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歴史との距離感、世界との距離感 -新宿という暗号-

あれから50年たった。

1968年は世界史において象徴的な年である。世界各地で同時多発的に大きな運動がおこり、時代が新たな局面に突入した。もちろん日本社会も大きく揺れ動いた。原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争、東大闘争、三里塚闘争など、民衆が大きなエネルギーを発揮した時代だ。

2018年はそんな時代から50年という節目の年である。このことを記念して、千葉市美術館では特別展示が行われている。「1968年 激動の時代の芸術」と題されたこの展覧会は、1968年前後の芸術の状況に焦点を当てた展示を行っている。環境芸術、トリックス・アンド・ヴィジョン、アングラ演劇、劇画、サイケデリック、もの派、概念芸術など展示領域は多岐にわたる。発表された時期も1968年とは限らず、その前後に発表された同時代的な熱気を帯びた作品が並ぶ。1968は具体的な年を表すのではなく、同時代的な雰囲気を表すシンボルと化している。

1968のエネルギーは政治的・文化的制度の根本的な異議申し立てに向けらていた。それゆえ、1968というシンボルのもとにまとまる展示品は反体制的な色合いが強い。例えば美共闘による声明文。美共闘とは、日本に学生紛争が吹き荒れる中、多摩美術大学の学生によって結成された反体制集団である。彼らは美術館における権威や制度を痛烈に批判していた。にもかかわらず、美術館批判を展開したものが美術館に展示されるというのはなんとも皮肉である。

ここで1968の革新力が失われてしまったかどうかを検証する気はない。そもそも、ラディカルな試みが過去のものとなったとき、その影響力は相対化されて歴史の中に位置づけられる。これは歴史化に付随する必然である。1968が持ちえた力の衰退を嘆き、再び取り戻そうとすることはノスタルジー以外何物でもない。

過ぎ去った事柄は歴史化される。だとするならば、問題にされるべきなのは歴史化のなされ方、すなわち1968がどのような切り取り方をされているかということだ。そして、そこで組み立てられた歴史が現在にとってどのような意味を持つのかということである。こうしてようやく、ノスタルジーに陥らずに1968と現在を回路付けることができるだろう。

というわけで、ひとまずこの文章の目標を明らかにしておこう。これは芸術作品についての評論ではない。そうではなく、「1968年」と題されたこの展覧会の「1968性」とでもいうべき何か、を汲み出してみることを目標とする。つまり、この展覧会固有の問題意識を「1968性」に読み取ろうとしている。ここにこそ、この展覧会における歴史化の意識、現在との接続点が詰まっていると考えられるからである。したがって、次に考えるべきことは、この展覧会が1968の何に注目しているのかということである。ここで、この展覧会を相対化し、1968に対する固有の着眼点を明らかにするために、もう一つの1968展と比較してみよう。

実は1968年に注目した特別展示が千葉県で開催されるのは初めてではない。1年ほど前にも、佐倉市の国立歴史民俗博物館で「『1968年』 -無数の問いの噴出の時代-」という企画展示が行われている。もっとも、美術館と博物館という性質上の違いから、展示内容には小さくない差異がある。例えば、美術館での展示が美術史の観点から芸術作品への言及が多いのに対して、歴博での展示は公共的な社会問題(横浜新貨物線反対運動など)への言及が多い。

だが、両展示は重なる点も多い。美術館での前半の展示は「1968年の社会と文化」というテーマをもとに構成されているだけあって、歴博でも大きく取り上げられた学生闘争やべ平連、三里塚闘争や水俣病に関する展示にかなりのスペースを割いている。これらは1968から想起する典型的な出来事であり、「1968性」が凝縮されているともいえよう。だからこそ、美術館におけるこのスペースと歴博の展示における差異が重要になる。美術館にはあって歴博にないものこそが、1968に対する美術館固有の問題意識が現れていると考えられるからだ。

美術館にはあって歴博にないもの。それは新宿に対する執拗な言及である。そもそも千葉市美術館の展覧会は、東松照明による新宿騒乱の写真から始まる。新宿騒乱とは、1968年10月21日に新宿で起きた事件である。この日は国際反戦デーで、反戦運動をきっかけにして民衆が暴徒化し、機動隊と衝突した。美術館にはこの場面を撮影した東松ほか幾人かの写真が並ぶ。

