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鎮魂の脱獄論

〈序文〉

僕の前に二つの文学作品がある。『さようなら、ギャングたち』という小説と『ゴールデンカムイ』という漫画。作者名は違うけど、これは同じ人が書いた作品だと思う。僕は騙されないぞ。「名前がひとつしかないなんて、つまらないわ。」なぜかって。だって、同じテーマを描いているのだもの。鎮魂と囚人。両作品はたくさん重なるところがある。

まず『ゴールデンカムイ』のメインキャラクター「不死身の杉元」。あだ名の通り、こいつは死なない。体刺されても死なない。頭打ち抜かれても死なない。杉元はギャングだと思うんだ。『さようなら、ギャングたち』に出てくるギャングも顔を失わない限り死なない。しかも「わたし」の恋人の「中島みゆきソング・ブック」(以下SB)に似てる。SBは元ギャングだけど、杉元も日露戦争からの帰還兵で元兵隊。たくさん人を殺してきてるはず。境遇が似てる。

『ゴールデンカムイ』にはたくさんの脱獄囚が出てくる。脱獄囚に彫られた入れ墨は金塊の在り処の暗号になっていて、杉元は金塊目当てに脱獄囚を捕まえようとする。つまり、ギャングと脱獄囚の物語なんだね。もう一つ大事なのが、『ゴールデンカムイ』には魂に関することが多く書かれていること。人を食べた熊は悪い熊になって地獄に落ちるって言われてるんだけど、これは怨霊が憑りつくせいだと思う。杉元と一緒に旅するアイヌの少女アシリパが、杉元に対して魂と死の関係を話す場面もある。それに、杉元とは別に金塊を狙う鶴見中尉は死んだ戦友を弔うのを目的にしてる。とにかく、『ゴールデンカムイ』は魂との関係が深い。

ギャングと脱獄囚の話でもあり、魂をめぐる鎮魂の話でもある。実は、このことは『さようなら、ギャングたち』にも当てはまる。これにはだいぶ説明が必要だ。このことを考えるにあたって、二つの問いを設定しよう。

 問1:なぜ「わたし」はギャングを演じたのか

 問2:なぜ「わたし」は詩の学校の教室で死んだのか

この問いに答えられると、『さようなら、ギャングたち』が鎮魂の話であり、脱獄囚の話だって分かると思う。早速一つ目の問いから考えよう。ここからは少しお堅くいくよ。

 

〈一つ目の問い ―鎮魂-〉

  まず、問い自体の説明をしなければならない。ギャングを演じた、とはどういうことか。「わたし」は小説の終盤に、ギャングになることをいきなり志す。しかし、「わたし」はギャングにはなれなかった。なぜなら、「わたし」は詩の教室で心臓を突き刺して死んでしまうからだ。先に書いた通り、ギャングはめったなことでは死なない。ということは、「わたし」はギャングになったわけではなかった。ギャングにはなれずに、ギャングを演じていたのだ。

では、なぜギャングを演じたのだろうか。それは鎮魂のためである。鎮魂とは何か。折口信夫によれば、「鎮魂とは霊魂の操作にかかわる呪術的儀礼的行為一般である(1)」。ものすごく大雑把に言い換えてしまえば、鎮魂とは魂を操る技術や儀式のことである。ここでいう鎮魂は、一般に知られている鎮魂の意味とは違うことに注意しよう。現在広く使われている鎮魂の意は、死者の怨霊を鎮めるためになされる行為である。しかし、本稿で扱う鎮魂という概念の射程はもっと広い。確かに、死者の怨霊を鎮めるという意味もあるにはある。ただ、それはあくまでも派生的なものに過ぎない。折口に従えば、鎮魂の第一義は生者の魂の威力を高めることにある。第二義として、生と死の境界にある魂に触れることであり、第三義に死者の魂を鎮めることがある。いずれにせよ、魂全般にかかわる行為を鎮魂と呼ぶ。

鎮魂には一般に施術者が必要である。術にかけられてこそ、「わたし」はギャングとして振舞える。この場合、施術者はSBである。ギャングであるSBの魂を分割して「わたし」に与える。しかし、どのようにして。

