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平成に平行するアメリカ、そしてT.S.エリオット

先日恵比寿ガーデンプレイスのピクニックシネマ2018に赴いたのだが、友人に誘われるがまま足を運んだのでどんな映画が上映されるのかは知らなかった。上映されたのはスティーブン・ダルドリー監督の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(2011)だった。深刻なテーマのもとで子役が悲劇的な境遇に陥り、センチメンタリズムを煽るハリウッド定番映画であった。映画自体をあまり楽しむことはできなかったが、9.11という映画のテーマについて鑑賞後蟠りが拭えなかった。

マイケル・ムーア監督も「華氏911」で9.11を取り扱った。初めてこの題名を見たときはトリュフォーの「華氏451」のオマージュ映画かと思った。しかし想定を超え、「華氏911」は無遠慮なまでにアメリカ社会を非難する政治映画だった。子ブッシュ政権の腐敗政治によって当時のアメリカが他者に対して如何に暴力的に振る舞い、世界から孤立して行ったのかを連関させている。

この映画がアメリカ延いては新自由主義国の社会システム全体の根本的な危機について言及したものである一方で、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は中に生きる人々の人格をドラマチックに脚色した物語である。一つの共通の話題を用いながら、各の映画は憤りや同情など様々な感傷を視聴者に要求してきた。

先日の恵比寿のピクニックシネマでは、私の横に座って一緒に映画を見ていた友人はこの映画を絶賛した。家族の喪失や故郷の崩壊にまつわる悲嘆にくれた過程の描出に胸を打たれたらしい。アメリカ人の持つテロリズムについての感情を映画が誘導するままに獲得していた。「そうだね。本当に素晴らしかったね」と僕はとりあえず友人に応えた。

 

生きることも死ぬことも悲しみの中にある。日本国を含めて多くの国が実質従米的な態度で以って政治を行い、いつ飛んでくるか分からないミサイルに備えて国際会議をする。内側ではそのようなことなどお構いなしに作品やメディアが誘導するままに人々は様々な印象を感得し、自分のものにしている。mixiに端を発したSNSの流行が現実に平行するインターネットという電脳世界をより人々に接近させた。声を持つべきでない者が声を挙げ、人々はその全てに耳を傾けてしまう。なぜこのような世界になってしまったのだろうか。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」と「華氏911」はそれぞれの作為の裏に啓蒙意欲が潜んでいる。私たちは画面を見つめることで、分かりやすく整理された物語に沿って感情と意味を構築する。平成期に対して影響力を落とさないアメリカ社会がこの二作には描かれている。

 

今日、グローバリズムが世界を覆っている。そしてグローバリズムは新自由主義を生み、それは格差を深刻化させた。それは平成期に入りその問題はより切実になった。グローバリズムとは商業的に東アジアに対抗したい英米による市場戦略であり、多国籍企業のために地球全体を経済市場にしようと志向する。グローバル化が経済的に発展途上国を成長路線に載せることはできても、既存の商習慣を破壊し、文化的/政治的面でも国柄を破壊する可能性を持っている。グローバル化はアメリカの外交政策の道具となり、経済/思想/政治/文化各面におけるグローバル化を半強制された各国には主権や土着の民主主義の制限が齎せれてしまい、テロリズムの温床にもなった。ここで注目するべきは、アメリカの性質—価値として世界に普遍化しようと運動するーの凶暴性だろう。その性質の正体とは一体何なのか。

アダム・スミスは『道徳感情論』で「体系の人」に言及し、そのような人は自分では非常に賢明になりがちで、ひとつの大きな社会の構成員をチェス盤の上の様々な駒のように配置すると述べている。ヒュームは「必然性」を特徴とする因果律や為政者と諸個人とのロック流社会契約説に懐疑を示した。またアメリカの神学者ニーバーによると、近代人はある種の完全な社会に近づくことを期待していると。そこには紛れもない「進歩」の観念が多くの要素によって合成され、設計主義の系譜を紐解き、アメリカが何故これ程までに「正義」に固執するのかを解き明かす。

実験(experiment)とは「危険(ペリル)に身をさらす(エクス)」ことが語源である。社会をある種の理念や数学的計算に基づき設計しようとした実験の結果、まさに人々は危機に晒されている。英国及び国教会に対する独立革命というテロを起源にグレートリセットを行い、移民が社会契約し設計した左翼実験人工国家がアメリカ。この国の現在進行形の「実験」は、今日においても危険と隣り合わせだ。

活版印刷術が発明された後のルターによる聖書翻訳とカルヴァンの強力な正義観と独自の道徳観に端を発したキリスト教改革が、ヨーロッパを神の国家から人間の国家へと変え、メシアニズムに由来した千年王国思想の暴走をもたらした。予定説は人種差別の思想的基盤になった。 その思想は引き継がれ新大陸は選ばれた民の地になる。神と人との新たなる契約に基づいて新大陸に理想の楽園を建設することが自分達の使命だとイギリス植民地時代のピューリタンは信じた。一からやり直すアダム、つまり、出直す人類の重責を担った自分達と、旧約聖書の世界に登場する神と「契約」を結んだ選民、イスラエルの民との間に類似性を見いだしたのが「アメリカ人」。ニューヨークはジューヨークであり、ボストンとは丘の上のシオンである。