新宿への言及は騒乱だけではない。木村恒久の「添加物」というモンタージュ写真では、新宿駅に米軍軍用機が突っ込んでいる様子が描かれる。また、渡辺克巳や福嶋菊次郎はジャズ喫茶「ビィレヂバンガード」やふうてん族など、当時の新宿に生きる人々の様子を撮影している。羽永光利が新宿西口地下広場のフォークゲリラを撮影したのもその一つだろう。あるいは、平田実は「クロハタらによる『故由比忠之進追悼国民儀』新宿西口広場」の様子を撮影しているし、羽永は「ゼロ次元の『全裸防毒面歩行儀式』新宿」の様子を撮影している。クロハタやゼロ次元は前衛的な美術集団である。

筆者が注目したいのは作者や作品の固有名ではなく、一つのフロアで新宿に対しての言及が執拗になされていることである。これはなぜか。もちろん、当時の新宿が若者の街であり、そこで文化的なトピックが起こりやすかったということが第一に考えられる。そのような熱気に包まれた場所に表現者が集いやすかったということもあろう。しかし、問題にしたいのは当時の新宿の状況ではない。ここで考えたいのは、なぜ、、新宿に(過剰に、そして固有に)言及しているのかということである。

このことを考慮するならば、新宿という場所が持つ意味性についてもう少し考えてみなければならないだろう。今でこそ新宿は日本最大級の都市であるが、過去に幾度も逆境に立たされてきた都市でもある。例えば、新宿は江戸時代に宿場町として建設されたが、幕府によって一度廃止に追い込まれていることもあるし、大正時代の新宿大火で650万戸が焼き尽くされたこともあった。大戦時には新宿一丁目の一部を残して、ほぼ全域が空襲によって焼け野原と化した。歴史上、新宿は何度も深刻な局面に追い込まれてきたのである。

しかし、そのたびに新宿は人々の手によって強く立ち上がってきた。大火のあとに新宿遊郭を建設し、吉原をもしのぐ大歓楽街へと成長する。戦災によって大きな被害を受けても、敗戦翌日から戦後東京で初の闇市が開かれた。そんなエネルギーにあふれる新宿が若者の街と化したのは昭和30年頃のことである。

つまり、新宿は幾度もの激動の中に生き、民衆のエネルギーによって強く立ってきた都市なのである。この新宿という場所の意味性を考えた場合、千葉市美術館の特別展示と相性が極めていいことは想像に難くない。特別展示のタイトルは「1968年 激動の時代の芸術」であった。新宿こそ、このタイトルにふさわしい「激動」を象徴する場所だったのだ。だからこそ、展示中にその意味性が多く引用されている。

もちろん、これは筆者の仮説にすぎない。しかし、この展示が「1968性」を「激動」へと求めているのは確かだと思われる。それは写真展示からもうかがえる。この展覧会では新宿の写真のみならず、多くの写真が展示されている。多くは社会の一面を切り取るために撮影された写真であるが、写真表現そのものに注目する展示スペースも存在する。

「プロヴォークの登場」と題された展示スペースでは、写真誌『プロヴォーク』で展開された新しい写真表現を大きく取り上げる。すなわち、「アレ・ブレ・ボケ」である。写真評論家の飯沢耕太郎は『プロヴォーク』の表現について次のように説明する。

 

「新しい言葉、つまりは新しい思想」を触発するイメージは、当然既成の写真の文法を使ってはとらえることができない。黒から白までの滑らかなグラデーション、シャープなピントという、近代写真を支えてきた制作の原理は捨てられ、闇の中からもがき出てきた世界の姿を荒々しくつかみとったような、パセティックなイメージが定着される。いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」の画像である。

『増補 戦後写真史ノート 写真は何を表現してきたか』 p112・113

 

これは時代に対応した表現方法である。『プロヴォーク』の創刊は1968年11月1日。あらゆる制度の信頼性が低下していた時代だ。目の前の現実の底が揺らぎ、断片化していく中で、激動の世界の様相を、とらえきれないリアリティを写真で何とか繋ぎとめるための表現方法である。この表現の総称を「アレ・ブレ・ボケ」と呼び、そのためだけの展示スペースが確保されている。この『プロヴォーク』だけに注目した展示が、この展覧会の方向性あるいは限界を露呈させている。どういうことか。

再び展覧会にあるもの/ないものという図式で考えてみよう。ただし、今度は千葉市美術館にはないが、同時代的に実際にあったものを考えてみる。それは「コンポラ写真」である。再び飯沢によれば、この写真表現の特徴は以下のようになる。

