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連載●準批評家の散歩道●第6回

 

今回、僕がみんなに紹介したい批評家は、2人いる。まず1人目。その名も、tofubeats(1990年~)。知ってるかな?これで「とーふびーつ」って読むんだ。不思議な名前だよね。別にこの名前に特別な意味はないらしい。自らをこう名付けた後に、豆腐を食べだして、後から豆腐を大好きになったとか。後からの正当化。まさに批評家である。

 

まあ、そんなことは置いといて、だ。tofubeatsは「繰り返しのミュージシャン」だ。「くりかえしのMUSIC」なんて曲も作ってるしね。この曲は同じフレーズを繰り返しながら進む。曲が進行するごとに新しい音が重ねられたり、消えたりする。そして、曲が終わるころには同じだったはずのフレーズが微妙に変化していることに気づく。

 

「WHAT YOU GOT」という曲も繰り返しが強調された曲だ。これはMVがあるから見てみるとよいよ。

6分15秒の間、外国人が3パターンのダンスを繰り返し踊り続ける。少し踊っては巻き戻され、また少し踊って、という形で断片的にダンスが進行していく。なんだこれ、って思うけど、妙にクセになる。クセになってずーっと見てると、曲が進行していくうちに断片の間の動きが埋められて、気づいたらダンスの全体像が見えている気になる。巻き戻しと短時間の再生映像しか見てないし、実際には連続した動きを捉えられていないのに。

 

繰り返しを引き起こすのに、巻き戻しっていう考えは重要だ。巻き戻して再生すれば、繰り返すからね。「ふめつのこころ」では露骨に巻き戻しが出てくる。

「何度だって繰り返しして」とか「進んだように見えて巻き戻し」とか歌詞にも出てきてる。MVでは、歌詞に合わせて実際に巻き戻しされる。だけど、巻き戻した後の世界は進んでたりもするんだよね。それはMV中の絵が変わっていることからもわかる。「WHAT YOU GOT」の時もそうだったけど、MVによって僕たちの時間意識を脱臼させられている感覚を覚える。

 

たんなる繰り返しでもなく、たんなる巻き戻しでもない。いわば、MVを用いた詐術。音楽という時間芸術の基礎的条件である時間の連続性を、MVの視聴体験を通じて脱臼する。僕はここにtofubeatsの批評的センスを見たいわけだ。

 

さっきからMVと一緒に楽曲の話をしているように、僕はtofubeatsの作品を楽曲とMVとでひとまとまりだと考えている。もちろん、楽曲だけでも作品としては成立する。しかし、tofubeatsの作品は異なるメディアと掛け合わされることによって、抜群に批評的センスが高まるのだ。ということは、別にMVに限定されなくてもいい。楽曲を通じて、異なるレイヤーが掛け合わされていれば、そこに批評的視座が生まれる余地があるのだから。

 

じゃあ、MVがない楽曲ではどうなのか。もう一度「くりかえしのMUSIC」の話をしようか。この曲にMVはない。さっきも言った通り、この曲はミニマルミュージックっぽい。この曲は同じフレーズを反復しながらも、微妙に差異化していく。だからといって、音の差異化によって単なる繰り返しを免れている、と言いたいわけではないんだな。

 

僕が注目したいのは、この曲の声。この曲の歌詞は繰り返されるフレーズに合わせるようにして歌われる。しかし、後半になると声が段々とフレーズをはみ出すようになる。例えば、2回目のサビの終わりには、フレーズを完全にはみ出して語の終わりがのばされる。最後のサビでは語の終わりが大きくはみ出て、音程も変化する。

 

つまり、声は作られた形式の繰り返しから脱線している。声の脱線。リズムを作る音とはレイヤーの異なる声が侵入してくることによって、ここでもやはり、連続性が脱臼される。僕がここでレイヤーが異なると言っているのは、コントロール可能か、不可能かという意味においてだよ。同じフレーズを奏でる音はパソコン上でコントロール可能だ。しかし、声は根源的な部分ではコントロール不可能なんだ。

 

だって、そうでしょう。歌い方や声の出し方はその時の気分やノリによって変わるんだからさ。いくら、パソコン上で声を加工できると言っても、その発信源をコントロールすることはできない。ましてや、この歌はtofubeats自身ではなく、岸田繋という他者に歌わせているのだからなおさらよ。

 

言いたいことをまとめようか。まず、tofubeatsは「繰り返しのミュージシシャン」である。しかし、彼の作品は単なる繰り返しや巻き戻しではない。時間の連続性を脱臼させながら、繰り返しの音楽を奏でる。これがtofubeatsの楽曲が持つ批評性である。

 

さて、僕は冒頭で皆に紹介したい批評家が2人いると言ったんだったね。だけど、これは訂正しよう。正しくは3人だ。僕が今から紹介するのは、ジャルジャルというお笑いコンビなのだから。

 

ジャルジャルは後藤淳平(1984年~)と福徳秀介(1983年~)からなるお笑いコンビ。結成は2003年。漫才日本一を決めるM-1グランプリやコント日本一を決めるキング・オブ・コントの決勝に何度も進出している実力派。独特なお笑いセンスを持っていて、なかなか批評的なネタを作る。