ここで重要なのが名付けの行為である。名付けが鎮魂の儀式的役割を持つ。名前を自由につけ、捨てることになった小説世界の中では、自分の名前を恋人に付けてもらうことが慣例となっている。そこで「わたし」はSBから「さようなら、ギャングたち」という名前をもらう。名前にギャングという言葉が入っていること、そして別れを告げる言葉が添えられて外界を意識させられることが示唆的だが、より示唆に富むのは名付けられた場所である。名付けはベッドでなされる。小説によれば、ベッドには三つの使い方しかないらしい。「ベッドは、その中で愛し合うか、何もしないで手をつないだままねむるか、横倒しにしてバリケードにするか、それ以外に使うべきではない」。いずれも内と外を揺るがす用法である。愛し合うこと、手をつないで眠ることは体を介して繋がること。つまり、自と他の境界線を曖昧にすること。バリケードにすることは、空間内に境界を作りながらも新たな空間を作り出すという点で、空間の内と外を曖昧化する働きがある。まとめれば、「わたし」はSBから新たな名前、すなわち新たな魂を引き受ける。自と他、内と外が曖昧になる空間で。

ただ、すぐにギャングとして覚醒はしない。いわば、潜在的鎮魂状態にある。呪術が顕在化するのは、「わたし」がSBの魂に触れようとしたときである。実際、三部構成のこの小説において、ギャングを演じる前の第二部では魂に関心を示さない。むしろ、身体に関心がある。「S・Bの魂については、なにも知らない。自分のだってわからない。そんなものはないかも知れない。あるとしたって、なんの役に立つのか全く見当がつかない。どうせキスするなら、魂とより唇との方がずっといいとわたしは思う。」

「わたし」がSBの魂に触れようとするのはSBを失ってからである。鎮魂は遊離した魂を身体に呼び戻すことができる。そこで「わたし」はSBの魂を呼び戻すためギャングを演じる。ギャングを演じるということは、「わたし」の中に眠っているSBの魂を目覚めさせることを意味している。

「わたし」は鎮魂のためにギャングを演じた。ここまできてようやく『さようなら、ギャングたち』が魂をめぐる鎮魂の話だということをわかっていただけただろうか。しかし、これではまだ一つ目の問いに答えられてはいない。『ゴールデンカムイ』に戻れば、杉元は亡き戦友の願いをかなえるために金塊を求める。鶴見中尉は戦友を弔うために金塊を求める。いずれも魂を巡る思いがある。では、「わたし」は何を目的としてギャングを演じたのか。

ギャングになって本当の自分を見つけたかったのだろうか。生者の魂の威力を高めるという第一義の鎮魂である。しかし、これが目的ならば鎮魂は失敗である。「わたし」は死んでしまうのだから。ならば、SBの魂に触れて、SBを取り戻そうとしたのか。これも怪しい。ギャングを演じ始めてからの「わたし」はSBにほとんど言及しない。とするならば、鎮魂の目的は何だったのか。ここにきて、二つ目の問いに取り掛からねばならない。

 

〈二つ目の問い -脱獄-〉

  冒頭に掲げた二つ目の問い。なぜ「わたし」は詩の学校の教室で死んだのか。言い換えれば、なぜ高橋は「わたし」を詩の学校の教室で殺したのか。この問いに迫るには、詩の学校の教室がどのような場所なのか知らねばならない。

結論から言おう。詩の学校の教室とは、独房である。小説中でも教室は独房と重ね合わされて書かれている。「教室の面積は標準的な独房のおよそ6倍に等しく、雑居房よりやや広い。」詩の教室にやってくる最後の生徒が看守だということも示唆的である。そして、より重要なのは独房にどのような意味が持たされているかである。

独房は日本近代文学において大きな意味を持つ。副田賢二『〈獄中〉の文学史』に当たろう。

日本の近代文学における〈獄中〉表象には、社会への告発としての目的性には回収し切れない、甘美なまでの自己の感覚性の氾濫、自意識の無限の拡張、自己超越の夢想、そこでの「書くこと」への快楽といった現象を見出すことができる

監獄内に拘禁された存在は、その孤絶と閉塞ゆえに、自己の現在や過去を俯瞰し得るだけのパースペクティブを獲得した、特権化された主体として表象される。そこで〈獄中〉者が「文学」への意識と欲望を内包する人物であった場合には、〈獄中〉と「文学」概念を交錯、接合させるような想像力がそこに発動することになる。そこには、「文学」とは高度に個人的で精神的な〈内面〉の営為によってあくまでも主体的、自律的に創造されるものだ、という、日本の近代文学という制度を根幹から支えてきた思念が強力に反映されていた。(2)