こうしてキリスト教徒の国アメリカが、新大陸をユダヤ教徒の旧約聖書の古代世界に準え解釈し、「選ばれた民」としてアメリカ人のアイデンティティを確立していく。とりわけ『エレミヤ書』のジュレマイアッドが今日までアメリカ社会に影響を与え続けている。この思考様式はイスラエル民族存亡の危機を背景とした精神状態のことで、歴代アメリカ大統領が「偉大なアメリカ」を唱え、敵を仮想し排除しようとするのにはこうした潜在的な危機意識がある。またアメリカの独立宣言ではロックの社会契約説が確認される。つまり、造物主(神)により授けられた自然権(人権)を侵犯しない政府が設立され、政府は人民と契約を交わす。コモン=センスは独立の”必然性”と共和制の妥当性を説きそれを応援した。

こうして千年王国が誕生し、マニフェスト·デスティニーとフロンティア·スピリットは神の御意志のもとで標榜され、インディアンを民族存亡レベルでの虐殺があった。ピューリタニズムの閉鎖性と残虐性をアメリカは自国のnationalityに内包している。

つまりアメリカとは「大義」そのものであり、その大義の根本には聖書がある。アメリカ人は移ろいゆく外的状況に「悪」を見出だし定義し、大義を確立する。自身の私見を私欲から仕立てあげた上で悪を設定し、世界を股にかけて私刑(リンチ)を実践する凶暴な運動体になった。また悪の設定には経済的利益が関係する。アメリカは神という公義を自国の私義に転嫁し、正当化する。運動そのものが自己目的化しているという点でアメリカはもうひとつの左翼実験人工国家郡(社会主義)と相似形を為している。そしてアメリカという「実験」に今日も我々は翻弄され続けている。

T.S.エリオットは彼の『ボードレール論』でキリスト教について大きく取り上げている。ボードレールはキリスト教について手探りにその真相を開拓しようとした詩人である。彼は原罪を忘れたまま人間存在の賛美(ロマン派)が流行した当時のパリに生き、その状況について善を讃えるときには悪を知らなければならないと主張した。しかしエリオットは彼の提唱する善なるものが明瞭に定義されていないことを指摘する。

悪は原罪に由来する。創世記における失楽園によって人間に死が与えられた。死によって永遠の生を失ったために、人は性行為によって子供を作り、労働することで食事を得る。労働と出産(男女の愛でさえも)の苦しみはキリスト教の原理においては罰なのであり、悪徳である。しかし人間はこうした悪徳(特に性行為)の中に快楽を見出す。宗教上逆説的に悪徳を行っているという核心の中に独特且つ最高の悦びがある。

またボードレールは真の文明は現在の痕跡の減退にあると主張した。この点においても甘いとエリオットは指摘する。原罪の痕跡(環境)の性質が人間を悪化させるという性善説(という原罪の存在拒絶)は近代における志向性の源である。例えばゲーテは19世紀を改革の時代にしようと言い、人間の力を信じた。その思想は共産主義にも通じ、結果失敗した。共産主義に代表される“人間は無限に進歩できる”という期待は人間を裏切り続けた。故にエリオットは原罪の存在を容認し、キリスト教信仰からの逸脱に全く否定的である。信仰の価値に基づいた伝統や習慣制度への重要視を促しているのである。

また『アービング・バビットのヒューマニズム』論でもキリスト教を大きく取り上げる。アービング・バビットはキリスト教信仰を拒絶し、ヒューマニズムの支持を訴えた。ヒューマニズムは宗教絶対主義の反動で生まれ、人間が神から自立しようとする意図を持っている。エリオットが指摘するのは、バビットがヒューマニズムの発生に関してキリスト教を無視している点である。エリオットにとってヒューマニズムとは存在だけの無力な概念であり、価値を構築できない単なるキリスト教の批判材料である。

ヒューマニズムは人間が他の生物と異なり尊厳を持つことを示している。同時にキリスト教も人間を神の造物として動物のレベルから引き上げ、キリスト者はsuper naturalistic levelを志向する。Religion>humanism>humanitarianismという歴史的価値の実態にバビットは無関心であり、彼自身の言説がhumanistの誇りを汚している点と、断続して存在した歴史しか持たないヒューマニズムが宗教を度外視した場合危険であるとエリオットは論じる。エリオットのキリスト教に関わる以上2つの批評において、彼は伝統や形式や歴史的厚みを重要視することが分かる。それについて『伝統と個人の才能』論を参照する。

例えばロシア革命の時代、マルクス思想の魅力は色褪せていなかった。それを信奉する人々はバラ色の未来を描き、人間の可能性を信じていた。進歩的且つ合理的なイメージを持つマルクス思想信奉者はTradition(伝統)を否定した。彼らは時にTraditionalという言葉を古臭いという意味で使用し、その価値を無視した。ここでエリオットは伝統を無視した結果、人々がその価値判断や審美において独自な本質を見出したつもりになり、身近から比較して異なっている点を錯覚し、強調することで満足していることを指摘した。そしてエリオットは全ての事柄は受け継いできたもの(伝統)を素材とし、ゼロ地点からは良質が生まれないことを前提に、人々に自身が伝統の末端に連なっていることを自覚する必要があると考えた。

また伝統の継承において、大いなる然るべき苦労を意識的に行う必要があり、その行為によって伝統に価値の重みが生ずるとエリオットは主張する。伝統は意識的に獲得しようとしなければ消失してしまうからだ。つまりThe past’s presence(過去の過去性の認識)とThe presence of the past(過去の現在性)の両者の理解が重要なのであり、どちらか片方では良質は創造できない。私たちは伝統と同時に存在し、同時に秩序を形成しており、意味を持つためには歴史的な文脈を以て臨まなければならないとエリオットは説くのだ。

全てがまるで鎖の如く連なっている「世界」という現象を前にして、このように何が大切だったのかを考えてみる。来年には今上天皇が退位する。しかしもしかしてきっと、来年も私たちは死んでいるように生きていて、生きているようで死んでいるのだと思う。

注意:政治的な主張は含意していません。

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