印刷

中途半端さへの逡巡

 

「頭を空っぽにしなければ行為できない」・・・困ったなあ。頭空っぽか。考えるのは楽しかったんだけどな。本屋で帯文を見たときまずそう思った。

「この私とは誰なのか」そう考え続けるのが好きです。自慰行為に過ぎない?わかってますとも。でも、考えられずにはいられない。そういうことってあるでしょう?たとえば、こんな風に。おそらく、僕がいなくても社会は正常に回り続ける。当たり前だ。僕は何者でもない。じゃあ、僕は誰なのか。おそらく、というかほぼ間違いなく、これは答えのない問いだ。主体は未規定で、生は無根拠だ。そんなことは僕もわかっている。だけど考え続けてしまう。享楽的に。

世界の無根拠性を問い続けること。千葉雅也はそれをアイロニーと呼ぶ。アイロニーは無限に続く。考えすぎていては行為できない。動けない。生きていけない。そもそも、原理的にアイロニーを不断に行うことはできない。必ず思考は止まる。それも、よく止まる。お腹空いた、疲れた、眠い。あ、誰か来た、誰かが僕を呼んでいる、テレビの音がうるさいな。思考は思考の外部によって頻繁に中断される。常に中途半端に終わる。

ならば、その中途半端さを肯定しようじゃないか。生きる意味などを問うことなしに、ただ今そうであることを肯定すること。そして、外部から刺激されるゆえの変化を楽しむこと。「イロニーからユーモアへの折り返し」。ニーチェからドゥルーズ、そして千葉を経由したメッセージが僕に届く。なんとも言えない気持ちになる。一面では、「そうか、このままでもいいのか!変わりゆくその都度の自分を楽しもう!」という気分になる。だが反面、「やめなよ、考え続けること、意味ないよ」と言われた気分になる。もちろん千葉はアイロニーの重要性を語ってはいる。だから、アイロニーを否定しているわけではない。ただ、アイロニーを弱めて、ユーモアへ折り返せと言っているだけだ。しかし、僕はどうしても強いアイロニーを手離せない。

ならば、僕は別の戦略を取ってみよう。アイロニーそれ自体を享楽すること。いわば、アイロニーのユーモア化。最終的にはニヒリズムに帰結せざるを得ないアイロニーを、強く働かせることでこの世界を肯定してみること。アイロニーというオナニーが許される余地を探ってみよう。

 

 

 

その前に、千葉の議論を確認する。まずは、アイロニーがどのようなものか確認しておこう。すごく簡単に言うと、アイロニーとは「そもそも」を突き付けることである。「そもそも」世界はどうなっているのか、「そもそも」私とは何か、「そもそも」正義とは何かなど、あらゆる事柄の本質を突き詰めていく。しかし、これは終わりなき営みである。たとえば、〈「『私とは何か』と考えている私とは何か」と考えている私とは何か〉と考えている・・・という具合に無限に続いていく。アイロニーは世界の無根拠性を問うことである。

アイロニーの一つの帰結は否定神学に至る。生や世界は無根拠で、無根拠だという限りにおいて成立しているという結論を導き出す。ここに至れば、あらゆるものの真実性はなくなる。そもそも無根拠だからだ。とすると、無根拠性を埋めるために何を信じるのかということが問題になる。信じるものの真実性はなくてもいい。個人で異なる真理、その間に起きる不毛な対立。相対主義、或いは信仰主義。日本の批評はこのことについて幾度となく説いてきた。その文脈を考えるならば、アイロニーを単純に肯定することはできない。

相対主義・信仰主義を退けるには、x=〈意味がある無意味〉=真理を消去せねばならないのである。それは、真理から事実への転換である―以上において「真理」と言っていたのは、正確には、「必然的にそうであること」であり、対して、いま導入した「事実」とは、「非-必然的=偶然的にそうであるだけのこと」である。

千葉雅也『意味がない無意味』p31

真理から事実へ。アイロニーからユーモアへ。結論を一つに固着させる真理ではなく、いくらでも変わりうる事実へと臨時に着陸させること。ここで問題になっているのは、無根拠性を一つに収斂させないことである。単一から複数へ。これは、東浩紀から引き継いだ問題意識である。