 

横位置で人物を画面の中心に置いたような「カメラの機能をもっとも単純素朴な形で使おうとする」構図が多用されること、特別に異常なできごとをとりあげるのではなく、「日常ありふれた何げない事象」に関心を寄せる場合が多い

同前 p121

 

この表現も時代に対応したものだ。目の前の現実が決して自明ではなくなった時代に、カメラを通じて現実を静かに組み立てていこうとする意識がある。「分断された世界と自分との裂け目を性急に埋めようと」した『プロヴォーク』と好対照をなすように、「コンポラ写真」は「もっと醒めたまなざしで世界と自分との距離を測ろうと」したのだ。つまり、1968年においては、世界との分裂をそのまま提示する『プロヴォーク』的な方向性と世界との距離感をじっくりと測っていく「コンポラ写真」的な方向性が存在した。

まとめよう。「1968年 激動の時代の芸術」には、新宿の写真をはじめとした「激動」の瞬間をとらえた写真が多数展示されている。「激動」の瞬間への注目は『プロヴォーク』の特集スペースを設けたことに象徴されている。そして、その分、同時代的な「コンポラ写真」は捨象された。

このことは展覧会の問題意識を露呈させている。まず、この展覧会が「1968性」を「激動」に求めているということである。時代の激しいうねりを鑑賞者に訴えかける。だからこそ、激動の時代にありながら静的な表現にとどまった「コンポラ写真」は切り捨てられた。そしてこのことは現在における問題を顕在化させる。すなわち、この展覧会自体が世界を断片としてしかとらえられていない。だからこそ、この展覧会のテーマは「激動」なのである。

このことは各芸術作品の展示方法からもうかがえる。パンフレットにもあるように、この展覧会は「この時代の芸術を輪切りにして展観する」ように展示してある。たしかにここから新たなものが見えてくるかもしれないが、裏を返せば何も見えないこともあるということだ。今、本当に必要なのは、激動の時代から半世紀たったからこそ、この時代をきちんと相対化し、現在との距離感を測る「コンポラ写真」的なアプローチではないのか。

「コンポラ写真」的な方向性は「1968年 激動の時代の芸術」の展覧会にはないのだろうか。たしかに、表層的に見たらないかもしれない。しかし、展示物に更なる意味性を読み込んでみるならば、その可能性はないこともない。ここで想起するべきなのが、新宿の意味性である。

新宿は「激動」の中を生きてきた。だからこそ、「1968性」を「激動」に求めるこの展覧会では執拗な言及がなされる。ただ、そこで切り取られているのは新宿の表層部分、すなわち新宿に生きた人々である。おそらく、新宿の可能性の中心はそこにはない。新宿の意味性を深堀するのならば、都市としての新宿に注目しなければならない。

新宿は江戸時代には宿場町、明治時代からはターミナル駅として、都心と郊外を繋ぐ結節点として機能してきた。新宿は、いわば、二つの世界を繋ぐ中間点としての役割を担ってきた。また、新宿という都市は常に足元を自らの手で組み立てて自生してきた。逆境に立たされた時に発揮する復興力の強さは先に述べた通りだ。なにより、新宿という宿場町は幕府が設置したのではなく、民間が自主的に設置したところから歴史が始まっている。要するに、新宿は二つの世界の中間点に自らを置き、自生してきた都市なのである。

はざまに位置しながら、自生的に足元を組み替えていくこと。新宿という都市が持つこの意味性は、「コンポラ写真」がめざした方向性そのものである。「コンポラ写真」は日常を切り取ることで、写真という自己と他者の中間点にとどまりながら、それによって世界との関係性を組み立てていこうとする。つまり、中間に位置しながら外と内の関係を築いていくのである。

この展覧会で本当に見るべきものは、世界の表層に生きる人々ではない。新宿に象徴される、人々が生きた環境である。「激動」の瞬間が執拗に新宿を引用しているのには、場所に対する意味性が込められている。だからこそ、後半の展示は環境芸術や物に注目するもの派の展示に切り替わるのである。そこでは人間を取り囲む環境への注目が促されている。こうして世界との距離感を再び捉えなおす必要性に気づかされる。

あれから50年たった。

だからこそ、醒めた目で歴史との、世界との距離感を測りなおすべきなのだ。

文字数:5552

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