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『さようなら、ギャングたち』にみる“加減の良さ”について

 

ストーリーが面白い、心惹かれるフレーズが散りばめられている、文章のリズムが心地良い、色気がある、教訓が得られる、風景描写が美しい、登場人物に興味が湧く、印象的なシーンがある――小説には各々に、読み進めていく原動力となる要素があるものだが、高橋源一郎による『さようなら、ギャングたち』(1981年、群像新人長篇小説賞優秀作)は、“加減の良さ”に惹きつけられる作品といえるのではないだろうか。

 

固有名詞にみる“加減の良さ”

ナビスコの風船ガムの爆発によって、アメリカ合衆国第69代大統領・ジョン・スミスJr.(ドナルド・トランプ現大統領は第45代)なる人物の頭が吹き飛ばされる描写から始まる、『さようなら、ギャングたち』。頭が吹き飛ばされるというと一見ひどく衝撃的にも思われるが、その死は重いリアリティを持っておらず、それどころか死して尚動作を行い続け、そこにはユーモアさえ入り混じっている。

「(略)頭をふきとばされた大統領にしがみついた時、大統領はもう一つの風船ガムの包装を破ろうとして一生懸命になっておられました」[1]

その死との向き合い方は、たとえば遡ること30年前――大岡昇平の『野火』(1951年)の背景にある、第二次世界大戦中の凄惨な経験に基づく、極限状態のなかで人間が死に向かい合ったリアリティをフィクションに訴えて描写しようとした姿勢とは異なるものである。

だからといって、本小説のすべてがまったくのリアリティを欠いているのかといえば、そうではない。細部を見渡してみると、作品中には詩人や漫画家の名前、小説のタイトルなど、現実に存在する固有名詞が度々登場する。

たとえば、音楽もそのひとつだ。本作品中には、キャラウェイと名付けられた小さな女の子がレコードに合わせて踊るシーンが描かれるが、そこでは実際の音楽家たちとその楽曲名が次々と現れる。実際に少し辿ってみよう。

まず、キャラウェイはレーナード・スキナードの『チューズデイ・ゴーン』(1973年)に合わせてブルースを踊るという。ブルースが突然出てくるのは、歌詞の“I’m riding my blues away”と対応しているのかもしれない。レーナード・スキナードは、アル・クーパーが設立したサウンズ・オブ・ザ・サウス・レコードに所属する、『スイート・ホーム・アバラマ』でも有名なサザンロックバンドだ。続いてキャラウェイは、ヘレン・レディ(ヘレン・メリルか?)の歌う、ジャズのスタンダード曲『ユー・ド・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ』(1955年)に合わせて、こいきなステップを踏む。さらにジャズ・シンガーのエラ・フィッツジェラルドの『マック・ザ・ナイフ(邦題:匕首マッキー)』(1960年)に合わせて、エキサイティングに踊るキャラウェイ。

Lynyrd Skynyrd “Tuesday’s gone”

Helen Merrill “You’d Be So Nice To Come Home To”

Ella Fitzgerald “Mack The Knife”

どんな曲でもスイングできるというキャラウェイは、グレン・グールドの弾くJ.S.バッハ『2声と3声のインヴェンション』(1964年)にさえも合わせることができ、淡々と踊るという。最終的にキャラウェイはフリー・ジャズ――アルバート・アイラーがテナーサックスを吹く『ベルズ』(1965年)にも対応してしまう。

Glenn Gould “Two & Three Part Inventions”

Albert Ayler “Bells”

「絶対ダンスできない筈のアルバート・アイラーの『ベルズ』にだって合わせて、キャラウェイはおどってしまう」[2]

これらの楽曲が小説内において適材適切なのかは別としても、もっともらしい架空の大統領の名前や、冒頭の死の描写に顕著な、ときにコミカルにさえ伝わるフィクションのなか、わずか18行の中に5曲もの実在の楽曲が畳み掛けるように登場するという、フィクションのなかにノンフィクション的要素を滑り込ませる“加減の良さ”は、本作品のひとつの魅力となっているのではないだろうか。

ただし、実在する楽曲を小説のなかに登場させる行為自体は珍しいことではない。本作品が発表された直近の年を見渡してみても、村上春樹の『風の歌を聴け』(1979年)[3]や、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1980年)[4]などがすぐに思い出されるだろう。前者ではストーリーに効果的に機能する、こだわりと正確さを持った“意味のある”楽曲選択がなされていることは知られるところであるし(少なくとも80年代は)、274個もの註が印象的な後者では、音楽もまた註付きで記され、楽曲紹介がストーリーに優先しているかのようにさえみえる箇所があるほど、ディスクガイド的な一面すらある(アダルト・オリエンテッド・ロックのディスクガイドという点では、1984年の『たまらなく、アーベイン』には劣るものの)。

