印刷

敗北

 無慈悲に終わりを告げられてしまった、悲しい物語の読了感を癒してくれる音楽を私はずっと探している。今までの私にとって、それはストラヴィンスキー作曲の「火の鳥より王女たちのロンド」であり、ベートーヴェン作曲の「ピアノソナタ30番」であり、ビル・チャーラップが演奏する”The Nearness Of You”であったりするわけだが、邦楽ポップソングはどうもその役割を果たしてくれないのだ。

 ポップソングの凡そは歌詞が旋律やリズムに付属し、音楽自体が説明的である。そのため曖昧糢糊な感慨は流し込まれるポップソングの文脈に落とし込まれ、具体的なイメージに支配されてしまう感覚を覚えるからだ。私は映画や読書の後にポップソングを聴かない理由という、かなり限定的な状況について以上に語ったが、私の場合、そもそも邦楽ポップソングを好んで聴くことがまずない。それは私が歌詞を理解できるが故に、音楽に含有する歌詞に対して、旋律やリズムの作り方と同時に私が批判できてしまうからだ。恋愛の領域でセンチメンタリズムを煽ったり、都市に生きる人間の孤独を歌詞が説明することによって音楽の世界観を構成するのは、全く面白くない。抽象的でまるで哲学的な広がりを帯びた印象を持つ、或いは歴史や地域性や思想について自由に印象を解釈可能な音楽が私にとって好ましく、それらの条件を大抵の邦楽ポップソングは破壊してくる。私にとってストーリーテラーになりたがる音楽が「文学」たり得るためには、陳腐な歌詞は全く不必要である。

 以上は私の私見であり、啓蒙する価値が一切ないことは承知である。邦楽ポップソングはクリエイティブの側面で多くの挑戦者がいて、消費者も存在する。「素晴らしいArtとは何か」という問いに対して、「多大多種多様な人々に認可され、理解されたもの」という一つの答えがある。村上春樹や遠藤周作の小説であったり、小津安二郎や河瀨直美の映画に限らず、それはおそらく邦楽ポップソングについても同様に確からしいのだ。

 

 そして今回、tofubeatsの音楽について、Artとしての価値は如何なのだろうかという問題について、私は答えることが出来ない。なぜなら私はtofubeatsの音楽を聴き、良い理解者にはなれなかったからだ。

 tofubeatsの音楽について、私は「RIVER」が濱口竜介監督作品「寝ても覚めても」に使用されたという点以外で知り得ないし、手当たり次第に曲を視聴するも全く興味を持つことが出来なかったので、映画への関心だけを動機に「RIVER」のみを注意して聴いた。アレンジボイスが使用されており、まるで歌詞が前面にあり、リズムや和音などは後景にある。ミュージックビデオを観ない場合、歌手の声質や歌詞の歌唱リズムがまず注目を集めるのだろうと思った。そして重くスピード感のある低音がリズムを刻み、曲のストーリーテリングを一貫性のある様式と世界観に統一している。

 

 きっとポップソングへの造形や興味関心がなくとも、ある対象に対して批評を生み出すことが出来る者こそが真の批評家に違いない。しかし今回だけはまるで興味関心や意欲が湧かず、何の教訓も得ることが出来なかった。それ故に私の筆はここで止まってしまう。tofubeatsは私に批評する者にとって如何に実力が不足しているかを知らしめるテーマになった。個人的に映画「寝ても覚めても」は応援しているし、「RIVER」もヒットしてほしいと願っている。

文字数:1428

課題提出者一覧