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不機嫌クリニック カルテ

当クリニックでは、不機嫌な人物の事例を紹介し、不機嫌について考えています。今回は、濱口竜介監督の映画作品から不機嫌な人物を取り上げてみましょう。

 

Case1 『親密さ』良平

良平は、感情の起伏が少なく常にムスッとしています。典型的な不機嫌な人です。良平は恋人と演劇を作っています。しかし、良平は公演直前になっても演技練習をしない令子にイライラしています。令子は演技練習の代わりに、相手のことをよく知ろうとインタビューを続けています。良平がインタビューを受ける番が回ってきました。良平はこれに耐えられず、癇癪を起します。

 

Case2 『ハッピーアワー』茉美

茉美は気づかいのできる女性です。周りの人がどうしたら楽しんでくれるのか考え、一歩引いたところでものを見ています。そんな茉美ですが、不機嫌になることは多いです。それは主に、夫の拓也との関係がうまくいかなくなったときです。拓也は若い女性作家の能勢を担当している編集者です。仕事をする拓也が好きな茉美ですが、拓也と能勢の二人の関係はよく思っていません。だから、拓也が能勢の話をするときは不機嫌になり、自閉的になるのです。

 

 

診断

今、2人の不機嫌な人物を紹介しました。良平は激しく不機嫌で、茉美は静かに不機嫌です。しかしここで、2人を同じ不機嫌としてくくってしまっていいのか、と考える人もいるでしょう。そこでまず、不機嫌について少し説明しておきたいと思います。

不機嫌診断のスペシャリスト山崎正和先生によれば、不機嫌は「他人との感情関係の不安定から起るもの」です。その特徴は「理由を説明できない内面の異物感であり、同時に自分自身の感情と一体化できない一種の疎遠感」だということです。山崎先生は『不機嫌の時代』の中で次のように書きます。

 

説明できない異物感は、自己から脱出して行く純粋な自己の手触りであり、一体化できない感情は、それによって置き去りにされる日常的自己の感情だと見ることができる。さらにまた、不機嫌な人間は他人にたいして自閉的でありながら、しかも真の孤独に耐えへないという矛盾を示すのであつたが、このことも不機嫌を自己の自己脱出の気分と考へれば容易に理解することができる。

 

この言葉を踏まえると、不機嫌とは日常的自己からの脱出の気分だと言えます。この気分は、自己の空虚さを自覚する契機となりますが、同時に、日常的な自己を乗り越える契機を与えてくれるとも言えるでしょう。山崎先生の言葉を借りれば、日常的自己の「紐帯がゆるんで実存が脱げ落ちるときに不機嫌が生まれる」ということになります。

したがって、良平と茉美が同じように不機嫌だということがわかってきます。まず良平から見ていきましょう。良平の不機嫌はインタビューによって頂点に達します。しかし、これは公演が迫った焦りだけが原因ではありません。原因はもっと深いところにあります。

良平の癇癪は、インタビューが自己をさらけ出すことを目標にしていたということに起因します。良平の恋人である令子は、日常で表面的に付き合っている限りでは見えない、人間性に迫るためにインタビューをしています。いわば、相手の日常的自己を引き剥がそうとしているのです。

ここに不機嫌の契機が生まれます。不機嫌とは日常的自己から脱出する時に生まれるのでした。それは自己を乗り越える機会でもあるのですが、この場面において不機嫌は自己の空虚さを突き付けるように働きます。だからこそ、良平は癇癪を起して自己の空虚さを埋めようとするのです。

おそらく良平は自己の空虚さに気づいています。彼が書いた演劇の台本の中に、人間は言葉の媒介物であるという意味の台詞が出てきます。これは否定的に解釈すれば、人間は言葉の容れ物に過ぎず、中身は空っぽだということです。そして、良平は言葉には限界があるという台詞も書き込んでいます。言葉では人間の、自己の空虚さを埋められないのです。だから、自己の空虚さを突き付けるインタビューに対して癇癪を起すのです。

続いて、茉美について見ていきましょう。茉美が不機嫌になるのは、夫の拓也との関係がうまくいかなくなったときです。仕事を頑張る拓也のことは好きだが、拓也が頑張るほど能勢との距離は近づいてしまう、それは嫌だ。このとき、茉美は二つの正反対の気持ちに引き裂かれています。

そうして茉美に不機嫌が生まれます。不機嫌は「他人との感情関係の不安定から起るもの」でした。茉美はアンビバレントな気持ちに引き裂かれ、拓也に対してはっきりとした感情を抱けません。拓也と安定した感情関係を結べないのです。それは、茉美の中に拓也への気持ちを表す定まった感情、言葉がないことを意味します。茉美の中は空っぽなのです。そのような自己の空虚さに直面させるのが不機嫌なのでした。

