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人間になりつつある機械と機械になりつつある人間

1.機械(人工知能)

つい先日のことである。友人を部屋に招いた。成人式の後に家で飲みなすためである。大学でのテストが近かったその日は、机の上にドイツ語の文献と辞書が広げっぱなしにしてあった。それを見て友人が僕に言った。

「ドイツ語を読めるようになったとして、将来どうなるんだろう?だって、AIが出てきたらそんな必要ないでしょう?」

僕は少し驚いた。AIが実現したとしても、ドイツ語を読むことは必要だと思っていたからだ。なんとなく。すでに酔っていて、AI時代にドイツ語を読む必然性など考えたこともなかった僕は、曖昧に適当に答えたと思う。

「ほら、大学とかで研究するなら、必要じゃん?」

 

 

ずいぶん大雑把に答えたものだ。今振り返れば、こう答えたのは正解だったとも思うし、間違っていたとも思える。「大学で研究するなら必要」という言葉は、「大学で研究しないなら必要じゃない」ということを意味する。これは、間違いだろう。大学で研究をするか否かに関わらず、ドイツ語を読む、ひいては言葉を読むという営みは、AIが実用化されつつある現在でも大事なことだと思う。

なぜならば、AIは「読む」ということが得意ではないからだ。その点は、新井紀子が『AI VS 教科書が読めない子供たち』で明らかにしてくれている。この本は、東大合格を目指すAI「東ロボくん」プロジェクトの現状を報告した本である。新井によれば、7年間続けている研究プロジェクトの中でAIにできないことが見えてきたという。それが「読む」という行為だ。「東ロボくん」のセンター試験の結果は、国語と英語で伸び悩んでいるらしい。

これは、AIの仕組みに由来する。AIはあくまでも計算機である。AIは人間の脳を模倣しているのではなく、人間の脳を数学的に置き換えて作られたものである。したがって、AIは数学の範囲内でしか物事を処理できない。

現代の数学にできることは、大きく分けて三つしかない。論理、確立、統計。ここから外れるものは処理できない。Siriならこういうだろう。「すいません。よくわかりませんでした。」

では、AIの処理範囲から外れるものとは何か。それが言語の意味である。AIは言語の意味が理解できない。これは言語の構造自体に原因がある。たとえば、「みにくいアヒルの子」という言葉を考えてみよう。この言葉は、「みにくい/アヒルの/子」と3つの要素に分けることができる。AIでも、このような言語の形式は理解できる。

問題は、「みにくいアヒルの子」を二つに分ける場合である。このとき、二つのケースが考えられる。まず、「みにくい/アヒルの子」。もう一つは、「みにくいアヒルの/子」。字面は同じだが、意味が異なってくる。前者(「みにくい/アヒルの子」)であれば、アヒルの子がみにくいということになる。この場合、アヒルの親はみにくいかもしれないし、みにくくないかもしれない。後者(「みにくいアヒルの/子」)の場合、アヒルの親がみにくいということになる。この場合、アヒルの子は親と同様にみにくいかもしれないし、みにくくないかもしれない。

つまり、「みにくいアヒルの子」をめぐって二つの解釈があるわけだ。これを区別し、無限に開かれた文脈にあてはめながら理解する。これは人間には可能だが、AIにはできないことらしい。機械的に一対一対応に基づいて処理していくAIにとって、データ(言語)外部のことは理解できない。したがって、AIは言語の意味が理解できず、人間の言語を扱えない。このことは、ずいぶん前に「有限状態オートマトン」を使ってチョムスキーが証明したことであるし、サールが「中国語の部屋」で証明したことでもある。東ロボくんの結果を見るに、60年たった今でもその現状は変わらないらしい。

