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人間を記号として扱うことによる自己満足からの脱却、その行動者千葉雅也

ジョージ・スタイナーは⽂学の現代的な在り⽅について“To Civilize our gentleman”において、”A neutral humanism is either a pedantic artifice or a prologue to the inhuman ”と述べている。

前者の「衒学的な術作」には、例えば、⼈⽂学を⼈⽂科学と称して⽂学を合理的に構築可能であり、実証的に成果を積み重ねていくような、⾃らを正当化しようとする科学的な態度も含まれるだろう。こうした科学的⽂学研究において作品は⽂学理論によって切り刻む傾向にあり、⽂学⾃体が学者同⼠の内輪議論で消費されてしまう。

後者の「⾮⼈間体への序幕」とは、彼の⾔葉を借りれば“moral optimism”を指しているのだろう。⽂学を研究する、或いは伝道するという⾏為は殆どの場合、「道徳的な⼒」を育む結果を⽣むだろう。そこで「⽴派な⽂学を読めば道徳的に向上するのは必然である」「⼈間が⽴派になるから古典を読む」という論理に繋がる傾向にある。しかし20 世紀以降の歴史を知る者からすると、この論理が⾮常に耐え難い楽観主義であるとわかる。例えば、1940 年代にはヨーロッパ⼤陸の中央でナチズムが発⽣した。ナチス党員は社会的エリートであり、⽂学をはじめとした教養は庶⺠よりも⾝についていたはずなのに、ホロコーストを断⾏した。つまり⽂学(⽂学的素養)は野蛮に対する規制にはなりえない。

秘められた意味やイメージに⾔葉を与え、現実世界の外延を拡張することができるという点で哲学もまた文学であり、哲学もまた不完全である(ハイデガーがそうでったように)。千葉雅也氏もそうした形のない世界に⾔葉を与え続ける営為によって、新たな価値を発信する人物の一人だ。

 

朝日新聞デジタルの『権力による身体の支配から脱すること――。哲学者千葉雅也が考える筋トレの意義』で、千葉氏は人間の権力支配に従順な心身を育むという点で義務教育における体育を指摘した上で、自身の筋トレをそうした権力の身体の支配からの解放と銘打つ事で対置している。インタビューの中で千葉氏はこのように語る。

 

「心と身体を支配し、人間を従順な存在に仕立て上げることを規律訓練、ディシプリンといいます。これはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの概念で、基本的に日本の体育の授業はこれに当たる。義務教育の目的は『いかに権力に逆らわないで従順に働く主体をつくるか』であって、体育はまさにそういう抑圧的な身体教育をやっている。だから僕にとって、筋トレも含めてスポーツをもう一度やろうという動機は、権力による身体の支配に対して、いかに自己準拠的な身体を取り戻すか、ということにあります。」

 

群衆を権力に従順にさせる方法は二つある。1点目に番号付けをすることであり、2点目に整列させることである。特にマスメディアの日常への浸透率の増加に併せて大衆の異常発達が進んだ結果、大衆の情報に対する反応は脊髄反射的になる。パワハラやセクハラといった物理的な一対一対応の過酷さが可視化されるようになった現在において、未だに「システム」は包括的で目に見えないまま私たちに影響力を行使し、飽和して身近に有り触れた「情報」のお陰で常に拠り所のある、何の違和感も生まれない世界の中で自己満足することすら可能だ。人は自らの信じることに盲目的になり、またそれに踊らされるが故にフィルターバブルは突破され難く、現状人々は「考える」時間をあまりにも持たなくなってしまった。

例えば「わたしは、ダニエル・ブレイク」という映画において最も重要なメッセージは大衆を操作する公権力の居直りに個人の尊厳が淘汰されてはいけないということだった。

主人公ダニエルは病気のため就業できずにいるも、セーフティーネットは機能せず、行政の機械的な対応によって彼は助けられない。シングルマザーのケイティーはお金と身寄りがないため生活に困窮している。

二人を苦しめる今日の官僚制度が無能と形容されるのは、システムにとっての成功か失敗かであるかが最早重要であるという認識が権力側にあるからだ。つまり庶民の福祉を守るための公的機関において、システムの維持が自己目的化してしまっているのだ。それ故にそこには一切の人権が考慮されない。映画内で二人が窓口で追い返されるシークエンスはこのことを示している。尊厳あるべき個人は、単なる群衆の中で番号化され、整列させられる記号となる。窓口に並び、書類や手続きを通ることでやっと社会的に人格が与えられる。

だからこそ、この映画は「ダニエル・ブレイク」という固有名を叫ばなければならなかった。この固有名とその物語とが新自由主義下の人口統治を否定し、記号化される社会への抵抗点となる。ダニエルはその名に於いて正義を求める。

 

千葉氏は「筋トレ」による筋肥大を通して身体に染み入った通年を自己破壊することで、システムからの脱却を志している。千葉氏は本気だった。彼は以下のように語る。

 

「ビギナー向けのやり方でちょいちょいやったんじゃ、たいした成果は出ない。何かをやろうと思ったら、本格的な教科書や、その道の本当に一流の人がやっていることを学ぶべきであり、初心者向けに甘口にされたものを頼りにするべきではない。僕も最初はトレーナーに教わった通り、ほとんど外食禁止で鶏胸肉と卵とご飯ばかり食べるような生活を送りました。でもやっぱりそれをずっとは続けられないから、どれくらい妥協しても大丈夫かという線を今は探っている感じです。妥協しすぎて変化が出なくなったら、プロから教わったストイックな状態にいったん戻せばいい。」

「僕は普段、いろんなことについてああでもないこうでもないと解釈をする、意味が飽和するような世界に生きています。だから、普段の生活で没入している状態、哲学の言葉でいう「内在」的になることがほとんどありません。それに比べて筋トレをしているときは、内在の状態になる。だから終わった後、すごくすっきりします。」

 

プラトンの洞窟の比喩に指摘された現象を、千葉氏は意図的な一種の思考停止状態としての筋トレに身を置くことで、哲学の不完全性を行動的に打破しようとしている。理論家による物事を抽象化し、論理や正解を紐解こうとする姿勢は、自然科学とは異なり実験が不可能な人文学や社会科学の分野に於いて無意味な場合がある。その論壇では庶民の声以上に莫大な広がりを想定した世界を大局的に捉えており、人々や事物を記号化した上で議論するこうした思想は学者同士の身内論議で完結しがちであり、結局のところ何の効果があるのか多くの人にとって素通りされている。

しかし千葉氏は思想家である自身自らが、思想的流動性が著しい新自由主義下の現場で文字通り活動(筋トレ)を行う。千葉氏の現場への愛はポップカルチャーの発信に意欲的な一面に見て取れる。この国の思想の未来は現場にこそある。

 

引用:https://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2019012186831.html

文字数:2884

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