東浩紀『存在論的、郵便的』をきわめて雑駁に要約しよう。哲学は生や世界の無根拠性の問題を人間=主体に特権化して考えてきた。世界の無根拠性は主体において現れると。しかし、そうではない。世界はそもそもバラバラで、主体は特別視されるべきではない。人間の精神性を重視するのではなく、主体以前の動物性、身体性、あるいは世界の物質性を考える。この議論を受けて、千葉は言う。

深層の露呈が、物体・身体性の露呈であるというのはどういうことなのか。東と國分は、この問いを扱っていない。

千葉雅也『動きすぎてはいけない』p271

少し説明が必要だ。これはドゥルーズによるアントナン・アルトー論を受けての展開である。ドゥルーズはアルトーの言葉に深層を見る。ここでドゥルーズが例に出す、アルトーの言葉は次のようなものだ。「ルルグエがルアルグエでラングムブドゥして持ちラングムブドゥがルアルグアムブドゥをして持つまで」。まったくもって意味不明。解釈の余地もない。どのような連想にも接続されえない。このような非意味的な断片が漂う言語空間を、ドゥルーズは深層と呼ぶ。

このドゥルーズの深層を、東はデリダ的な「郵便=誤配システム」と対応させる。「世界はバラバラだ」という世界観。「東の議論をふまえて國分功一朗は、深層では「ばらばらで断片的な出来事のかけら」が散乱していると表現する。」

そして、千葉はもう一歩話を先に進める。確かに世界はバラバラである。「しかしながら、バラバラであるばかりではない。」アルトーが吐き出した、ルルグエ、ルアルグエ、ラングムブドゥ、ルアルグアムブドゥは意味を生み出さないが、それ自体でまとまっている。断片たちがある体をなして、そこにある。器官なき身体。千葉は言うのだ。「たしかにバラバラだ、だけども、それでもまとまるよ、いや、まとまってしまっているよ」と。そこに意味はない。非意味的主体化=個体化。偶然そうであるだけの事実性。主体の中途半端化。

ドゥルーズその人も「滑稽」と自嘲した中途半端さを、千葉は肯定する。では、どのようにして?実践の書、『勉強の哲学』を見てみよう。

 

 

 

「勉強とは変身である」。帯に書かれたこの言葉に、多くの大学生が惹かれたことだろう。そして同時に救われたことであろう。『勉強の哲学』は『動きすぎてはいけない』での議論を受けた実践の勧めである。本書の議論はシンプルだ。ひとはなんらかのノリや、空気、雰囲気に縛られて生きている。そこに不自由を感じたとき、自由を与えてくれるのが勉強である。

その戦略は2つ。1つは自己・環境分析=アイロニー。もう1つは連想によるずれ=ユーモア。組み合わせると、自分のノリを理解して、意図的に別のノリをまとうようになる。勉強は、ノリ(自分の従っているノリ、意図的にずらすためのノリ)に言葉を与える役割をなす。順番としてはアイロニーが先行し、それからユーモアへ折り返す。アイロニーと同様に、ユーモア=連想は無限に広がる。そこで、いったん切り上げる、中途半端に、また勉強を始められるように。だからこそ、勉強によってひとは変身し続けられる。中途半端さは勉強を通じて肯定される。

このロジックに多くのがり勉が励まされたはずである。勉強は殻に閉じこもっていることではない。むしろ、自分をより開いていくための道標となりえる。僕も千葉の言葉に励まされたうちの一人である。

しかし、ここであえて強いアイロニーを働かせてみよう。なぜ「私」は有限化してしまったのか。なぜ今、勉強を切り上げるのか。眠いから、図書館の閉館時間が来たから、締め切りが来たから、理由は様々。自分の意思に関係がなく、必然性がない外在的な要因それ自体を考える。アイロニーへ拘泥すること。これは次に進むための拘泥だ。勉強の外部へ、言葉の外部に目を向ける。それは自分を囲んでいる、そして覆っているものに目を向けることに他ならない。すなわち、身体に。外部に。深層に。

 

 

 

