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『逃げ恥』論

 

1.序文

平成最後の夏―この特別な夏を精一杯楽しもうと、僕の周りの若者たちは大いに浮足立っています。平成最後の海、平成最後の花火、平成最後の祭り…。1つ1つのイベントが特別な意味を帯びるようになるのです。

翻って、僕は部屋にこもってキーボードを叩いています。なぜ僕は平成最後の夏を楽しまないのか。いや、違うのです。平成最後の夏だからこそ、部屋にこもってこの文章を書いているのです。平成という時代が終わるからこそ、平成年間を描き出してみること。それが僕の狙いです。

僕は今から、平成年間、すなわち1989年からの30年間がどのような時代であったか描き出そうとしています。ただし、ここで注意しておかなければならないことがあるでしょう。

まず、自らが生きた時代を語るということは、自分語りをするのではないということです。これはある特定の時代を語るときに陥りやすい罠です。自分が見た「平成」を語ったとしても、それは自分語りの域を出ません。ここで試みたいのは、平成年間を一般性を持たせたまま語るという営みです。まして、僕はまだ10代です。平成を3分の2しか生きていません。したがって、自分語りで平成年間を描き出すことは不可能です。僕が生きてない時代も平成に含まれるのだから。要するに、自分語りをなるべく排した形で平成を描き出さねばなりません。

そして、問題はこれだけではありません。平成固有の問題が残っています。通俗的な言葉を使えば、平成はポストモダン化が徹底された時代です。昭和天皇の崩御、冷戦の終結、ソ連の解体など、それまで人々を結びつけていた「大きな物語」が失われた時代です。このような歴史的文脈を踏まえるならば、「平成とは然々の時代である」と一義的に語ることは困難だということになるでしょう。なぜなら、ポストモダン社会においては、人々を1つの物語でまとめることが不可能だからです。

以上の2点を踏まえて、僕は2つの戦略を取りたいと思います。1つ目の戦略は、社会に広く知られた作品を通じて平成年間を語ることです。こうすることで、一般性を保持したまま、平成について語れるようになります。

2つ目の戦略は、平成をいくつかに区切るというものです。90年代、ゼロ年代、テン年代という具合に。こうすることによって、平成がグラデーションをもって描き出され、一義的にくくられるのを防ぐことができます。詳しくは本論のなかで言及しながら進めていきます。それでは始めましょう。

 

2.なぜ『逃げ恥』なのか

平成を描き出すにあたって、僕が取り上げたい作品は2016年に放送されたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(以下、『逃げ恥』)です。このドラマは、先に挙げた2つの戦略を実行するのにぴったりの作品です。

まず、その爆発的な人気。『逃げ恥』は「むずキュン」や「恋ダンス」などで注目を集め、最終回の総合視聴率は33%という驚異的な数字をたたき出しました。これだけ社会で受け入れられるということは、多くの人々の欲望を喚起するものが詰まっていたと考えられます。この予想を受けて、『逃げ恥』を通して平成に生きる人々を一般的に描き出してみようと思うのです。

そして、より重要なのは『逃げ恥』がある種、群像劇的な形式を採用しているということです。物語は様々な登場人物の視点に切り替わりながら展開されます。しかも、各登場人物の年齢はバラバラ。ここがすこぶる重要です。年齢に差があることで、それぞれの青春期に培った異なる感性が同一平面上に提示されます。

例えば、1980年生まれの津崎平匡は90年代の感性を、1984年生まれの風見涼太は90年代末とゼロ年代前半の感性を、1990年生まれの森山みくりはゼロ年代後半ひいてはテン年代の感性をそれぞれ引き継いでいます。こうした異なる感性を持った登場人物たちの行動原理を読み取ることで、緩やかなまとまりを持った「平成」を描き出すことができます。

『逃げ恥』はその作品の中に様々な感性を抱いています。だからこそ、多くの人々から注目を集め、大きな支持を得たのかもしれません。では、それぞれが体現する平成の感性とはどのようなものなのか。前置きはここまでとして、次節からその内容について詳しく述べていきましょう。

 

3.引きこもれない時代の「引きこもり」

ここで簡単に『逃げ恥』のあらすじを確認しておきましょう。舞台は2016年。大学院で心理学を学びながらも就活に失敗したみくりは、派遣社員をクビになった後、家事代行サービスとして働き始める。その職場が平匡の家です。2人は利害の一致から契約結婚をして、雇用関係を保ちながらも事実的には夫婦という奇妙な関係性を築く。そして、物語が進む中で2人は実際に恋に落ちます。その後は、奇妙な関係の中でどのようにして心を通わせ合うかが描かれていく。