良平も茉美も同じように不機嫌です。しかし、濱口監督は『親密さ』『ハッピーアワー』両方において、二人の不機嫌をプラスに転化させて作品を終わらせています。良平は劇の上演後、映画上戦争が起こっている朝鮮半島へ軍人として赴きます。自ら日常を超えた非日常の方へ向かうのです。茉美は拓也の交通事故を通じて、自分の気持ちを清算して、拓也との関係を築きなおすことを示唆して終えます。茉美の日常に侵食してきていたアンビバレントな気持ちを払拭して、新しい日常へと向かうのです。

先にも書いたことですが、不機嫌は日常を脱出する契機になります。これは物語動かす鍵となるでしょう。だからこそ、濱口監督の作品には不機嫌な人々が登場するのです。

 

処方箋

不機嫌は自分の中の空虚さ、つまりはっきりとした感情、言葉を持てないでいることを突き付けます。良平や茉美が不機嫌だということは、はっきりとした感情や言葉を持てないでいるということです。

不機嫌な彼/彼女らに、どのようにして感情を与えることができるでしょうか。ここでは不機嫌への処方箋を紹介します。不機嫌診断のスペシャリスト山崎先生は、不機嫌の処方箋として次のように書いています。

 

仮面をかぶり、演技を見せるためには、人間はまづその下に素顔を持ってゐなければならないはずだが、忘れてはならないのは、実はその素顔がすでにひとつの「表情」として作られてゐるという事実である。

 

不機嫌な人に感情を与えるには、その表現の仕方、つまり「表情」を与えてあげねばなりません。それは空虚な人間の内側から生まれてくるはずはなく、外部から作ってあげなければならない。しかし、それは決して演技、仮面ではありません。山崎先生は、「表情」を「彼自身が絶えず内側から作り出してゐる彼の生きるリズム」とも表現しています。それは外部から自らインストールして、初めて内側から自然と浮かび上がってくるものなのです。

要するに、外部からインストールした「表情」「生きるリズム」が、感情に形を与え、不機嫌に対する処方箋になります。そして、濱口監督は映画の登場人物にこのような処方箋を与えています。

しかし、ここで一つ思い出さなければならないことがあります。それは、良平も茉美もフィクションのなかの存在だということです。これはつまり、この二人は「演じられる」存在だということです。

不機嫌な登場人物は「演じられる」存在であるが、その登場人物は定まった感情を持っていない。これは大変なことです。演技とは本来、役柄の定まった感情があって、それになりきることです。でも、不機嫌な登場人物たちには定まった感情がない。このとき、いったいどのようにして「演じる」ことができるのでしょうか。それはもはや、演じないことによってしか「演じる」ことができないのではないでしょうか。

したがって、濱口監督の不機嫌の処方は少し複雑になります。濱口監督は映画の中でたしかに不機嫌な人を処方しているのですが、そのためには不機嫌な人を作り上げなければなりません。そのうえで、処方箋を提示していくのです。というわけで、濱口監督の試みを不機嫌な人の生成とその処方という、二段階に分けてみていきましょう。

まずは不機嫌の生成から。これはよく指摘されることですが、濱口監督は役者に感情を入れずに棒読みで台詞を繰り返し言わせるということをしています。これは、役者から「台詞を言っている」という意図を取り除き、より自然な演技に近づけるためらしいです。たしかに、その通りでしょう。ただ、これを不機嫌の処方箋として捉え返してみると、もう少し深い射程があるようにも感じます。

台詞をインストールしていくことは、それを発する自意識を中断させると同時に、自己を言葉で埋め尽くしていくことを意味します。それはつまり、自己を言葉の容れ物として空っぽにしていくということです。ここで役者は自己の空虚さに直面することでしょう。繰り返し台詞を棒読みすることは、不機嫌への第一歩でもあるのです。

濱口監督は台詞について、「本読みはその「意味」に驚く、より大きく揺らぐための準備」と述べています。「意味」に驚く、揺らぐとはどういうことでしょうか。不機嫌に引き寄せて解釈しましょう。台詞を言うということは、普段使わない言葉をあえて言うということです。このとき、役者の身体には普段使っている言葉と使わない言葉が混在することになります。ここで役者は言えない台詞に直面するのです。濱口監督はこの言えなさを、恥と言い換えています。それはあたかも、正反対の気持ちに引き裂かれて、その気持ちを表現する言葉を持てない茉美のようです。やはり、本読みは不機嫌への第一歩なのです。ちなみに、「羞かしさ」について、山崎先生が不機嫌と同じ、気分の一種と指摘しているのは興味深いことです。

