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解離する時間――トランス状の美学

 

 

 

 

 

 

■ 序

近年、哲学者の千葉雅也は自身のセクシャリティをカミングアウトした上で、Twitter上で性的マイノリティについての議論を積極的に展開し始めている。
ここで注目したいのは千葉が近年の性的マイノリティに対する支援運動に半ば批判的な態度をとっているという事実である。それは単なるバックラッシュにとどまらない極めて錯綜したものであるが、概ねこのようにパラフレーズすることができるだろう。

現在のいわゆるLGBT運動は各マイノリティの差異を均一なレインボーと捉えて社会化してしまうものであり、バラバラに別々の規範/脱規範をもつ複数の世界の並立を「なんでもなれる」という言説でなし崩しにしてしまうものだ、と。

千葉はこの観点から、――元々、「家」や「国家」などの管理体制と共犯関係にある――結婚制度を同性間に取り入れることにも批判的である(ちなみに彼はパートナーシップ制度を支持している)。

つまり、ここで千葉は、非ヘテロセクシャル・非シスジェンダーに、脱(社会)規範的な可能性を見出しているといえる。90年代のゲイカルチャーを実際に生きてきたにとってはこのような危機感は極めて具体的で切実なものといえるのだろう。

しかし、この境界を侵犯するものとしてのマイノリティ像が取り逃がしてしまうものもある。それはある種の「普通さ」を求めるマイノリティの声だ。それは特にトランスジェンダーに多くみられる。彼/彼女にはシスジェンダーの男/女のようになり、ジェンダー的「異性」と恋愛関係を結ぶ者は少なくない。故に彼/彼女たちは身体を改変し、戸籍を、名前を変更する。
わたしは知人から、その友人である「ホモセクシュアル的関係に不気味さを感じるというとあるMTF(Male to Female)」の話を聞いたことがある。つまり、彼女は「異性」である男性とヘテロセクシャル的関係を結ぶことを望んでいるのだという。
わたしはここで彼女の内面を批評(あるいは批判)することを望まない。ただ一つ言えるのは、彼/彼女らに脱規範者としての役割を付与させることはできないということである。実際のところ、例えばMTFとドラァグクイーンの間には大きな溝がある。それはトランス者に限らず別の「普通さ」を求めるマイノリティと「脱規範」を求めるマイノリティにとっても同じことだろう。

玉虫色によるマイノリティの包摂が、その固有の欲望を無化してしまうならばそれは許されない。一方で、例えそれが社会によって形作られ飼いならされた平凡な望みであっても、その望みを過小評価することもまたしてはならないだろう。千葉もまたこのような呟きを残している。

 

しかし、ここで強調したいのは「普通さ」を求めるマイノリティにも、その過程に多くの葛藤や精神の変遷があるということである。「普通」に思える身体的/精神的調和にも、多くの不協和音の痕跡が混ざり、それでもなんとか危ういバランスを保っている。千葉が述べるような玉虫色ではない錯綜した欲望がその「普通さ」の中には含まれている。
千葉がマイノリティにカオスを見出したのとは別の仕方で、わたしはマイノリティがどのようにしてコスモスを形成し得るのかに関心がある。
本論では、彼があまり語らないトランスジェンダー的なものについて記述をおこなう――「的」と付けたのは本論でいうそれが一般的な意味のトランスジェンダーに留まらないからである。本小論は「トランス性」とでもいうべき抽象的な概念について断片的に考えることを志向する――。*1
身体と存在の「解離」から生じる「トランス状の時間」はいかにして主体を生成するに至るのか。あるいは議論をより抽象化し、「解離」の時間に基づくトランスジェンダリズム的文化・芸術形態とは何か。本論は「普通さ」のコスモスが持つカオス、ラディカルな可能性の片鱗を示したいと考えている。
括弧つきの「普通さ」を断片的に記述する本論はやがて、千葉が称揚する非-玉虫色で非-フラットな、襞のある多様性に行き着くだろう。

 

[1] また、本論ではTS(Transsexual) / TG(Transgender)の区分や段階の程度、あるいはTV(Transvestite)との差異を詳しく論じはしない。しかしそのことは、それぞれの差異を無化したり、あるいはそれらの区分法自体が持つ問題を無視しようとするものではないことを述べておかなければならないだろう。ここで論じようとするのは別の存在に「なる」ことの、存在論的、文化論的な意味であり、それを語る上で最適なモデルとしてジェンダーという概念を取り巻くいくつかの具体的な諸相に注目していく。