これが『逃げ恥』のメインストーリーです。ただ、僕が注目したいのは物語展開ではなく、各登場人物です。前節でも述べた通り、各登場人物が平成のある局面を切り取ってくれているからです。

例えば、一言で言うと、平匡は「引きこもり」です。しかし、部屋から一歩も出ずに社会との関わりをすべて切断する、というような引きこもりではありません。現に、平匡は有能なシステムエンジニアとして会社で働いています。新自由主義のもと格差が広がり続ける小泉構造改革以後の社会では、社会に出ないと生き残っていけません。じゃあ、なぜ平匡が「引きこもり」だと言えるのか。

それは、平匡が他者とのコミュニケーションを最小限に留めているからです。職場でも、みくりとの家庭生活においてもコミュニケーションは必要以上になされません。平匡は他者に対して心の壁を築きます。他者と関わることによって自分が傷つくかもしれない。あるいは、知らないうちに誰かを傷つけてしまうかもしれない。平匡は言います。「いっそ、手離してしまえばいい。そうやってずっと平穏に生きてきたのだから。」社会生活を送りながらも、他者との関りを手離して、変わりのない日常を守る。実際に平匡はみくりとの関係がうまくいかないと、自分の部屋に引きこもります。

平匡が90年代の感性を引き継いでいることは先に述べました。宇野常寛によると、90年代は社会的自己実現への信頼が低下した時代です。「頑張っても意味がない」という感覚にとらわれた人々は引きこもります。そんな世の中に抵抗する人々がオウム真理教のもとテロを起こしました。対して、同時期に、オウムに代わる生き方を提唱したのが宮台真司です。宮台は生きる意味を求めない「終わりなき日常」を生きるように呼び掛けました。

平匡が守りたいのは平穏な「終わりなき日常」です。そのために他者とのコミュニケーションはなるべく避けて、社会的に引きこもります。これが引きこもれない時代における、「引きこもり」です。平匡は90年代の感性を2016年の社会に適応させながら引き継いでいるのです。

 

4.ゼロ年代の2面性

『逃げ恥』の登場人物は平成のある時期の感性を引き継いでいる。とするならば、平匡の後続世代の感性を引き継いだのは誰なのか。それは、平匡の同僚である風見涼太でしょう。風見は90年代末の感性とゼロ年代前半の感性を引き継いでいます。

90年代末は社会が心理学化した時期です。地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇聖斗事件などの凶悪犯罪の原因が個人の「心の闇」に求められました。この問題を解決するのに、個人の心を説明する心理学がもてはやされ、社会の心理学化が進みました。つまり、個人の心が操作可能なものとされたのです。

この考えは風見の中にもうかがえます。風見は女性に対してどのように振舞えば好印象を抱かせることができるのか熟知している、モテキャラとして描かれます。恋愛を操作可能なゲームと捉え、「相手に消費されるくらいなら、消費してやる」というサバイバル感覚をもって社会を生きている。この社会を生き抜く上でのサヴァイヴ感はゼロ年代前半に強く表れた「決断主義」の流れを汲んでいるとも言えるでしょう。

決断主義は、宇野常寛によって、90年代の感性に対するアンチテーゼとして提示されました。90年代の引きこもり・心理学化の風潮をまとめれば、状態への思考が強まった時期と言えます。ポストモダン社会において、人生の意味を社会が教えてくれることはない。すると、「社会で何をしたか」という行為よりも、「自分はどのようなものであるのか」という状態がアイデンティティのよりどころとなっていく。その結果、内面に引きこもり、自分の心の状態を説明する心理学がもてはやされたというわけです。

しかし、小泉構造改革以後は引きこもっていては生き延びることができない。そこで支配的な考えとなったのが決断主義です。人生に意味などないことを自明として、あえて1つの小さな物語を選び取る。ポストモダン社会に生きる、このような個人の生き方を提示するのが決断主義です。選択した物語に絶対的な根拠はない。だから、自らの正統性を根拠づけるために、他の物語と競って排斥しようとするのです。決断主義にはこのようなサヴァイヴ感が伴います。

状態から行為へ。宇野が描いた、この転換はある部分では正しいように思います。しかし、この文脈だけでは2016年、すなわちテン年代を生きる風見を説明しつくすことはできません。平匡が90年代の感性をテン年代に適応させて生きているように、風見もゼロ年代の感性のその後を背負って生きています。では、2016年の風見が抱えるものとは何か。

風見の変化は物語の後半に訪れます。自分について考えるようになるのです。例えば、「自分がわからない、僕はいったい何を求めているんでしょうか」という風に。そう、風見はテン年代において再び状態への思考へ回帰しているのです。なぜこのようなことが起きているのでしょうか。この問いに答えるには、ゼロ年代のもう一つの側面を知らなければなりません。