本作品における楽曲の使用状況をそれらと比べてみれば、キャラウェイがどのような楽曲でも踊ることができるということを示したかったにしろ、選ばれた5曲はジャンルもさまざまである。それぞれ50年代から70年代にかけての楽曲、いずれも北米のアーティストたちであるという括りではあるものの、それ以上の関連性が互いにあるとは言い難い。
また、同じアーティストであっても、もっともヒットした『スイート・ホーム・アバラマ』ではなく、人気曲ではあるものの一世を風靡したというわけではない『チューズデイ・ゴーン』を選択するなど、誰もが知っているヒット曲を引き金として、読み手の特定の時代に関する記憶を刺激しようとしているとも考え難い。あるいは、楽曲が小説内のストーリーを暗示するアイテムとして使われているなどということでもないようだ。なおかつグールドに関しては「うめき声」(ピアノを弾く際の癖として、レコードにしばしば入り込んでいるグールド自身の声)という、ストーリーとは直接関係があるとは思えない蛇足的な情報までユーモア的に記される。固有名詞を羅列させるものの、あくまで各々は断片的であり、それらが集まることによって新たに何らかの“意味”が生れることを避けているかのようでもあるのだ。

 

死の描写にみる“加減の良さ”

そうしたどんなジャンルの音楽にも合わせて踊ることができたキャラウェイも、数頁の後にあっけなく死ぬ。春樹の『風の歌を聴け』が、いかにも実在しそうな架空の作家にまつわる記述から始まったように、本作品の冒頭もまた、いかにも実在しそうな架空のアメリカ合衆国大統領の記述から始まったわけだが、その冒頭の大統領の死も、キャラウェイの死も、私たちが思い描く死の形とは少し異なる。
キャラウェイの場合、死の期日が記されたハガキを受け取ることによって、その死は訪れる。これにより、読み手には登場人物が死ぬだということが前もって知らされ、その知らせ通りキャラウェイは死ぬことになる。だが、その死は私たちがイメージする死とは異なり、大統領が死後も動作を続行していたように、キャラウェイもまた、身体が硬直していきながらも会話をすることができる。そして明確な死の描写はないものの、その人物が小説内からふと消え、いつまでたっても姿を見せないことによって、読み手にキャラウェイがもう存在しないのだということを静かに気付かせる。

仮にも娘が死亡したのである。何かしらの感情の入り混じった描写が続きそうなところである。読み手にとっても、フィクションとはいえ、少しでもともに時間を過ごした存在である。まして、どんな音楽にも合わせて踊るキュートな登場人物ときている。多少なりとも思い入れはあるかもしれない。実際、主人公とキャラウェイが死の直前に散歩に出かけたり、一緒にお風呂に入ったりする場面は、感傷的だといえなくもないだろう。だが、完全に感傷を誘うことがないのは、この死後も喋ることができるという、通常生者が死者に対して抱いているイメージとの矛盾によるところが大きいのではないだろうか。死が指し示す重みを軽くし、読み手が感傷的になることを避けているようにも受け取れるのだ。

「美しいギャング」と呼ばれる登場人物が自決する場面もそうだ。ここでは映画のクライマックス・シーンを見ているかのような、実に疾走感のある映像的な魅せ方でナイフを自らの身体に突き刺し、心臓を取り出し、装甲車に向かって放る場面が描かれる。一見暴力的なシーンにも思えるが、これも心臓を取り出してもまだ生きているのだという、私たちの死者へのイメージを裏切る、ユーモアあふれる次の2行によって、死の重みは希薄化される。

「あれえ? まだ胸の中がドキドキしてらあ」
 「それは肺よ! 肺もドキドキするって学校で習ったでしょ!」[5]

 

固有名詞が羅列されても、そこに特別な意味はない。死が描写されても、普段抱いている死の概念とは異なる死の形が示され、感傷に引き込まれる一方で違和感を持つ。つまり読み手は、実在の固有名詞が登場することで、感傷をほどよく誘われることで、もっともらしいストーリーがあるようにも錯覚するが、その過程では、作者のユーモアを含んだ絶妙なバランス感覚によって、読み進めていくうちに形成されていくイメージや意味は揺さぶられ、裏切られ続ける。意味が重くなり過ぎないよう肝心なところではぐらかす、かといって完全にナンセンスな言語遊戯に徹しているわけでもない――その“加減の良さ”に、読み手は不意に惹きつけられるのではないだろうか。

 

 

[1]『群像』第36巻第12号、1981年12月、講談社、8頁。
 [2]『群像』第36巻第12号、1981年12月、講談社、32頁。
 [3]『群像』第34巻第6号、1979年6月、講談社、6−73頁。
 [4]『文藝』第19巻第12号、1980年12月、河出書房新社、30−82頁。
 [5]『群像』第36巻第12号、1981年12月、講談社、103頁。

 

文字数:4364

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