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『風と共に去りぬ』から考える「先取りの剽窃」や「翻訳」についてのこと

 

She was going to lose everything she had, while Sue――Suddenly a determination was born in her.

わたしがすべてを失おうとしているというのに、スエレンは――そのとき突如として、ある決意がスカーレットの心に芽生えた。

Suellen should not have Frank and his store and his mill!

フランクも彼の店舗も製材所も、スエレンに渡してなるものか!

(中略)

But can I get him? Her fingers clenched as she looked unseeingly into the rain.

とはいえ、わたしに彼を落とせる? スカーレットは拳を握りしめながら、雨に煙って見えない街に目をむけた。[1]

 

積極的に意識しようとしなければ、とくに違和感を抱くこともなく読み進めてしまうマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』における一節だが、鴻巣友季子の近著『翻訳ってなんだろう?』によれば、ここには本作品の文体面における醍醐味が現れているという。

「登場人物に親身に寄り添ったかと思うと、突き放し、冷静に分析し批判したかと思うと、また人物の内面に入りこんで代弁する」といった、語り手の声と登場人物の声が入り混じる“話法の切り替え”が特徴のひとつであるという本作品[2]。とりわけ引用部分But以下Iを主語とした一節に顕著なように、引用符がなくセリフの形をとっていない、地の文に混ざりこんだ直接話法(内的独白)は、本作品が出版された1936年当時、前衛的な技法だったのだと指摘する[3]。

だが、この部分が前衛的だと聞いても、1936年以前のアメリカ文学における文体の変遷にある程度明るくなければ、冒頭で述べたように、やはり特別な驚きもなく違和感なしに読み進めてしまうことになるのではないだろうか。なぜなら、日本語を母国語とする者にとって、直接話法的な表現には古くから慣れ親しんでいる面があるからだ。

いささか乱暴な言い方になってしまうが、英語と異なり日本語では時制の一致といった文法上の規則もなく、動詞・助動詞の働きによって主語を省略することができるため、地の文のなかに引用符のない直接話法を紛れ込ませて表現することは珍しくなく、結果、主観と客観のあいだを行き来する文章に出合う機会は多々ある。実際、先取ること約900年前、古くは『源氏物語』にさえそれは見ることができる。

 

かの須磨は、昔こそ人の住み処などもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて、海人の家だにまれになど聞きたまへど、人しげくひたたけたらむ住まひはいと本意なかるべし、さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞ思し乱るる。よろづのこと、来し方行く末思ひつづけたまふに、悲しきこといとさまざまなり。

(訳)
  あの須磨は、昔こそ人の住いなどもあったのだったが、今はまったく人里離れてもの寂しく、漁師の家さえもまれであるなどとお聞きになるけれども、人の出入りが多くてにぎやかな所に住むのもまったく本意にもとるというもの、そうかといって都を遠ざかるのも、故郷のことが気がかりであろうしと、あれこれと見苦しいくらいに君は思い悩んでいらっしゃる。何につけても、今までのこと、これから先のことをお思い続けになると、悲しいことがじつにさまざまである。[4]

 

これは、自らも源氏という古典に新訳を与えた谷崎潤一郎が『文章讀本』(1920年)のなかでも取り上げた「須磨」の帖の冒頭部分であるが、たとえ日本語を母国語として使用している者であっても、地の文と、引用符がなくセリフの形をとっていない光源氏の内的独白とが入り混じったそれは、わかりやすいとは言い難いものがある。敬語、主語の省略などからくる、そのわかりにくさのみが理由ではないにしろ、谷崎の同書のなかでの「英文の方が原文よりも精密であつて、意味の不鮮明なところがない」という指摘[5]、川端康成が『美の存在と発見』(1969年)のなかでも取り上げた、ドナルド・キーンの次の言葉を生む一因となっているのかもしれない。

 

『源氏物語』のおもしろさは、日本人よりも、外國人の方が、よりよく知っていると、ぼくは思うのです。原文はむずかしくて、わかりにくい。現代語譯も、谷崎(潤一郎)先生をはじめ、たくさんがあるが、できるだけ、原文の味を生かそうとするため、今の日本語にない言葉が、どうしても多くなる。英譯は、そんな配慮は必要ない。だから、『源氏物語』を英語で讀むと、じつに迫力があるのです。[6]

 

翻訳を通すことによって、ときとしてたとえば主観と客観の入り混じった、複雑に混線した文章を少しずつ紐解きながら読み進めていくような形での作品享受は難しくなってしまう。しかしその一方で、ここで指摘がなされているように、翻訳することによって意味がクリアになり、新たな作品の魅力が引き出される場合もあるだろう。

日本語を用いる者が、その言語の特性から意識せずとも主観と客観のあいだを行き来していたように、私たちは知らぬあいだに、言語に、時代に影響を受け続けている。日本の明治維新とほぼ同時期に起こった南北戦争を舞台にして描かれた『風と共に去りぬ』においてもまた、翻訳する際に、現代の読み手に違和感なく伝わるよう、読みやすさ、意味をクリアにすることに重きを置くならば、積極的に現代の言葉を使用することはもちろん、原文を解釈し、必要に応じて概念を新たに付与することなども有効な一手となってくるのだろう。

開国したばかりの明治の時代の初めに比べると、外国という概念そのものも大きく変化してきた平成も終わろうとしている地点において、古典新訳――ひとつの確固たる作品として歴史上の一地点に在るクラシックを、いまを生きる翻訳者の身体を通すことで再び生きたものとし、形ある作品として提示し直す――で求められていることとは何なのか。ストーリー自体とは別に、私たちはそうした問いもまた同時に考えざるを得ない。

 

[1]マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』第3巻、鴻巣友季子訳、新潮文庫、2015年5月、384頁。

[2]鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』筑摩書房、2018年6月、172頁。

[3]鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』筑摩書房、2018年6月、180頁。

[4]原文、訳ともに『完訳 日本の古典 源氏物語』第3巻、小学館、1984年5月による。

[5]『谷崎潤一郎全集』第18巻、中央公論新社、2016年5月、51頁。

[6]『川端康成全集』第28巻、新潮社、1982年2月、412、413頁。

 

 

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