ゼロ年代のもう一つの側面、それは「キャラ化」です。引きこもれなくなった個人は、自分で選択した小さな社会の中で人生を意味づけようとします。自分の存在を具体的な他者の中で確定させようとします。このとき、「キャラ化」が起きてくるのです。コミュニケーションを通じて、小さな社会の中での自分の役割を知る。その与えられた役割がキャラです。他者とのコミュニケーションの中に自分を見出していくのです。

こうしてコミュニケーションの地位が高まります。個人の評価がコミュニケーションスキルの有無に一元化される。つまり、個人の資質が記述可能なものとされるわけです。この考えは個人の心を記述しようとする、社会の心理学化の流れの中にあります。こうした状況を受けて、斎藤環は「コミュニケーション偏重主義」と表現しました。

もちろん、風見もキャラ化の洗礼を受けている。それは学生時代のエピソードとしてドラマ中に挿入されます。このエピソードのオチだけ言ってしまえば、風見はキャラを理由に彼女に振られます。コミュニケーション能力が高いモテキャラの風見に対して、地味で大人しめの非モテキャラの彼女は、キャラの落差に悩んで風見を振るのです。

このエピソードが示すのはキャラ化の痛みです。キャラ化は特定の役割を選択するという点で決断主義と同じように見えるかもしれません。しかし、キャラの選択と決断主義的な選択は決定的に違う。決断主義が信じたい物語を自分の手で選択できるのに対して、キャラは自ら選ぶことができない。キャラは個人の固有性に関わらず、コミュニケーションを通じて勝手に担わされてしまうからです。だからこそ、意図しない結果を招くことになる。風見は本人の自覚に関わらず、モテキャラであったがために、意図せずして振られてしまったのです。コミュニケーションを重宝するあまり、ディスコミュニケーションが起きてしまうのです。

キャラ化の苦痛、それは自らの固有性を否定して演技を続けなければならないことにあります。こうしたキャラを演じる空虚さが、風見を状態への思考に導きます。「本当の自分」への承認を渇望しているのです。キャラではなく、内面を見てほしいという思いがある。この欲望は、みくりの心理分析に対する風見の態度にも見られます。みくりは心理学の知識を用いて、他者を分析する癖があります。風見はこの分析を喜んで受け入れる。おそらくそれは、他者が自分の知りたい内面を提示してくれるからでしょう。

少し話が長くなりました。まとめると、風見は90年代末からゼロ年代前半の転換期の感性を色濃く背負っています。なかでも、ゼロ年代の2面性、すなわち決断主義とキャラ化を強く引き継いでいる。物語の最初では決断主義的側面が描かれ、後半ではキャラ化への葛藤が見られる。そうして、行為の時代であるゼロ年代が切り捨てたはずの状態への思考が回帰してきている。つまり、風見はゼロ年代のエッセンスとその限界を引き継いでいると言えるのです。

 

5.見ないふりができない

それでは、さらに次の世代の感性を引き継いだみくりは、どのようなことを示すのでしょうか。

ゼロ年代が切り捨てたはずの状態への思考が帰ってくる様子は、みくりにおいても見られます。みくりはポスト決断主義と言えるゼロ年代のポジティブな可能性を体現しながらも、最後には状態の思考へ帰ってきてしまいます。

みくりは心を閉ざす平匡に対して、ひたすらコミュニケーションを取ろうとします。とにかく行為で関係性を築いていこうとするのです。こうしてみくりは家事代行サービスという入れ替え可能な存在から、平匡にとって入れ替え不可能なかけがえのない存在になっていきます。それは入れ替え可能な雇用関係が崩れていくことを意味します。この過程を経て、最終的に2人が築き上げた関係は「共同経営」というものです。それはみくりが平匡とのコミュニケーションや行為で築き上げた関係です。

しかし、結局みくりはこの関係を投げ出してしまう。なぜか。それは、この関係がキャラによって築かれたものであることに引け目を感じたからです。今まで平匡と積極的にコミュニケーションをとってきたみくりは、あくまでも演じられたものに過ぎない。「本当の自分」はこざかしく、平匡に愛されるべき人になりえないのではないか。キャラと本当の自分との間の落差、すなわち状態への思考に悩まされたみくりは、行為によって築き上げた関係を放棄してしまうのです。

では、なぜこのタイミングでみくりは状態への思考に回帰したのでしょうか。その答えは簡単です。みくりはこのタイミングになって初めて、キャラと「本当の自分」に引き裂かれたからです。逆に言えば、この時までその落差について考える必要はなかった。

