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翻訳という精神の牢獄からの脱出

 どうしようもなく”心が震える”ということ。「勝手に震えてろ」と言われたならばお恥ずかしい。良い文学や映画を体験すると大きな感動に浸り、恍惚を覚えるものだ。そうした体験にとって作品に決して限りはなく、時代も国境も超える。(文章表現という意味での)文学や映画等の映像表現が与える感動は時空を超えて感得される普遍性を持っている。

 あらゆる芸術は連綿と続く伝統の末端にあり(或いは諸領域の伝統に取り巻かれ)輝かしい価値を時代に向け放ってきた。私たちがその伝統や歴史の系譜を辿ろうとした際、洗練された専門性でしか突き破れない表象の壁にどうしても直面してしまうことがある。その壁を突き破るための矛として”翻訳”がある。翻訳者は歴史、文化的差異、言語に精通し、磨かれた矛を振ってオリジナルな感覚を誰もが享受できるように努める。しかし”完全性”が翻訳された作品にあるかどうかは議論の余地があり、そこには同時に「一体誰が真っ当なオリジナルを体験し得るか」という疑問も孕んでいる。

 映画を例に出そう。是枝裕和監督作品「万引き家族」は2018年カンヌ映画祭最高賞を受賞し注目を集め、各国に持ち込まれた。そうして題された英題は”Shoplifters”である。刑罰の道徳化、規範性の欺瞞、絆などのテーマが原題に込められていることを、日本人なら映画鑑賞後に察知することが容易いだろう。しかし英題の”Shoplifters”では家族や絆というテーマの重みが伝わらず、その翻訳行為は作家性や工夫された意図への裏切りになってしまう恐れがある。作家本人に確認を取れない古典作品の翻訳に関しては、尚更オリジナルの正確性は保証し難い。

 そもそも翻訳はどうして正確性にかけると言われるのか。作品の表現は⒈何を語るか、⒉如何に語るかの二点が重要要素としてあり、翻訳においては⒉如何に語るかの再現に凡そ苦労しているだろう。具体的には原語のニュアンス(ex.日本漫画の女性キャラクターの一人称が「ぼく」)や独特な配列・合成(ex.万引き-家族)、文体が与える印象や情緒のことである。語彙や文法の知識だけではそうした意図すら汲み取ることは難しい。⒈何を語るかについて以上に、⒉如何に語るかについて翻訳者は課題を抱いており、その点でオリジナルと翻訳との交換不可能性が露わになりがちである。また翻訳者が、自身の読書/鑑賞体験において作家が意図する・想定するであろう普遍的な感覚を得ているかどうかも疑問に挙がる。翻訳出発地点で既に確実性が保証されていないのであれば、非原語の領域に属する者にとって、原語:オリジナルは”遅れて”いて”似通ったもの”として受容せざるを得ない。オリジナルと翻訳の完全なる交換可能性への葛藤は、まさに精神の牢獄であり、壁を超えることはできないという挫折が待っている。

 それでも私たちの多くは翻訳作品についてある程度十分なレベルまで思考を巡らし、或いは心を震わす体験をする。翻訳作品が原語のオリジナル性を完全に内包していなくとも十分な価値体験をする。それはオリジナルを読了していない読者にとって、翻訳作品こそが立場上オリジナルの代替物としてではなく、翻訳作品自体が読者にとってのオリジナルになっているからだ。ここでは読者の無知や無関心が幸いして交換不可能性が重大な不満として言及されない点に注目するべきではなく、翻訳作品はオリジナルの輝きを反射して、別個のオリジナルとして読者に消化される。学術領域でなく、大衆文化の中で翻訳が消化される場合、交換可能性を巡る翻訳者の葛藤は全く度外視されていると言っても良い。これは大衆が⒉如何に語るかよりも⒈何を語るかに比重を置いて作品を飲み込みがちであることに連関する。⒉如何に語るかに独自的な魅力を持つ”純文学”の衰退と、大衆読者の翻訳作品への姿勢もまた同じかもしれない。つまり原作意識の欠如があり、新しく登場した(翻訳)作品の背景や歴史的系譜には振り向く意志は体験にとって重要ではない。

 しかしアートワーク全体の昨今を俯瞰するとどうだろうか。翻訳延いては翻案作品は特に映画などの映像表現で顕著である。最近で例えるなら、映画 ”Call me by your name”(原題)は小説を原作としている。このロマンス映画は既存小説を参考にしただけで、忠実な小説世界の再現は行っていない。監督や脚本家ら映像作家チームが、原作をバネに独自的な魅力を映画として映し出した。この他にも多くの事例があり紹介しきれないが、原作至上主義は芸術作品の面白さに決定的に寄与しないという事は明らかだろう。つまり大衆の知的怠慢ではなく、アートの可能性とその試行錯誤への寛容さに着目するべきだということ。

 紫式部の「源氏物語」を原語:古語の通り上梓したら誰も読めないし、読む努力が疎いだろう。しかし気鋭の作家や専門家による翻訳のお陰で私たちは「源氏物語」を不完全にしろ味わうことができる。結局翻訳とは完全性への志向ではなく、ツールである。そこに翻訳者というフィルターがある時点に交換不可能性があるとしても、読者は翻訳者の作家性を結果楽しむのだ。翻訳という運動に目的を見出すことなく、受容され得るかどうかに臨界点を設置しなければならない。遅れや相似形としての表象としての翻訳に、(アカデミックな価値判断を除いて)純粋な魅力を見出せるかどうか。それについては理性よりも”心の震え”が正直に答えてくれるだろう。

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