いくら技術の進歩が速まっているとはいっても、AIが人間を超える日はまだまだ遠そうだ(というか、そもそも、人間を超えるという想定は有意義なのか。人間にはできてAIにはできないことがある、そしてまた逆もしかり。「シンギュラリティ」とか騒がずに、これくらいの気持ちでいいのではないか。人間とAIは無関係に存在する、これでいいんじゃないかな。)。このような立場をとる僕は、人間を超えるAIが実現したとき社会がどう変わるか、という議論はしない。そんな遠くの話よりも、もっと近い話をしよう。

 

 

2.人間(天然知能)

昨今のAIブームで興味深いのは、AIと人間の未来よりも、むしろAIをきっかけにした人間性への問い直しの方である。AIに湧く社会と適切に距離を取りながら(その盛り上がりをシラケさせるような言説を突き刺して)、AIに対峙したときの人間存在について考える。AIは人間について考えるきっかけの一つに過ぎない。本当に重要なのは、「機械は考えるか」と問うことではなく、「『機械は考えるか』と問うときに前提としている『考える』とはそもそもどういうことか」ということなのである。

このように、問いの方向を機械から人間自身に向けてみる。すると、先ほど述べた意味の理解について、そもそも「理解する」とはどういうことか、という問いが現れる。

しかし、この問い、実は罠である。このような問いに真正面から向き合って、精緻に論じようとしてきた人は歴史上、数えられないほどいる。このような議論は哲学の歴史上、かなり古くからある。にもかかわらず、未だに議論されているということ自体が、その答えを示してしまっている。すなわち、袋小路に陥ると。なに、簡単なことだ。「理解するとはどういうことか」について〈理解するとはどういうことか〉について【理解するとはどういうことか】について…以下同文。考える対象としての「わたし」と考える主体としての「わたし」は絶対に一致しないため、理解することについての問いは果てしなくメタ化され、袋小路に陥る。

袋小路に陥る、人間に関するメタ的な問いは、それに対する解答を不完全にする問題を含んでいる。この袋小路を避けるためには、(なんだかポストモダンな言い方だが)問いをずらさなければならない。というか、問いに含まれる問題を無効にしなければならない。しかし、それは問いを壊すことでもある(このようなことを蓮實重彦も言っていたような気がする。あの、とんでもなく読みにくい『表層批評宣言』で。)。問いが壊れてしまっては、問いに対応する答えも厳密には呈示されない。学問の厳密性というのは、問いと答えの一義的関係にあるのだから。

というわけで、メタ的な問いに厳密に答えようとすれば答えられず、答えを求めて問いをずらせば厳密性に欠ける。無限循環に留まるか、うさん臭さに身を任せるか。僕は、喜んで後者を選ぼうと思う。いかにうさん臭く、「ダサカッコワル」く見えても、そちらの方が面白そうだし、気になる。そうでしょう、郡司ペギオ幸雄さん。

 

郡司ペギオ幸雄は『天然知能』という本をごく最近出した。その題名からわかることだが、この本は人工知能に対しての明らかなカウンターであり、天然知能は人工知能を支える自然科学的思考=自然知能とも区別される。人間に関するメタ的な問いをどう考えるか、という文脈でこの本にヒントをもらうとするならば、郡司が試みているのは人間に関して問う、その観測者=「わたし」自体の解体である。そして、解体された「わたし」こそ、人間の在り方だというのである。

郡司の議論はどこかうさんくさい(つねにうさんくささが憑りついて回るのが哲学だといってもいいかもしれない)。たとえば、郡司は、「生きたイワシについて知るにはどうしたらよいか」について考察している。郡司によれば、辞書でイワシの定義を知り、図鑑でイワシの写真を見て、映像でイワシの泳いでいるところをみても、天然知能にとってそれは答えにはならないという。なぜならば、それは実際に今、太平洋で泳いでいるイワシの躍動感を述べていることにはならないからだ。だから、辞書や図鑑、映像を与えられても、「それらは子供のころ川でフナを見たときのように、イワシの生きている感じを伝えてくれない。そんな情報よりも、もっと別にあるだろう!」と天然知能は感じるらしい。その結果、生きているイワシはかつて見たフナの動きと、イメージ的に重ね合わされて、生きているイワシに近づくことができる。

