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“You must change to remain the same” …but…

 

古典文芸作品の新訳がブームになって久しい。古典作品をあまり読むことのなかった層に『カラマーゾフの兄弟』を手に取らせベストセラーになるなど、訳そのものに賛否はあれどもその功績はあきらかである。今ではドストエフスキーやトルストイにとどまらず、難解な哲学や経済学の古典も読みやすい新訳がされるようになった。

古典新訳のメリットはなんだろうか。表現が更新され意味がわかりやすくなること。文法上の誤解やバックグラウンドへの理解不足などからくる誤訳が訂正されること。そしてなによりも、新たに訳されることで常に現代人が受容しやすいコンテンツへと否応なくアップデートされるということである。それは、250年前に作曲された楽譜そのものはかわらずにありつづけながら、十九世紀にも二十世紀にも、また二十一世紀の現代にも、それぞれの時代にふさわしい「演奏」を通すことでその価値を更新しているのと似ている。

 

いわゆる「クラシック音楽」という名称でひとくくりにされる音楽ジャンルのシーンの大きな特徴は、圧倒的に「再現芸術」の世界だということである。クラシック音楽の延長線上にあるという意味でのいわゆる「現代音楽」や、伝統的な手法による新作がわずかながら供給されてはいるが、コンサートや劇場で取り上げられるのは十八世紀から二十世紀前半の作品がほとんどだ。そのため、それらの古典作品をどのように「解釈」し、どのように「演奏」するかというその差異そのものが、その演奏レヴェルの優劣とともに聴くべき対象になる。繰り返されるその演奏を翻訳行為にたとえるならば、クラシック音楽の世界はまさにコンサートやオペラが上演されるたびに「古典新訳」が行われているジャンルと云える。

しかし、時代が古いものになればなるほどその根拠となる楽譜があいまいになるために、演奏者による解釈も分かれることが多い。

『魔王』や『野ばら』といった歌曲で知られるフランツ・シューベルトは十九世紀初頭のウィーンで活躍した作曲家である。31年の短い生涯のうちに600曲をこえる歌曲の外に、たくさんの交響曲、室内楽曲、ピアノ曲などを残した。いうまでもなく現在にいたるまで世界中で演奏され続けている「古典」だが、その楽譜には演奏者を悩ませるいくつかの問題がある。そのもっとも大きなものは、「decrescendo/accento問題」である。

decrescendoは楽譜上では文字でdecres.と書かれることもあるが、多くは長い「>」で表される。これが付されたあるフレーズはその記号が付されているあいだ、だんだんと音量を小さくしながら演奏される(譜例1)。accento記号というのは短い「>」で表わされ、記号が付された音符を強調して(多くの場合は強くはっきりと)演奏することが求められる(譜例2)。

二つの記号は似てはいるが、実際に楽譜を見るとそれが一つ以上の音符のかたまりに与えられた「decrescendo」記号なのか、単独の音符に与えられた「accento」なのかは明白のようにみえる。しかしながらシューベルトの場合、この二つのどちらなのか判別がつかないケースが頻出する。交響曲ロ短調D795の第二楽章でも、書かれた松葉型の記号が、decrescendoを表しているのか、それともaccentoを表しているのか、判別しにくい代表的な例がみられる。(下記自筆譜)

このどちらともいえない記譜に対して、終わりのない議論が繰り返された。それどころか、印刷譜の出版段階において、出版された時代の演奏法や趣味といったものが反映されることにもなった。十九世紀に印刷されたスコアではすべてdecrescendoに統一されているが、二十世紀に出版されたいくつかの新版では、そのほとんどがaccentoに統一された。演奏も解釈も、それぞれの時代で流行り廃りがある。しかしこの問題は、「どう演奏したいか」というたんなる趣味の問題なのだろうか。

シューベルトが意図して演奏者が判断しにくいようにあいまいにしたとは考えられない。楽譜とは楽曲が作曲者の手をはなれひとり歩きした時に、つねにある程度は同じように演奏されることを期待して書かれるものだからだ。ここで問題になっている演奏の「ニュアンス」に関係するものはなおさらである。演奏のされかたを方向付けるために作曲者は細かい記号を書くのであって、そこをあいまいにして演奏者のセンスにまかせる(あるいは演奏様式の伝統として書かなくてもわかる)部分は細かい記載はしない。

このことから、考えられることは一つしかない。わたしたちに「あいまい」と見える「>」記号は、シューベルトにとってけっして「あいまい」なものではなく、ある一つの明確な演奏法を示していること。そして(少なくともシューベルトにとっては)この記号の持っている概念はそもそも現代のわたしたちが知っているdecrescendoでもaccentoでもないということだ。つまり、「decrescendo/accento問題」とは、わたしたちがあたりまえと感じている現代の演奏法の概念を無理やり200年前の音楽にあてはめることで生じた、「本来は存在すらしない問題」だったのである。

演奏者という解釈者の手にゆだねられ、楽譜が耳で聞こえる音楽作品に形を変えるとき、どうしてもそれは個人的な趣味や伝統というフィルタを通さざるを得ない。その多様性や幅はもちろん尊重されるべきだし、その差異がなければコンサートは成り立たないことは冒頭で述べたとおりだ。しかし、それが後世の常識や判断基準となる概念にとらわれてオリジナルそのもののイメージや位置づけを根本から「書き換えてしまう」危険性があることをつねに警戒しなければならない。

 

文学作品における言語のオリジナルと翻訳されたものの関係が、作曲者が残した演奏との関係に似ていることは先に述べた。演奏者がその書かれた楽譜を音にするときに選択する演奏法は翻訳家にとってはコトバである。読み手が時代とともに変わっていくなかで、オリジナル作品の内容や背景が伝わりにくくなっているとすれば、それを補うものとして現代のわたしたちが使う新しいコトバにおきかえていくことは有効だ。だが、その新しいコトバがわたしたちにとってあまりに特定の意味や概念を想起させる場合、それがオリジナルのイメージを知らず知らずのうちに書き換えることにもなり、あたかもその作品が書かれた時代にもわたしたちの時代と同じような考え方や情景がそこにあった「かのように」思わせてしまう危険性をはらんでいる。警戒すべきは翻訳にあたって選択されるコトバのアナクロニズムではなく、そのコトバに付随する概念のアナクロニズムなのである。

古典作品はともすれば、一部の専門家にしかその意味を理解できない博物館の陳列物になってしまう。原語のオリジナルは良くも悪くもいつまでも改変することが許されないオリジナルだが、翻訳はつねにその時々に新たに生まれる「新作」としてオリジナルを超えた存在になる可能性を持っている。だからこそ「再現芸術家」たる翻訳者はつねにオリジナルに帰っていく。そして、そこに滅ばざるオリジナルがあるからこそ、翻訳者の手によって古典作品は火の鳥のようになんどでも甦りはばたく。明日読まれる翻訳は、今日とは別の翻訳なのだ。

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