みくりは最終回に至る前までにも、キャラを破って「本当の自分」が垣間見えてしまうことを否定的に感じていました。「どんなに取り繕っても、すぐにこざかしい本性が出てきてしまう」と自己嫌悪を述べています。ただ、雇用関係が成立しているうちは、本性を抑圧してキャラを演じることができました。本当の自分を見ないふりをして、仕事として割り切ってキャラを演じることができた。しかし、愛し合い、今までの関係が崩れるとそうはいきません。たちまち本当の自分が出てきてしまう。もはや見ないふりはできない。

今まで機能していたものが崩れて余裕がなくなると、本性が現れる。見ないふりをしていたものが、できなくなってしまう。この構図はテン年代の日本でも見られました。そのきっかけとなったのが3.11です。例えば、原発問題。見ないふりをしていた原発の危険性が3.11によって露わになりました。他にも、抑圧されていた鬱屈が震災のパニックを引き金にして、ヘイトスピーチやレイシズムとしてあふれ出しました。

そう、みくりはゼロ年代が引き起こす葛藤だけでなく、テン年代への流れも引き継いでいるのです。入れ替え不可能な関係性は、対立を生み出す決断主義を乗り越えるものです。しかし、その関係性がキャラによって築かれたものであるのなら、偽りの関係性に過ぎない。そこに生じる葛藤は、雇用関係が崩れていくほど切実に迫ってくる。見ないふりをしていたものが露わになっていく様子が、ドラマの終盤に描かれます。みくりはゼロ年代後半からテン年代にかけての感性を引き継いでいるのです。

 

6.90年代とゼロ年代の「結婚」

さて、ここまで『逃げ恥』の登場人物を通じて、平成年間の特定の時期を年代順にみてきました。この区切られたセクションを、緩やかにまとめ上げると、どのような「平成」が見えてくるでしょうか。

まず、セクションを緩やかに縦に繋げてみるならば、人間は状態への思考から逃れられない、ということが言えるでしょう。平成は状態への思考から始まり、行為の思考によって乗り越えたかのように見せて、再び状態への思考に回帰する。そんな時代として1つの物語を描けるのではないでしょうか。

また、緩やかに横に繋げてみるならば、このドラマが平匡とみくりの結婚をメインストーリーに据えているということが重要だと思います。『逃げ恥』は90年代的な感性とゼロ年代的な感性が、同じ場を水平的に共有する「結婚」の話なのです。これはある種のメタファーでしょう。先の縦の連関に即して言うならば、90年代的なものとゼロ年代的なものは対立するのではない、1つのものとして立ち現れるのだ、ということを意味しているのだと思います。

では、その「結婚」が示した結末はどのようなものだったのでしょうか。ドラマの最終回、「本当の自分」とキャラとの引き裂かれに苦しんだみくりは浴室に引きこもります。そのみくりに対して、平匡はドアを挟んで次のように言います。

生きていくのって、面倒くさいんです

それは1人でも、2人でも同じで、それぞれ別の面倒くささがあって、

どちらにしても面倒くさいなら一緒にいるのも手じゃないでしょうか

話し合ったり、無理な時は時間を置いたり、

だましだましでもなんとかやっていけないでしょうか

ここで平匡は人生に特別な意味づけなどしていません。人生を面倒くさいものだと捉え、そこに特別な価値を見出してはいない。代わりに、平匡が提案するのは「だましだましでやっていくこと」です。

人生に意味などない。しかし、死ぬこともできない。だから、生きるための無根拠な正当化をしなければなりません。それが「だましだましでやっていくこと」でしょう。そのために、対話を試みたり、時間をおいて環境を変えてみる。相手より優位に立とうとする決断主義的な正当化ではない形で、無根拠に正当化するということ。話し合いや環境を変える行為は、状態を無根拠に正当化するために必要なのです。

行為は状態に還元される。これが「結婚」の意味するものではないでしょうか。いくら行為によって関係を築いたとしても、そこにはキャラとしての葛藤、すなわち状態への思考がまとわりついてくる。いや、そもそもキャラ化の進んだ社会において、行為と状態は相補的関係にあると言えるでしょう。キャラとしての振る舞いが行為であり、コミュニケーションによってキャラが成立するのだから。状態と行為は二項対立的に考えられるべきではなかったのです。状態と行為は「結婚」という1つの関係性の中にある。

『逃げ恥』は平成年間に起きた対立や葛藤を融和させながら描いています。様々な登場人物の感性を緩やかにまとめ上げ、平成に生きる「私たち」を描いたこのドラマは2016年に現れました。テン年代後半という時期に、群像劇という形で現れたこのドラマは、平成を象徴づける作品と言えるでしょう。

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