ここまでで、濱口監督が映画外部で、役者を不機嫌へとじわじわと追いつめていることがわかりました。では、こうして役者を不機嫌に追い詰めた濱口監督は、彼/彼女らをどのように処方していくのでしょうか。それは映画内部で行われます。見ていきましょう。

これもよく指摘されることですが、濱口監督は顔に非常に寄ったショットや正面からのショットを多用します。これは強い感情を表現するためだと指摘されますが、ここでも不機嫌に寄せて顔のショットを解釈してみましょう。

思い出してほしいのは、山崎先生の言葉です。先に引用した中で、「素顔」という言葉が使われていました。演技をするためには、偽りの「仮面」ではなく、「素顔」を持っていなければならないのでした。では、「素顔」とはなんでしょうか。繰り返すようですが、人間は空虚な存在です。そんな空虚な存在から、自然な表情をもった「素顔」が生まれるはずもありません。「素顔=表情」は外部からインストールされなければならなかったのです。

このように考えると、「素顔」とは意識的になる表情ではなく、気づいたらなってしまっている表情だと言えるでしょう。そして、それは外部からインストールされたものであるはずです。濱口監督の場合、そのインストールは映画の外部で行われています。それは繰り返し台詞を棒読みすることであったり、他のワークショップなのかもしれない。いずれにせよ、濱口監督は顔の近くによることで、「素顔」にフォーカスし、不機嫌の処方箋をショットの中におさめようとしているのです。それは強い感情を表現することよりも、もう少し深いところまで迫っているように感じます。

また、映画の主題の一つとして、触れることについて考えていることも、不機嫌に対する一つの処方箋と言えるでしょう。『親密さ』において、良平は演劇に別れ話の場面を組み込んでいます。そこでの男女の会話が印象的です。女性が別れ話を切り出すのですが、女性に対して未練がある男性は自分の言葉が軽いことに反省の意を示します。対して、女性は男性の言葉の軽さを認めたうえで、だから触れるのが好きだったと返すのです。

ここでは言葉と触れることが対置されています。どうやら女性は、言葉に対して触れることの方に価値を置いています。そして、重要なのはこの台詞を良平が書いているということです。良平、つまり不機嫌な男は、言葉よりも触れることを求めている。これは良平の不機嫌を思い返せば頷けることです。良平は人間を言葉の媒介者として捉え、その空虚さに直面していました。だから、媒介物なくして、他人に直接つながることのできる触れ合いを求めるのはもっともだと言えるでしょう。

しかし、触れ合いは怖いものでもあります。不機嫌というのは、「他人との感情関係の不安定から起るもの」でした。つまり、不機嫌な人の実存の基盤には他人との間の距離があるのです。しかし、直接触れるという行為は、他人との間の距離感を消し飛ばしてしまいます。それは自らの実存の基盤を消去することに等しいのです。

おそらく、このことを濱口監督はわかっています。なぜならば、不機嫌な人間の触れることへの憧れを表明した『親密さ』の次に、『不気味なものに触れる』という映画を撮っているからです。

あまり感情を表に出すことのない高校生の千尋は、なかなか他人に自分の身体を触らせません。しかし、ある時、同級生の梓が千尋に強く触れてしまします。すると、千尋は梓を殺してしまうのです。正確には、梓を殺したのは千尋か真相ははっきりしないのですが、千尋が犯人だと思わせるように映画は構成されています。ここでは、触れ合うことの危険が示されているといえるでしょう。

もう少し千尋について見てみましょう。千尋は友人の直也とギリギリ触れ合わないダンスを踊っています。千尋は特殊なダンスによって、実存の基盤を吹き飛ばすことなしに、ギリギリまで他者に迫ることをしているのです。

では、いったいこのダンスによって何が実現されるのでしょうか。このことを知るのに、千尋を演じた染谷将太さんの言葉が注目に値します。染谷さんはダンスの場面では「カメラが意識から消えた」と語っています。この言葉をベタに受け取るならば、染谷さんはダンスの場面でカメラを意識することなく、つまり演技を忘れて自然に身体が動いていたということになります。ただし、やはりここで重要なのは、その動きは日常生活では決して行わない動きだということです。でも、実際には自然と動いてしまっている。これは外部からインストールされた「生きるリズム」で動いているということを意味します。「生きるリズム」、それは不機嫌への処方箋の一つなのでした。

ここまでの話をまとめましょう。濱口監督は映画を通して不機嫌を処方しています。具体的に言うと、本読みで役者を不機嫌へと追い込み、顔に寄ったショットによって「素顔=表情」を映画におさめようとしています。また、触れ合うということを通して、「生きるリズム」を表現しようとしています。「素顔=表情」も「生きるリズム」も、不機嫌への処方箋として濱口監督の映画の中に組み込まれているのです。