正直、うさん臭いとは思うが、僕が郡司の議論をうさん臭く感じることと、論理的に納得できるものかは別問題である。現に、生きているイワシについての理解を論理的に整理してみると、妥当であるように思う。まず、イワシについて問うとき、辞書や図鑑、映像によって特定の解が与えられる。普通に考えれば、イワシという問題と辞書などから得られる解答は一対一の対応をなすはずである。例えば、[イワシ=魚類、ニシン目、青い]という具合に。Siriに問いかければ、このような答えが返ってくるだろうし、Siriのデータベースを支える自然科学もこのように答えるはずだ。

ただ、天然知能は生きているイワシを知りたがっている。体系化された知識ではなく、世界に直面したときに抱くものをその通りに理解したがっている。このような理解を辞書的な知識は与えてくれないため、生きているイワシについての解答は常に取り下げられる。生きているイワシとイワシについての知識は対応関係を結べずに、常にずらされる。そして、この問題と解答のずれが、天然知能にフナの記憶を呼び起こさせる。このことで生きているイワシへの理解がなされる。郡司によれば、これが天然知能の世界理解であり、本来の意味での理解であるという。

重要なのは、フナの記憶がイワシについての問題とは全く無関係なところからやってくることだ。対応関係が常にズレるとき、外部からイメージがそのズレを埋め合わせにいきなりやって来る。そのイメージの到来は規定できない。しかし、そのイメージによって、天然知能の理解が成立する。つまり、理解は未規定性を含んでいる。「理解する」ということは本来的に規定することができない。郡司の議論を追えば、このような結論が導き出される。

 

ズレと外部からの埋め合わせ。天然知能の特徴はこの二つにまとめることができ、それは未規定性の思考と言うことができる。そして、郡司に言わせれば、「わたし」(=自我)も未規定ということになる。先述したように、自己言及は常にズレる。では、固有の「わたし」はいないのか。そうではない。「わたし」の固有性は無意識に求められる。無意識のこだわり、無意識に沸き起こるイメージが「わたし」のズレを埋めあわせる。しかし、無意識であるから、「わたし」の思い通りには埋め合わすことができない。「わたし」を成立させるのは、「わたし」の中にある外部である。この意味で、「わたし」は未規定である。

この説明は認知科学的にも妥当である。認知科学によれば、「わたし」が行動を意図する以前に、「わたし」以外の脳の部位が行為の指令を出していることがわかっている。「わたし」の中にある「わたし」の外部が「わたし」に関わり、「わたし」を動かしている。「わたし」は自己完結的に規定できない。やはり「わたし」は未規定である。

抽象的な議論が続いて飽きてきただろう。少し伸びでもしながら、以下の並びを見てほしい。

 

マネコガネ

サワロサボテン

イワシ

カブトムシ

オオウツボカズラ

ヤマトシジミ

ライオン

ふったち猫

 

突如現れた生き物たちの並び。これが『天然知能』の章立てである。目次を開くと、生き物たちの名前がずらりと並ぶ。この目次のもと、さっきのような抽象的な議論が繰り返される。それぞれの章には、その章の名前になっている生き物たちと郡司との個人的な思い出が挿入されている。その自然との記憶から、未規定性についての思考が始まる。

したがって、『天然知能』を貫く未規定性は自然とのかかわりの中で駆動するのだ。主体の未規定性は自然界との関わりの中で見えてくる。そしてこの未規定性は、別の学問でも規定することが可能である。自然界における主体の未規定性を動物社会学的に規定した、真木悠介の『自我の起原』を見てみよう。

真木は同書の中で、ドーキンスの「利己的な遺伝子」説を批判的に継承しながら、利他性を基礎づけようとしている。大雑把にではあるが、真木の議論をまとめるとつぎのようになる。