副島が指摘するように、日本近代文学と独房は密接な関係にある。日本近代文学は独房における想像力によって発展してきた。「近代の自我の文学は牢獄を作るというプロジェクトとして始まったのだ(3)。」日本近代文学は囚人の在り方を描いてきた。第二部における「わたし」はこのことを如実に示している。詩の教室という独房に引きこもる「わたし」は言葉について思索している。詩を「書くこと」について考える。独房と文学が結びつく。「わたし」は囚人なのだ、日本近代文学という独房に閉じ込められた。

だからこそ、「わたし」を独房で殺す。独房にて自分をギャングだと思い込み、自己意識を膨らませる「わたし」は日本近代文学を象徴する存在である。そんな「わたし」の心臓を貫いて、死に至らしめる。独房での文学、囚人の文学との決別である。「わたしはペンを机の上に置くと椅子から立ち上がってあくびをした。もう書くことは何もない。」しかし、それは完全な別れではない。鎮魂によって何度でも甦るだろう。生者の文学の威力を高めるために。これが二つ目の問いに対する回答である。

このような高橋の文学的プログラムを考慮すれば、頻出する性交の描写は囚人の文学を免れるのに必要だということがわかる。囚人に身体の自由はない。だからこそ、囚人は観念の世界に脱出経路を求める。日本近代文学は、観念的な恋愛による救済を目指す。実体の欠けた求愛である。ただ、「わたし」は別の方法で独房を出る。SBの下に帰るのだ。それは実体の欠けた恋愛ではない。SBは実際にいて、互いに触れ合う。日本近代文学が取り扱いに困ってきた、身体性や野性が積極的に描かれる。性交は「わたし」が囚人を免れるのに必要なのだ。「わたし」は孤独に引きこもることなく、他者と通ずることができる。「性交は対話的だ。」SBとベッドで愛し合うことにより、独房から解放され囚人でなくなる。『さようなら、ギャングたち』はギャングと脱獄囚の物語なのだ。

しかし、SBはいなくなってしまう。SBの唇にはもうキスできない。それはSBと物理的につながることができないことを意味すると同時に、「わたし」を独房から解き放ってくれる契機を失ったことも意味する。ならば、「わたし」は如何にして囚人を免れるのか。SBと触れ合うことが脱獄の条件だった「わたし」は、SBと身体以外の方法で触れ合うしかない。身体とは別のしかたで、魂で触れ合うしかない。魂にキスすること。そう、鎮魂である。こうして一つ目の問いをめぐる議論に接続される。鎮魂の目的は脱獄だったのだ。

 

「さようなら、囚人たち」

  さて、議論もいよいよ終盤に差し掛かっている。そろそろ僕が言っていることが通じてきただろうか。『さようなら、ギャングたち』は鎮魂をテーマとして扱う、ギャングと脱獄囚の物語でもあった。「わたし」がギャングを演じる目的は、自由な身体を取り戻すためであった。これこそ潜在的に眠っていたSBの魂を目覚めさせた理由である。だが、話はここで終わらない。「わたし」は身体を取り戻すことで何をなそうとしたのか。再び問い直そう。なぜ「わたし」はギャングを演じたのか。

「わたし」はギャングを演じて墓地へ向かう。墓地には「わたし」の娘、キャラウェイが眠る。第一部で「わたし」は娘を失っている。この娘を弔うこと。これがすべての目的である。そのためにギャングを演じて、SBの魂に触れて、身体を取り戻す必要があった。

議論の補助線を引こう。「未成霊」というものがある。幼くして死んだ子供の魂の在り方を表すものだ。折口によれば、未成霊は現世に生きている人々が「完成霊」にしてやらねばならない。さもなければ、未成霊は賽の河原で鬼にいじめられ続ける。このことは小説中でも隠喩によって示されている。「わたし」はギャングを演じる前に川へ行く。そこで羽の生えた女の子が墜落するのを見る。これは未成霊のメタファーである。キャラウェイも天に向かえずにいる、墜落した女の子のように。