 

展望

当クリニックも営業終了時刻が迫ってきました。最後に、濱口監督がなぜ不機嫌な人物を描くのか考えてみたいと思います。

不機嫌診断のスペシャリスト山崎正和先生の著書『不機嫌の時代』というのは、実は明治の文学を対象とした不機嫌診断書です。山崎先生は日露戦争以後の日本の時代精神を分析し、森鴎外、夏目漱石、永井荷風、志賀直哉といった当時の知識人たちの文学の中に不機嫌を見ました。当時の日本は近代化の真っ只中にあり、激烈な変化の途上にありました。その変化に巻き込まれたのが、知識人を含めた当時を生きた人々です。そこでは明治以前の過去の日常は崩れ去り、「公」と「私」が極端に分裂してしまいました。不機嫌が表に現れてきたのは、この変化が一応落ち着いた時代であり、山崎先生はこの状況を指して「不機嫌の時代」と名づけたのです。

翻って、現在。状況はそれほど離れていないような気がします。インターネットの普及によって僕たちのコミュニケーションは著しく変化しましたが、現在ではその変化も一応の落ち着きを見せています。そして、3.11をはじめとする大災害を経験した今、過去の日常はいとも簡単に崩れ去ってしまうことを知っています。山崎先生が「不機嫌の時代」と呼んだ状況と全く似ていないわけではないのです。

とするならば、明治の知識人のように時代の雰囲気を敏感に読み取って、不機嫌を描く映画監督が現れてもおかしくありません。そう、濱口監督こそ不機嫌の継承者なのです。…とまあ、意気込んでみたわけですが、なんだか似てるというだけでは説得力に欠けます。本来は、もっと緻密な分析が必要なのですが、ここではその時間が足りません。なにしろ営業終了時刻前ですから。

だから、本当の最後の最後に、濱口監督の最新作『寝ても覚めても』について少し話して終わりましょう。というのも、この作品は不機嫌の近縁の問題を扱いながらも、それを超え出る問題系に属しているように思うからです。

山崎先生によれば「不機嫌というのは選べないことの不機嫌」です。これはつまり、選べるほどのしっかりした感情がそもそもない、という不機嫌特有の条件のことを指しています。選べないということを考えたとき、確かに濱口監督作品の登場人物は選ぶことができていません。例えば、茉美は拓也との離婚を選んだかのように見えて、交通事故を経てその選択は覆ったように思います。また、今回詳しくお話しすることのできなかった『PASSION』においても、智也は果歩との離婚を決意するも数十秒後にはやり直しを懇願します。ここでも選択をはっきりとできない様子が見受けられます。どうやら、不機嫌な人物ははっきりと選択することができずに、失敗するようなのです。

しかし、『寝ても覚めても』の朝子には、この条件が当てはまらないように思います。朝子ははっきりと選択しすぎているのです。もっとも、全く同じ顔をした麦と亮平のどちらを選ぶのかという朝子の選択は、何度か切り替わることは確かです。しかし、それは二つの選択肢の間で揺れていて選択ができない、というわけではありません。むしろ、一回の選択はその都度、はっきりしすぎているのです。

もちろん、この映画には原作があります。朝子のきっぱりとした選択は原作にすでに書かれていることではあります。しかし、問題は不機嫌な人間、つまり選択できない人間を描いてきた濱口監督が、選択できすぎる人間の映画を撮ったということではないでしょうか。

そして不機嫌の文脈を踏まえると、朝子の選択でき過ぎる在り方は1つの警句となっている可能性があります。不機嫌な人間は自己の空虚さに直面しているといっても、そこは完全に空っぽではありません。なぜなら、不機嫌という気分が充溢しているからです。それゆえに選べないわけですが、適切な処方箋を与えれば選べるようになる可能性があります。

しかし、朝子の場合はどうでしょうか。朝子は選択でき過ぎてしまう。そして、その選択は速すぎるのです。レストランで麦を選ぶときも一瞬だし、目が覚めて亮平のもとに戻ることを選択するのも一瞬です。おそらく、朝子はその時、そう思ったからという理由だけで動いています。そしてそれは、眠りによって容易にひっくり返る。眠りが意味するのは生理現象です。動物的な側面をきっかけにして、朝子の選択は容易にひっくり返る。それはまるで情動です。朝子の心は本当に空っぽなのかもしれません。

気分から情動へ。こう言ってしまえばありきたりに聞こえてしまうかもしれませんが、時代の精神に敏感な濱口監督がいち早くこの変化に反応したと見ることもできるでしょう。…おっと、どうやら営業終了時刻のようです。最後は駆け足になってしまいましたね。また機会を改めましょう。とりあえず、お大事に。

 

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