ドーキンスによれば、個体は遺伝子=生成子の再生産を増幅するための乗り物に過ぎないという。すなわち、個体の行動は遺伝子の再生産にとって有利かどうかに左右されており、その意味ですべての行動が、遺伝子の利己的行動であるかのようにみえる。そして、生成子を再生産するための進化の過程(細胞システムの創発、多細胞「個体」システムの創発)に注目しながら、それでもなお生成子の再生産に逆らう主体性=自我がどのようにして発生したのかを論証する。

結論だけ言えば、生成子の再生産に伴う進化の過程で、脳が生み出され、その結果考える主体が生み出されることになる。このときから、主体は生成子の目的に逆らう形で存在するこができるようになる。例えば、遺伝子の再生産の拒否=独身、同性愛などが挙げられる。生成子の運び屋から高次の主体=「わたし」への可能性が開ける。

真木の議論は、生き物の視点上で思考を展開しているという共通点だけでなく、その構造も郡司の議論とほぼ同じである。「わたし」は「わたし」の内にありながらも外部である存在(生成子)に規定されている。「わたし」は「わたし」の内にある外部によって成立する。真木の議論が郡司よりも深い射程があるのは、「わたし」の形成過程を細胞以前にまで遡って論じている点にある。つまり、生物学・動物社会学的に見ても、「わたし」は「わたし」のみで完結することができず、未規定だということだ。

 

3.人間(人工知能)

さて、こうして、「わたし」(=自我)が未規定であることはわかった。そして、郡司、真木の両者が生き物という視点から語っているように、その未規定性は自然との関わりの内に見いだされるということがわかる。

しかし、だから何だというのか?

主体の未規定性など、わざわざ精緻に論じあげなくとも、生活の実感として抱くものである。郡司と真木両者の議論で注目すべきところはそこではない。むしろ、2人とも主体の未規定性を肯定していることに注目すべきである。例えば、郡司は「わたし」が外部から規定される受動的な存在であることを認めたうえで、それを能動的存在への価値転換の契機とみている。そして真木は、『自我の起原』最終章にミツバチと花の共生関係を、主体の未規定性のポジティブな可能性として取り上げている。

だが、2人が肯定的に評価する主体の未規定性はどのような場面で現れるのか。果たして、主体の未規定性を現代社会で肯定的に解釈して生きることは可能なのか。僕にはその見通しが立たない。

だから、逆向きに考えよう。なぜ郡司と真木は主体の未規定性を肯定的に評価できるのか。彼らはどのような世界観から、主体の未規定性に肯定的価値を見出すのか。そのヒントは、両者の生き物への距離感にあるのではないだろうか。

郡司の「生きているイワシ」の議論は紹介した。生きているイワシへの理解は、かつて見たフナの躍動感への感覚から促されるというものだ。こうして、天然知能は機械的な説明に収まらない外部を理解することができる。

だが、かつてフナを見たことがない人は、どのようにして生きているイワシを理解するのか。この場合、天然知能は働かないのではないか。なぜなら、天然知能による人工知能的説明の棄却は、フナのイメージの後押しによって可能になるからだ。僕が郡司の議論にうさん臭さを感じた点はここにある。もちろん、フナは1つの具体例に過ぎない。フナの記憶の有無が意味するのは、天然知能が働いたことがあるかないかを意味している。そして、現代においては、確実にそのような機会は減っているのではないだろうか。エビデンス主義の跋扈など、むしろ人工知能的に、一対一の対応関係で物事を理解するような方向へ動いている気がする。

とすると、僕たちの社会は、「シンギュラリティ」を待つまでもなく、人工知能に支配されているといえる。そこでは外部が働かない。このような社会にあっては、「機械が(人間のように)考える」ということよりも「人間が機械のように考える」ことの方に問題を見出さなければならない。それは今だからこそできる問題提起である。天然知能が滅びる前に。

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