こうして冒頭の言葉に戻ってくる。「頭を空っぽにしなければ、行為できない」、『意味のない無意味』の帯文である。僕はこの本を無意味本(むいみぼん)と呼んでいる。本なのに無意味と呼ばれるのが面白いし、なにより響きが良い。むいみぼん。というわけで、以下この本を無意味本と呼ぶ。

無意味本は身体について書かれた本である。ただ、それは抽象的な身体を一貫した論理で論じたものではない。本の構成を見ればわかるが、無意味本に収められた論稿の発表時期はバラバラ(!)である。しかし、それでも一つのまとまりをなしている。この本の構成自体が、ドゥルーズのアルトー論を体現している。主題のバラバラな論稿=断片が、一つの本=身体に内在している。そう、これは器官なき身体なのだ。他でもない、千葉雅也の。

不思議なのは、無意味本が一つのまとまった本として読めてしまうということだ。無意味本はユーモアに溢れている。ユーモア、見方を変えること、連想。理路整然と書かれた『動きすぎてはいけない』『勉強の哲学』と比べて、無意味本は言葉の詩的な連鎖に支えられて書かれた論稿が多い。ある言葉から、様々なものへと想像力が広がっていく。もちろん理論的に書かれた論稿もある。それらはバラバラながらも、似たような問題系を論じている、ような気がする、様々に見方を変えて。

ユーモアをより抽象的に確認しておこう。『動きすぎてはいけない』によれば、ユーモアは与えられてしまっているものを組み合わせて、自己の形態を勝手に構築する。この世界がこうであること、自分がこうであることの此性を肯定するための態度。それが無意味本にも現れる。無意味本は千葉の個人的な、具体的な身体性を宿している。ギャル男、柑橘系の匂い、ラーメンなど。これらは強いこだわりを持って、千葉自身の身体を構築している要素である。

小林康夫は無意味本を、墓と評している。墓石の下の穴のなかに千葉雅也の身体、90年代の亡霊が保存されている。無意味本は千葉の身体が眠っている。無意味本は千葉の分身である。今そうである自分、身体の此性について書くことは分身を生み出す。これらを勉強の領域へ、言葉の領域へ飛ばすことで無意味本は成り立つ。それこそ連想的に、ユーモラスに。分身は千葉の身体について語りながら、それ以上のことを語る。

ユーモラスな分身。それは無意味本においても一つの章をなす重要なテーマである。興味深いのは、分身の章に収められた論稿が、食べ物、食べることに多く言及していることである。ソォダ水。ラーメン。善く食べること。食事。思考の持続の中断。甘さ=エロス=生と、きじょっぱさ=タナトス=死の往還。生きながらの死、仮死。そして蘇生。生きるためにはしなければならないこと。食べているのか、それとも食べさせられているのか。主体が分裂し、相互作用によって行為する。食事とは分身のなす行為である。千葉は食事に分身を見る。

ここまでを一旦整理する。千葉は複数性の問題を引き継ぎながら、中途半端にまとまってしまっている偶然的な事実をどう肯定するのかを書いてきた。重要なのはユーモアであり、端的に言えば、それは分身を作り出すことである。そのための勉強であり、食事。そうして、アイロニーが行き詰まる袋小路を切り抜ける。アイロニーを中断して、ユーモアに折り返すことで。

 

 

 

さて、ここで最初の目標に戻りたい。僕は、アイロニーを強く働かせて、それ自体を楽しむとはどういうことかを考えようとしている。アイロニー、それは自己の足場を切り崩す思考の運動である。自己破壊を徹底的に楽しむこと。しかし、これはほとんど矛盾した表現かもしれない。『動きすぎてはいけない』において、アイロニーはサディズムに、ユーモアはマゾヒズムに結び付けられていた。とするならば、アイロニー=自己破壊を楽しむというマゾヒスティックな享楽は、既にユーモアに転化されてしまっているのではないか。

もっとも、アイロニーとユーモアの切り替えについては、『動きすぎてはいけない』で千葉がフロイトとドゥルーズに依拠しながら、既に書いている。

サディズムからマゾヒズムへの変換はそう容易ではなかったと見ている。二つの前提がある。(1)フロイトによれば、サディズムこそが最初であり、それが自我に反転して向けられるとき、自らを攻撃するマゾヒズムが生じる。(2)しかしまた、サディストは、苦痛と快楽のつながり―ドゥルーズはこれを「快楽と苦痛の間のひとつの生きられた紐帯」と表現する―を知っている。サディズムは、(初めから)確かに「マゾヒズム的経験」を含んでいる。

