメディアミックス展開をみせている理由が、その圧倒的な世界観や、謎が謎を生みながら読むものの想像を裏切り続けるストーリーであることは間違いない。しかし同時にそこにえがかれている城壁の中で生きていかざるを得ない人類の境遇が、平成がはじまって以来わたしたちだれもが肌で感じながらも気がつかないふりをしてきた、見えない〈壁〉に囲まれたこの世界そのものを無意識のうちに重ね見ているからではないだろうか。

もちろん、この作品に登場する城壁は、前述のように巨人の侵攻から人類を守るためのものだ。そういう意味では、古代や中世において外敵から身を守るために作られた防護壁にすぎないかもしれない。しかしそれは同時にむしろ人々を内側へと閉じ込める〈壁〉であり、外の世界との接触や、(やがてストーリーが進んでいくにしたがって明らかになるように)見せかけではない真実の情報へのアクセスを阻む〈壁〉なのである。

『進撃の巨人』で少なくともその時点で登場する人々にとっては、自分が生まれた時にはすでに世界が〈壁〉に囲まれている。まるでそれは高度成長期もバブル経済も知らず、はじめから社会に蔓延している閉塞感の中に投げ出された世代を象徴しているかのようだ。平成の時代が終わり、新しい時代がはじまろうとしている今、ふたたびこの世界と向き合い進んでいくためにわたしたちがあらためて気がついたものはなにか、気がつかなければならないものはなにか、それを『進撃の巨人』はまざまざと示す。〈壁〉に囲まれたいまここにある場所こそが、人々にとって唯一生きていけるリアルな世界だということを。

わたしたちは〈壁〉に囲まれて生きている。

 

文字数:2996

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