未成霊を救済すること。鎮魂の一つの役割である。折口は盆踊りに「未成霊」の救済を見る。舞踏による興奮が未成霊と舞踏者を繋ぐと説く。ここで重要なのは盆踊りそのものでなく、踊るために身体が必要だということだ。身体がなければ未成霊との一致を果たす興奮もない。弔いには身体が必要になる。

しかし、囚人には踊るための身体がない。身体を回復せねば、弔いはできない。囚人は脱獄しなければならない。そして、「わたし」が脱獄するにはSBと触れ合わなければならない。SBの魂に。ここにおいてギャングを演じる必要性が生まれる。鎮魂を通じて「わたし」は、もういないSBと触れ合うことが可能になる。ギャングとして身体を獲得した「わたし」は墓地を爆破しに向かう。爆破後、受付の女のおなかに穴が開く。墓地とは子宮だった。キャラウェイは子宮に閉じ込められ、永遠に子供のまま、未成霊のままに置かれていた。これでは完成霊になれない。爆破して、キャラウェイを解放せねばならなかった。だから、ギャングの「わたし」は墓地を爆破する。

ギャングを演じて、娘を弔うこと。これが一つ目の問いに対する答えである。娘の魂を鎮めるために鎮魂が必要だった。二つの鎮魂が重なり合った二重の鎮魂である。ところで、鎮魂を通じて少女を導く展開は『ゴールデンカムイ』とも重なる。杉元は戦友の願いを弔うことを目指すが、同時にアイヌの少女アシリパを導くこともしている。アシリパも父の仇として金塊を探しており、死者の弔いのうちにある。杉元の鎮魂とアシリパの鎮魂が重なり合うという意味で、これは二重の鎮魂と言えるだろう。そして、『さようなら、ギャングたち』に描かれなかった鎮魂のその先の可能性が『ゴールデンカムイ』には描かれる。

この二重の鎮魂を通じて、新たな可能性が開けてくる。杉元とアシリパは、時に、鎮魂の目的達成に対して不合理な行動を起こす。例えば、アシリパは父の仇と杉元の命どちらかを選ぶように強いられたとき、杉元の命を選ぶ。二人の間に絆が生まれているからだ。鎮魂を通じて結びついた二人の間には関係が成立している。二重の鎮魂は社会を生む。鎮魂は囚人を独房から解放し身体の自由を与えるとともに、社会に繋げる力を持つと言える。現在では繋がらないはずの者たちが、過去を通じて繋がりあう。そうして救われる他者と自己がある。また、このような社会への結び付け方は、過去を相対化しながら、個人を現在で結びつける強度を持つ。過去を現在に刻みながらも、現在も決してないがしろにしない存在様式である。

『さようなら、ギャングたち』の最後の場面では、腐った「わたし」の死体が役所の前に置かれる。これはテーマのメタファーだ。役所という公共の場に置くことで、囚人が社会に開かれるということを意味している。さらに「腐る」ということは身体の内部までさらすということだ。内部を外部と接続すること。これは鎮魂の作法であった。もちろん腐った死体を弔うのかは、社会の内部に受け入れるのかは、現在を生きる人の選択による。『さようなら、ギャングたち』では弔われない。「くさったギャングなんかナイスじゃないな」。

僕たちが生きるのはあくまでも現在であり、時に過去は無価値なものとして捨て去られる。しかし、確実に過去は現在の中に紛れていて、そのような過去はたいてい止まったままである。過去を現在によみがえらせて、過去や現在に止まったままのものを動かすこと。それが鎮魂の意義であり、人々を社会に開くことにも成りえる。閉鎖空間に閉じこもる囚人の存在論から、社会を開く鎮魂の脱獄論へ。高橋が『さようなら、ギャングたち』で書こうとしたのはこういうことだったのだと思う。その試みがもっとわかりやすく書いてあって、小説の先まで書いているのが、『ゴールデンカムイ』という漫画なんだな。これからの展開はどうなるんだろ。


【引用文献】

(1)津城寛文『折口信夫の鎮魂論』p131

(2)副田賢二『〈獄中〉の文学史』p19,21

(3)福嶋亮大『厄介な遺産』p159

その他、括弧でくくられた文章は高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』からの引用

【参考文献】

上記の文献に加え、

川村邦光『弔いの文化史』

野田サトル『ゴールデンカムイ』

文字数:6874

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