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スタイリストはシマウマを目指す

 

翻訳は衣装である。

 

またおかしなことを言いだしたと思われるかもしれない。ただ、これは僕だけの考えではない。

 

(翻訳における忠実さの重要性を説いたうえで)精神に対する忠実であって、こう言ってよければ、精神が身に纏っている衣装に対する忠実である。(1)

――ヴィルヘルム・フォン・フンボルト

翻訳の言語はその内実を広い襞のある王侯のマントのように包み込む。(2)

――ヴァルター・ベンヤミン

 

翻訳者でもあり思想家でもあった二人は衣装を用いて翻訳を論じている。二人に倣って翻訳衣装説を掲げてみたとはいえ、一つツッコミを入れなければならないのは確かである。もし翻訳が衣装だとするのならば、僕たちは身体である原作に触れることはできないのだろうか。換言すれば、翻訳を読むことはその元となる原作を読んだことにはならないのか。

 

一般的な読者は翻訳を通じてしか原作に触れることができない。翻訳作品は原作が先に存在して成立するものだが、読者は翻訳でしか原作を理解できない。したがって、翻訳作品を読むという行為は構造的に時間の転倒を含んでいる。原作の読解は後続する翻訳の読解の影響を被ることになるからだ。時代とともに変化する言語の性格を考えれば、時代が離れるほど原作は翻訳の影響を強く受けることになる。このようなオリジナルの作品が未来の読みの影響を受ける現象を原作における「先取りの剽窃」と呼ぼう。

 

とするならば、僕たちは衣装を撫でるだけにとどまり、身体に手は届いてないのか。にもかかわらず、僕たちは翻訳を読んだことにより原作を読んだと思っているのか。いわば、翻訳者に騙されているのか。翻訳は原作の物語を「騙り」直すことなのか。「服っていうのはさまざまに変装して人を「騙す」ものでもある(3)」。

 

僕たちは翻訳者に騙されている。こう結論付けるのは早計である。衣装は身体に対して完全な外部であるとは限らない。例えばかつらを考えてみよう。かつらは髪の毛からできているため無機的でもなく、身体の完全な外部とは言えない。また同時に、かつらの髪質や髪型が自らと完全に一致するとは限らないという点で、完全に有機的で体の内部から成るものとも言えない。つまり、かつらは非有機的な関係を身体と結ぶ。かつらという衣装を巡っては、有機的身体と無機的衣装という対立は解消される。すなわち、翻訳をかつらとするなら、翻訳は原作と対立するものではなくなる。「身体と装飾具のあいだに見いだされるのは隣接の関係に他ならない。(4)」

 

翻訳を読むことは原作から離れることではなく、原作と隣り合う位置を占めることである。もう少しで身体に手が届きそう。では、衣装をさらに拡大して、動物の模様と考えてみたらどうだろうか。シマウマの群れを想像しよう。群れを眺めてみて目に付くのは、それぞれのシマウマの個体というよりも、その模様である。群れの中のシマウマははっきりとした個体性を失い、身体は模様へと抽象化されていく。「装いは身体を形容するのでも、実体化するのでもない。身体を不定化するのである。(4)」

 

衣装は身体を抽象化する。シマウマの群れを模様として認識することは、シマウマと世界の連続性を確認することになるだろう。シマウマは脱身体化・脱個体化され、模様として世界と溶け合っている。これを翻訳に当てはめて言い直せば、翻訳は翻訳言語を通じて原作と連続性を持ったものとして現れる。翻訳と原作は混ぜ合わされている。つまり、翻訳者は原作をしっかりと「語り」なおしてくれている。

 

翻訳をかつら、そしてシマウマの模様と考えると、原作が翻訳言語の一語一語の中に折り込まれていることになる。翻訳は自らの世界に原作を巻き込むことで原作を語りなおす。もっとも、原作を自らの影響下に置いてしまうからこそ、原作が「先取りの剽窃」を被るのも確かである。

 

しかし、それはオリジナル(原作)の価値が無くなるのを意味しない。使い古されたベンヤミンの言葉を使えば、アウラの消滅を意味しない。アウラとは「どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象(5)」である。翻訳を通じて原作を読むということは、翻訳と原作の混合体を読むということであり、純粋状態の原作には近づけていない。このことは、原作が未だ独自の価値を持ち続けていることを示すであろう。

 

原作が価値を維持できるのは、翻訳は複製ではないからだ。翻訳はあくまでも原作に忠実なうえで試みられる。しかし、原作をそのまま再現する翻訳は原理的に不可能だ。にもかかわらず、原作、特に古典と呼ばれるものは何度も翻訳される。ベンヤミンはここに作品の「忘却不可能性」を見る。翻訳は忘れ去ることのできない作品を現代に繋ぐ役割を持つ。このとき、翻訳者はどのような方法をとるのか。

 

ここで翻訳者は意味を転倒した「先取りの剽窃」を行うだろう。原作における「先取りの剽窃」は、先に存在する原作が後続する翻訳作品の読解の影響を受けることであった。翻訳が原作に対して遅れ、しかも異文化圏に存在するがゆえである。しかし、翻訳者は原作と翻訳作品の間の時間関係を反転することもできる。未来に向けて直進する時間軸を考えれば、翻訳者が生きる現在こそが最先端のはずである。つまり、翻訳は原作に対して先を生きている。原作の先を行く価値観を盗み、原作を装飾すること。これが翻訳における「先取りの剽窃」である。

 

これは単なるアップデートではない。なぜなら、翻訳者は原作が先に存在したことも意識し、原作が元来持っていた固有の価値や歴史も翻訳しようと試みるからである。例えば、鴻巣友季子は『翻訳のココロ』の中でwineをどう訳せばいいのか悩んでいる。もちろんwineはワインなのだが、鴻巣を悩ませるのはそれが『嵐が丘』という作品におけるwineだからだ。最終的に鴻巣はぶどう酒と翻訳する。なぜワインではなく、あえてぶどう酒という遠回りで、少し古臭い語句を選んだのか。

 

その理由は二つある。一つは、『嵐が丘』の舞台である19世紀北イングランドにワインが日常的に浸透していたのか疑わしいこと。物語の設定と文化的な差を考えた翻訳だ。そして、もう一つの理由は作品が本来持つ時間差によるものだ。『嵐が丘』の時代設定は作品発表時の50年近く前になっている。つまり、当時の読者は作品を読んだときに、作品の物語と時間差を感じたということだ。この時間差がぶどう酒という古めかしい語句に込められている。

 

原作における「先取りの剽窃」と翻訳における「先取りの剽窃」。それらは衣装を介してなされる。衣装の中にしか原作は見えず、しかしそれ故に原作は何度でも甦る。翻訳とは衣装である。僕たちはここから出発したのであった。そしてさらに言おう。翻訳者はスタイリストであると。翻訳者は今風で、かつ原作に見合った装飾を施す。しかし、流行は廃れる。このとき再び衣装は着せ替えられるだろう。原作の価値を保ったまま。シマウマの模様の中に、スタイリストに導かれて。


引用文献

(1)「古代、ことにギリシア古代の研究について」

(2)「翻訳者の使命」

(3)「ファッション批評の可能性と条件をめぐって」 蘆田裕史×千葉雅也

(4)「コスミック・コスメティック 装いのコスモロジーのために」 B・プレヴォー

(5)「複製技術時代の芸術」 ベンヤミン

文字数:2985

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