 

 

■ きっとセルフィをしなかったベンヤミンに代わって

自撮り(セルフィ)という不思議な行為から話をはじめよう。それを行う時、行為者はカメラに写すものであると同時に写されるものであり、また、画面に映されるものであると同時に映すものである。そこでは世界と行為者の関係は行為者の内に閉じている。

かつてヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』の中で、写真が写すものを「視覚的無意識」と述べた。例えばウジェーヌ・アジェによるパリのなにげない風景をとらえた写真は、わたしたちが普段暮らしていると全く気づくことのない現実の細部を、瞬間を凝結させることによって明らかにさせる。つまりベンヤミンによれば写真とは普段は想像的に捉えている世界に対して、「現実」が「不気味なもの」として到来する経験である。

しかし、スマートフォンの登場はそれを根本から変更した。

そこで写される/映されるのはむしろ想像的なものである。ほとんどのカメラアプリには被写体を美しく覆うフィルター機能が付き、また自撮りを行うものの多くは補正機能を持ったカメラアプリを使用している。そこでは肌を均質化させ、目を大きくし、顎をシャープに見せるような想像的整形手術が行われている。スマートフォンで撮影をするものは世界を知りたいのではない。彼ら彼女らは自身の欲望を知りたいのである。その欲望は自身が望む世界と実際の世界との間で想像的に起こる「解離」によって引き起こされる。

それはタッチパネル上で触れるように行われる写真加工にはスクリーンのような距離がない。それは近すぎる想像的欲望なのである。そして、この欲望は極めてトランスジェンダリズムと相性が良い。それは「になる」ことへの欲望だからだ。例えばSNS上で「男装」/「女装」のハッシュタグで検索をしてみれば多くのトランス者たちが自身の写真を投稿していることが確認できるだろう。
日々身体が「現実」として現前するトランス者にとって眼球とレンズの関係は逆転しているのである。そこでは眼球が現実を写し、レンズが想像界をイメージを写すものとなる。トランス者にとって身体という具体は想像的なあるいは象徴的な精神の秩序の外部として、そこに空いた穴のようなものとして突然に目の前に現前する。このような身体の現前は「意味がある無意味」である。故にそれは厳格に管理され制御されなくてはならない。

このような「自己欠如」から目的論的なトランス性の時間は生じる。

写真は一般的に過去を保存するものとして知られている。しかし彼ら彼女らが映しているのは過去の静止画ではなく、来るべき未来、目指すべき制御がなされた自己像なのかもしれない

 

 

■ 高槻よしのはなぜ泣いたのか

しかし身体には「意味がある無意味」としての側面だけでなく、「意味がない無意味」の側面もあることを千葉雅也は『意味がない無意味』の中で繰り返し述べている。それは自身の自己像を危うくするような意味の多義性ではなく、ただそうあるという意味の干上がった状態である。そしてそれは「存在することの快楽」に繋がっているという。

『放浪息子』というトランスジェンダーの主人公を描いた志村貴子の漫画作品がある。ここで注目したいのは最終話で描かれる主人公の友人高槻よしの涙である。男の子になりたかった高槻よしのは、自身のその欲望がなくなってきていることを自覚する。

高槻よしのは身体が持つ欠如で泣くのではない。「意味がある無意味」であった身体が、ただ私である「意味のない無意味」に代わったこと。欠如自体が欠如していること、意味が失われたことについて泣くのである。ここにはトランス的時間の終焉、存在することの快楽を得られる主体の安定とその結果の不思議な悲哀がある。しかしここで重要なのは主人公の二鳥修一が自身の周辺の世界のことを小説として記述し始めるということである。これは高槻の主体の安定に刻み込まれている過去の出来事が無化されることに抗する意味がある。つまりそれは、主体の安定に至る目的論的なものとしてトランス的時間を捉えるのではなく、その過程自体を自律した非目的的時間として価値あるものにするという所作である。二鳥は高槻と過ごした、そして彼女が失ってしまったそれまでの時間を救済しようとしているのである。

 

 