『動きすぎてはいけない』p321・322

そしてこの後、サディズムのマゾヒズムへの反転に関わる記述が続く。ドゥルーズによれば、それは反復によってなされる。反復には二種類ある。まず一つは、快感を感受するための反復。散在する外部刺激を拘束する反復。もう一つはアイロニーの反復。外部刺激の拘束後にアイロニーが働くとどうなるか。アイロニーはあらゆるものを破壊する。とすれば、アイロニーは刺激の拘束を解こうとするだろう。まとめられた個体の死。しかしまた、外部刺激をまとめる拘束が反復されるだろう。別のしかたでまとまる。そしてアイロニーの反復。この二つの反復が、個体に複数の死をもたらし分身させる。ただし、アイロニーの反復は急ぎすぎてはいけない=動きすぎてはいけない。アイロニーは反復によって加速するが、速すぎるとまとまることすらできない。分身のためには、節約しなければならない。

理論的には、分身はサディズムとマゾヒズムを組み合わせてなされる。反転の明確なタイミングについては詳述されていない。では、実践的にはどうなのか。『勉強の哲学』を見てみよう。

(1)イロニーから始め、その過剰化をせずにユーモアへ転回し

(2)そして、ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する

『勉強の哲学』P119

実際、次のステップで享楽の硬直化を防ぐためにアイロニーが再び働くのだが、いずれにせよアイロニーとユーモアの転換は明確なようだ。もちろん自己啓発本を装ったこの本では、複雑な議論は省略されているのだろう。しかし、ここであえて問うてみる。アイロニとユーモアが同時に起きているとして、アイロニーが加速していくものであるとするならば、ユーモアによる形態化は常に脅かされるのではないのか。そう、だから節約を・・・いや、しかし本当にアイロニーを節約することは可能なのか。アイロニーがユーモアを勝手に追い抜いてしまうことはありえないのか。

繰り返すが、アイロニーは偶然的に終わる。そんなことはわかっている。しかし、アイロニーがすぐにまた始まることも確かである。であるならば、中途半端さを肯定するよりも先に、今そうである偶然性に向けて終わりなき思弁がなされる場合もある。僕は強すぎる、速すぎるアイロニーについて考えている。このとき、中途半端にまとまることなしに、この生を肯定することは可能か。思考を無理やりに中断する時間を確保するにはどうしたらよいか。このことについて、千葉の議論を参照しながら、一つの比喩に基づいて考える。

 

 

 

無意味本の表現について。小林康夫が無意味本を「墓」と評したのは、千葉が用いた「穴」と「石」の比喩を受けてのことである。「穴」はアイロニーが行き着く世界の無根拠性である。そこでは無限の解釈が生成される。〈意味がある無意味〉。無根拠、なんの必然性もないがゆえに、様々な理由付けが可能になる。これが相対主義、信仰主義を引き起こす。だから、(小林によると)千葉は「穴」を「石」でふさぐ。ただ単にふさがれているという事実。解釈の余地もない〈意味のない無意味〉。墓。身体が眠る。

しかし、身体が閉じ込められてしまったならば、もはや変身できないのではないか。とするならば、「穴」を「石」でふさいでいるにしても、ある程度は開かれていなくてはならないのではないか。そして、ある程度開かれているということが、アイロニーの止まらなさを意味しているのではないか。

千葉の「穴」についての記述を考えよう。千葉は穴を排水口と呼んでいた。「排水口。それは、最強の重力を持つ中心点であり、そこへと引っ張られて意味の雨が降り続ける。その穴は決して埋まらない。」しかし、埋まらないにしても、全ての雨が、水が、一気に流れつくしてしまうとは限らない。たとえば、こんな風に考えよう。くぼみの中に穴があったら?速すぎる水の流れの影響で、くぼみの中に水が溜まる。排水口に石で栓をしよう。