 

例えば、M-1グランプリ2015決勝で見せたネタとか。このネタは2人で交互に小さなボケの応酬をしていくというものなんだけど、そのボケが本当に小さなものなんだよね。変なイントネーションとか、文語的表現とか、些細な言い間違えとか。小さな違和感だから最初は聞き流すのだけど、段々我慢できなくなってきてツッコむ。けど、そのツッコミにも小さな違和感を抱かせるものがあって、それにも少しの時間差を作ってツッコむ。そして、そのツッコミにも違和感が…、という具合に小さな差異を反復していく。次のボケまでの間隔はだいたい7~9秒であり、テンポよくネタは進行していく。

 

でも、このような小さなボケの反復を積み重ねていく形式はナイツやハライチなど、他のお笑いコンビにもみられるじゃないか、とお笑い好きな人なら言いそうだね。まあ、そう、焦りなさんな。ジャルジャルがこれらのコンビと一線を画すのは、ネタ以外のところにあるんだよ。特に、2015年のM-1グランプリ決勝で見せたジャルジャルの戦略が、興味深い現実を抉り出してしまったんだ。

 

M-1グランプリ決勝というのは2回ネタ見せがあってね、1本目の評価が高い上位3組だけが2本目のネタをやることができるんだけど、ジャルジャルは1本目のネタで最も高く評価された。あ、ジャルジャル、優勝するかもと思ったね。だけど、2本目は観客の反応もいまいちだったし、審査員からも最も評価されなかった。なんでだろうか。

 

普通、2本目のネタは、1本目とは別のストーリーを持つネタを披露するのがお決まりだ。1本目とは違う時間経験を観客に届けることで、新しい笑いが生まれる。しかし、ジャルジャルの2本目のネタは、1本目のネタの「繰り返し」だった。もちろん、全く同じ内容のネタを披露したのではない。小ボケの内容は変えてきたけど、大枠は同じ。同じ形式のネタを披露した、という意味での「繰り返し」。要は、ほとんど同じペースとパターンで、小ボケを反復する漫才を披露したというわけ。すなわち、観客に1本目と同一の時間経験をさせた。新しいボケで書き換え、微妙に変化させて、繰り返すことによって。

 

おそらく、この「繰り返し」は意図的だ。これ以外にネタを思いつかなかった、なんてことはないと思う。ジャルジャルはライブごとに大量のネタを作っており、数百単位のネタを持っている。そんな彼らが2つしかネタを用意できなかったとは考えにくい。とするならば、観客を意識したうえで、あえての選択だったと考えた方がよい。

 

そもそも、ジャルジャルはネタ中にも観客を意識したボケを入れてきてる。観客のリテラシーを利用したボケを。例えば、「ネタ中にちょこちょこ『もうええわ』と言う」という小ボケ。後藤が「もうええわ」と言うと、福徳がビクッとした後、後藤がそのまま話し続けて、笑いが起きる。「もうええわ」が漫才の締めの言葉だという観客の共通認識を利用して、漫才が終わるかと思ったら終わらない、という滑稽さで笑いを取る。他にも、観客を意識したものとしては、いきなり観客に呼び掛けてみたりもしてる。特に、ことわざを使ったボケは見事に観客をネタ中に取り込んでいるのだけど、これはもう、秀逸だからぜひみんなの目で確かめてみて。本当に面白いから。

 

まあ、とにかくだ。ジャルジャルは観客を折り込み済みでネタを披露している。この観客という、ネタとは異なるレイヤーをかけ合わせることで、ジャルジャルのネタの面白さが増すとも言える。それは笑いの量に如実に表れる。1本のネタを通して小ボケを反復していくという形式で、大きな転換はないのだけど、後半にかけて笑いの量が明らかに増す。これは観客がネタの中に徐々に取り込まれていくからだ。

 

しかし、ネタ中に観客を折り込むというのは賭けでもある。だって、観客は不確定要素なんだもの。観客がどこで笑うのか、どのタイミングでノってきてくれるのか、完璧には把握できない。コントロール不可能なレイヤーをあえて取り込んで、その反応に期待するという賭け。それは小ボケの単なる繰り返しでは限界があるとわかったうえで臨んだものだ。その賭けが2本目のネタでは失敗した。1本目のネタの単なる「繰り返し」になってしまったから。

 

ちなみに、ジャルジャルは2017年にもM-1グランプリ決勝に進出している。ここでもジャルジャルは1つのゲームをネタとして繰り返す漫才を披露した。2人の漫才を見てダウンタウンの松本人志は、「(審査員やお客さんを)感心させてしま」うネタだと評している。つまり、ジャルジャルのネタはそれほど観客を取り込んでしまうし、それを意識して彼らはネタを作っているというわけ。

 

ここらでまとめておこうかしら。まず、ジャルジャルは「繰り返しのお笑いコンビ」である。コントロール不可能な観客というレイヤーをネタに取り込んだ。小ボケの反復という単調なリズムをずらすために。一度目は成功したが、二度目は成功しなかった。なぜなら、観客の時間経験を脱臼することができなかったからだ。その結果、観客はネタの連続性を感じ、同じ時間経験を繰り返すことになった。

