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濱口映画のイメージ、その現在の在り処

「寝ても覚めても」において、朝子を探すために仕事を早退し、劇場へ足を運んだ亮平と彼を囲む都市は突如大地震に襲われる。その日の帰路で、彼は様々な不安と絶望によって思考を暗くさせたまま、高架の上で、人々の歩む流れと逆行する朝子と出逢う。

今更指摘するまでもないのかも分からないが、上記のシークエンス、延いてはこの映画自体がまさにロベール・ブレッソン監督の「白夜」のラストシークエンスに呼応する。

登場人物の二重性。暗い夜での再会と別離。物語における水のイメージと感傷的な絶望。ブレッソン映画と様々な共通項を抱えるも、濱口映画の役者たちは「ハッピーアワー」を経て、いつの間にか脱モデル化を果たしていた。「ハッピーアワー」において「演技をしなかった」役者は映画内で普通の生活をし、カメラはそれを素朴に撮影することで、彼ら/彼女らから繰り出されるアクションの純度を、作為の不介在によって高めようとした。役者に纏い付く不必要な要素の省略と自足することのない神戸の場所性が同居してこそ、「ハッピーアワー」のテクスチュアは21世紀日本映画において独特なものとなる。この映画では役者の主役4人の身体のイメージが映画の核となっている。映画を物語るのは彼女らの立ち振る舞いであり、役者は演技をしない一方で饒舌になってしまう方言の積極的使用や、ドキュメンタリーと劇映画の中間体のような文体とは、映画全体は画面(つまり映画の提示する世界)を制御せんとする者、濱口竜介の想像力を、神戸の簡潔な街なみの中で立体化させる。

しかし「寝ても覚めても」とは、亮平と朝子を取り巻く人物らによる演技大会の空間になった。そして非現実的要素(亮平と麦)がある。それは全く同じ肉体の所有者が、朝子の目の前で全く異なった性格を披露することで、朝子の二重性は分離し、心身二元論を否定するのだ。役者は演技をする、そしてフィクションの中の登場人物もまた自身の内心に戸惑い、基軸を失っている(重層的なフィクション)。非現実的要素(二人の麦/亮平)があるのも、こうした濱口映画における役者の脱モデル化の達成にとってはなくてはならなかった。

麦に誘われるがままに大阪で夕食の席を立ち、亮平の手を振りほどき、北上を続けた朝子の思いの揺れ幅は、距離が離れれば離れるほど大きくなり、亮平を想う気持ちも比例して高まっていく。彼女の短い旅の到着地点は高い堤防に囲まれ、海の景色は画面からも、朝子の視覚からも遮断された状況にあった。麦が何の気なしに、思わず笑ってしまうほどあっさりと朝子をその場に降ろし、過ぎ去っていく姿を高い地点からロングで捕捉するあのショットは、誰もが北野映画の画面を想起したに違いない。唐突に不自然なほど青い色の画面が視覚に飛び込んできて、朝子は迷うことなく堤防をよじ登った。そこに広がるのは大気を支配するよりも一層深刻な青色であり、かつて東日本大震災の時に巨大な津波となって人々を襲った、絶望的蒼色である。

東日本大震災は、「なみのこえ」「うたうひと」(東北記録映画三部作)から濱口作品のモチーフになってきた。本作においては、特に顕著に、ある種の劣化が可視化された形で、社会的事情の中で営まれる個人的な或いは日常的な出来事が描かれる。濱口の世俗を見つめる視線が、彼の作品を平凡なジャンル映画に区分させない輪郭を与えている。

朝子の精神の分離とは、欲求不満に起因した性的衝動と、愛情といった高尚さを理念的に標榜することとの、大人気ない、分別のなさに似たようなものである。ある種の劣化として現れるその抑制の効かなさは、朝子という個人の二面性に起因するものではなく、彼女のアプリオリな内心と、時によって様相を変える世俗との葛藤に由来すると考えられる。

だから濱口は世俗や社会というものを、優しさだけでなく醜悪な部分も含めて、人間関係や社会の構築、崩壊、再構築を映すのだ。「寝ても覚めても」だけに限って振り返ってみても、これらは分かりやすいだろう。串橋と鈴木の結婚への道程と、二人と朝子の関係や、大地震によって飲み込まれた街と沢山の生命、希望の笑みを浮かべて復興へと生き生きとする庶民の生活感、亮平を傷つけた朝子を許す平川。

儘ならない、制御不可能という一点で精神も世俗も実は相似形なのかもしれない。人間の意図しないままに、抗うことすら出来ないままに、津波が街を襲い、無機質な堤防に景色を奪われようとも、(ブルトン的に言えばヒステリー者としての)朝子は記憶(亮平)と舞台(被災地)ー二つの喪失を行き来することになる。堤防のシーンにおける、過剰に不自然な青さが仄めかす北野武(或いはアンゲロプロス)のイメージも、傷付いた者が希望を、たとえ空虚だとしても喜びがあればその地点へと走り出すような、捻くれているようで、実は本質的な人間の姿を肯定する雰囲気を本作に纏わすことになった。

そして朝子の空間と心の旅路における真の終着地点は、濁流を見下ろす戸建ての二階だった。「白夜」において、夜のセーヌ川とその付近で奏でられる音楽は映画と、マルトの揺れ動く心をより感情的に、過剰にロマンチックにするが、「寝ても覚めても」では雨で茶色く濁った激しい川の流れを俯瞰しながら、朝子と亮平は虚無感を感じている。

水のイメージは過酷で、優しいものだ。そしてまた濡らす液状物質という点で性的な、流れ、繋がるという点で循環構造的な示唆にも富んでいる。朝子は自分自身の内面に溺れてしまったが、流された果てに、結局忘れられなかった欲望の対象と再会する。濁流は過去といったあらゆる時制を、怒りといった全ての感情を視覚線上で洗い流した。雨と水のイメージで手荒く洗い流された二人の心は、もう一度振り出しを目指して寄り添おうとする。なぜなら、忘れられない恋人の幻影に囚われていたのは朝子だけではないのだから。

「白夜」にはセーヌ川の神秘こそあれど、マルトはジャックにたった一度のキスを残して雑踏の中へかつての意中の方と消え入ってしまった。「寝ても冷めても」に広がる感情の海と濁流に浮かぶ汚れは、二人が再び出逢った証拠である。そしてどちらの作品にも「忘れられない夜」があり、「寝ても覚めても」では、それは役者の肉体に自ずと息づいた感覚の表象だけによらない、作為の成果によって多様に発現されている。

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