「墓」ではなく、「浴槽」に読み替える。おふろ。意味の雨が溜まる場所。解釈のプール。そこに身体を沈める。氾濫する意味に囲まれ、アイロニーは加速する。アイロニー、それは自己破壊である。おふろは自己破壊のツールだ。古来、おふろは苦行に耐える通過儀礼として広まった。すなわち、生まれなおし=分身のきっかけとして。おふろに長く浸かれば浸かるほど、脳は煮詰まり、のぼせるだろう。ぼーっとする。忘我の領域へ。アイロニーの加速化=のぼせることによる、自己破壊。

だが、いつまでもおふろには浸かってられない。穴をくぐることはできない。石にふさがれている。石にぶち当たる。身体の限界がきっとくる。おふろから出る時間だ。このときアイロニーは中断される。しかし、この中断は何も伴わないだろう。アイロニーの加速化により、ユーモアによる形態化は起こりえない。アイロニーに狂った主体は、ただただ無意味に突き当たっただけであろう。だが、分身は起こりえる。おふろは意識をトランス状態に持っていくことがありえる。古来、おふろは幻覚剤と共に享受された。

アイロニーによる理想の追求は、身体の限界をもってして諦められる。ただ、湯上り独特のその媚態は、普段とは異なる分身を生み出す。湯上りのたそがれ。コーヒー牛乳によるクールダウン。微熱感。頭を半‐空っぽにしながら、ぼーっと世界を眺める。様々な湯上りの媚態に魅かれながら。リセットされた脳はいつもと違う世界を見せるかもしれない。なにが違うのだろう。与えられている世界に目を向ける。世界の此性への気づき。湯上り後の内在的な幸福感とともに世界は肯定されうる。アイロニーはまだ働かない。ニヒリズムには陥らない。

アイロニーの束の間の麻痺状態。アイロニーが自我に向かうことへの疲れ。しかし、仮死=寝ているわけではない。世界はまだ現象している。このとき、強すぎる、しかし麻痺したアイロニーを外向けに働かせることができたならば。世界に複数の穴をあけることができやしないか。バラバラなものとして。のぼせた頭が見せる、くらくらした世界は否定神学を逃れられる、かもしれない。

空論だろうか。それでもいい。これは千葉哲学に惹かれながらも、中途半端さをどうしても肯定することができなかった者の1つの解釈である。ユーモアに切り返すなら、アイロニーを働かせ尽くしたい。そんな欲望が僕にはある。それぞれの仕方でこの世界を肯定すること。それが僕にとってはおふろだっただけだ。そこに必然性や、それを支える強い論理もない。ここにきてようやく自らの中途半端さを受け入れられる。

別のしかたでの分身。千葉は食事。僕はおふろ。では、あなたは?

 

ごはんにする?おふろにする?それとも・・・

文字数:7958

課題提出者一覧

  • 20821388kk
    20821388kk
  • 藤原 神護
    藤原 神護
  • 藤川真規
    藤川真規
  • 春木晶子
    春木晶子
  • 花屋 淳
    花屋 淳
  •  
     
  • 岸
  • 汐里
    汐里
  • 山岡 星児
    山岡 星児
  • みたぱん
    みたぱん
  • 文乃 つき
    文乃 つき
  • 鈴木 翔大
    鈴木 翔大
  • カート・コ・バーン
    カート・コ・バーン
  • 尾﨑マヤ
    尾﨑マヤ
  • スズキナルヒロ
    スズキナルヒロ
  • 小林 望
    小林 望
  • 西崎 紀章
    西崎 紀章
  • ponko1946
    ponko1946
  • saana
    saana
  • nishimura
    nishimura
  • 別所 晋
    別所 晋
  • sils
    sils
  • 岡 俊一郎
    岡 俊一郎
  • かずひ
    かずひ
  • 香野 わたる
    香野 わたる
  • suzuki0308tomoko
    suzuki0308tomoko
  • 筧 大洋
    筧 大洋
  • たけっち
    たけっち
  • たまごまだあったかや
    たまごまだあったかや
  • tmtmtr
    tmtmtr
  • toppa99
    toppa99
  • 釣橋 渡
    釣橋 渡
  • 内海 凪
    内海 凪
  • NIL
    NIL
  • 新芸術校生
    新芸術校生