 

さあ、ここまで読み進めてきた読者にはもうわかると思うけれど、僕はtofubeatsとジャルジャルを同一平面上で考えている。両者に共通する問題系は「繰り返し」。全く違う分野で活躍する2人だけど、実は繋がっている。

 

tofubeatsが「繰り返しのMUSIC」を収録した2ndアルバム『POSITIVE』をリリースしたのが2015年。一方、ジャルジャルが小ボケの繰り返し漫才を披露したのが2015年のM-1グランプリ決勝。tofubeatsが「WHAT YOU GOT」を収録した3rdアルバム『FANTASY CLUB』をリリースしたのが2017年であり、ジャルジャルがM-1グランプリ決勝で再び漫才を披露したのも2017年。これは単なる偶然かもしれないが、両者の活躍はリンクしている。また、2017年のジャルジャルのネタを見て、松本人志が「あれ以上行ききっちゃったらもう曲になっちゃう」と評したことも示唆的だ。両者の表現は近づきつつある。

 

tofubeatsとジャルジャル。両者は「繰り返し」の問題系を追求している。tofubeatsは同じフレーズの繰り返しや巻き戻しを多用するし、ジャルジャルも1つのパターンを繰り返すネタに執着している。だけど、なぜ両者は繰り返すのか。それは彼らの現実感、というより僕たちの現実感に起因するのではないか。よく言われるのは、終わりなき日常とかいうものだけど、要は僕たちの日常、現実は「繰り返し」だということ。だから、ジャルジャルが2015年のM-1グランプリの2本目のネタでえぐりだした観客の反応は、すこぶる重要だろう。

 

あの時の観客が示した反応は、繰り返しが退屈だということを物語っている。変わりのない時間経験は人々の笑いを誘わない。ネタの内容を差異化してみたところで、同じ時間経験を通過するなら、その差異化は虚しいだけ。結局、その差異化も終わりがないのだもの。ジャルジャルは「もうええわ」を連発する。しかし、漫才はそこで終わらない。今までの流れがいったんリセットされて、再び小ボケの反復が始まる。終わらない差異化が始まる。ジャルジャルは僕たちが生きる時間性を漫才の中でうまく表現した。

 

そこでtofubeatsは、平坦な時間性、終わりなき日常に対するアンチテーゼをはっきりと歌い上げる。アルバム『FANTASY CLUB』の一曲目「CHANT #1」には「美しいけど終わりがあるストーリー」や「移り変わる世の中はストーリー」という歌詞がつけられている。終わりがあって、移り変わる世界。しかし、これを単純に解釈することはできない。なぜなら、tofubeatsの作品から読み取れる時間性は、連続性を脱臼されたものだったのだから。つまり、単純に移り変わりはしない。終わりなき日常からは簡単には逃げられない。

 

そう、tofubeatsがややこしいやり方で時間を動かしていくのは、この時代に対応したやり方なんだ。どういうことかって。よし、補助線を引こう。このtofubeatsの戦略は、tofubeats以前のニッポンの音楽の在り方、すなわちJポップの歴史を踏まえることによって把握できる。

 

佐々木敦によると、Jポップは空間的な「外」や時間的な「外」への視線を内面化することで、その可能性を切り拓いてきた。海外の音楽とか、過去のレコードとかそういったものに影響されながら独自に発展してきた。しかし、時代が進むごとに、そういった「外」は失われていってしまった。グローバル化によって世界が均質化された結果、空間的な「外」が失われた。技術の発展によりデータベース化が進んだ結果、時間的な「外」も失われた。こうして世界は「外」のない、変わりのない世界となった。これが僕たちの生きる時代だ。

 

じゃあ、tofubeatsはどうしたか。異なるレイヤーをかけ合わせて、「外」を作り出そうとした。空間的な「外」でもなく、時間的な「外」でもなく、メディア的に「外」へ。そうした「外」は徹底的に「内」に向かいつつも、それを脱臼させることで初めて見えてくるんだ。一旦、繰り返される・巻き戻される楽曲(変わりのない時間経験)を作っておきながら、MVや声というメディアと掛け合わされることで、僕たちの時間経験は脱臼される。だから、tofubeatsは繰り返す。「繰り返しのミュージシシャン」だってわけ。

 

3rdアルバム『FANTASY CLUB』は想像力で聴いてほしかったとtofubeatsは語る。想像力、それは僕らの「内」にありながらも「外」を切り拓くものである。tofubeatsは想像力というレイヤーを起動させて、僕らを外部に導こうとしているらしい。いや、内部に外部を折り込ませようとしているというべきか。

 

そして、tofubeatsからの次のメッセージは「走れ!」。

4thアルバム『RUN』はもうじき発売される。

しかし、どこに向かって走れというのか。「外」?「内」?

いずれにしろ、tofubeatsのことだ、一直線に走るわけがない。

ついていけるか、心配だなあ。

 

[ 次回は『銀魂』とドラマ『高嶺の花』を紹介します! (嘘です。) ]

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