■ 赤と青の非衝撃

トランスジェンダーのトランス的時間が自律した時間として肯定されるとき、その身体性はジェンダーの問題をその内部に内包しつつそれを超えて浮遊し遊戯し始める。

鷲田清一は『ちぐはぐな身体』の中で「ヨウジヤマモト」の服を「この社会のどんな人間類型をも思い浮かべさせない」と形容している。
「ヨウジヤマモト」そして「コム・デ・ギャルソン」は1982年のパリ・コレクションで「黒の衝撃」と呼ばれるセンセーションを巻き起こしたことで知られている。黒のモノトーン。変形され、あらゆる表象や既存の型から逸脱するライン。それらはすぐにイメージが固定されて制服化する「流行」への反抗であったのだろう。鷲田はヨウジの服を能の用語を用いて「非風」と呼んでいる。

ところで、千葉雅也は論考「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない――倒錯の強い定義」*の中でギャル男の極北を2003年に登場した「センターGUY」のファッションに求めている。彼によればギャル男とはギャル――過剰な装飾による女性による女装――のさらなる「分身」であり、「マチズモへの反省もなく女ウケに腐心するうちに、逆説的なことに、マチズモの実質をくり抜いて形骸化させ」ているという。千葉によればギャル男は異性愛規範を保ちつつもそれとは「解離」してその身体は極めてクィア的なものを帯び、ある種の「乱交性」を潜在的に放っている。
つまり「センターGUY」は「ヨウジヤマモト」や「コム・デ・ギャルソン」のように社会のジェンダーロールに反するのではなく、「意味がない無意味」でもって性と戯れてみせているのである。

この指摘は、意図を超えたトランスジェンダリズム的主体形成論として極めて興味深いものである。しかしここでは、一見するとより微温主義的に調和したユニセックス的イメージ群の中に、男/女 像から「解離」して浮遊するジェンダー的イメージの戯れを探してみたい。

それは例えば、渋谷ではなく原宿の香りをたずさえて現れるだろう。大川ひとみによって1970年に設立されたロリィタブランド「MILK」は原宿のストリートカルチャーを席巻したという。いわゆる「かわいい」文化に属するそれは、前述したギャルのような女性から女性への先端的な生成変化――男性性の欲望から離れた女性性の美学を打ち立てること――こそ表面上見られないものの、「かわいい」をリサイクルする際にわずかな毒を含ませることで、ジェンダーロールを浮遊させる。そしてギャルに対してギャル男がいるように、「MILK」に対しては「MILKBOY」(1974年創業)が存在する。「MILKBOY」の先端性は「甘ったるい少年」像を形成したことにあるのだろう。それは「甘い」のではない。俗に甘いマスクや甘い声といった言葉で形容されるような美少年/伊達男像は遥か昔から存在するだろう。そうではなく、「MILKBOY」のそれは男性性をだいなしにしてしまうような「甘ったるさ」を放っている。

それは例えば、「イッセイミヤケ」の傘下ブランドでデザイナーを務めていた津森千里が1990年に創業した「ツモリチサト」が先月に発表した「O&Oシリーズ」にも見ることができる。「O&O」とは「男の子と女の子(Otokonoko and Onnanoko)」の略であり、このシリーズのアイテムには津森千里が自身描いた男女を表すピクトグラムのようなこのマークが様々に変形されて編まれたりプリントされたりしている。
興味深いのはトリコロールのカラーと男女のピクトグラムの組み合わせが多様に組み替えられ、デザインとして抽象化されているという点だろう。ここでは赤/青、スカート/パンツという性を規定するエクリチュールが解離し、ゆるく脱構築されている。

あるいは、「HATRA」、「BALMUNG」、「Chloma」といった10年代初頭に堰を切ったように登場したフードウェアを得意とするユニセックスブランド。
これらのブランドに共通するのは、まるで大きな布の中に住まうような衣服の在り方である。例えば長見佳祐によって2010年に立ち上げられた「HATRA」は「部屋の居心地を持ち歩きたい 」*2 というコンセプトを持ち、そのシンボルともいえるネックから顎辺りまでを覆うかのような特徴的なフードはまさに服の中に暮らしているかのような着心地を与えてくれる。それは例えば「Chloma」の「シェルターコート」においても同じだろう。これらの服は体を完全に包み込み、主体の線を優しく消し去り、ジェンダー的生々しさを無化する。
しかし、一度主体のジェンダーが無化されることは新しい身体との向き合い方に繋がっていくだろう。Chlomaの創設者の一人である鈴木はあるインタビューで以下のように語っている。

アスリートのための機能服じゃなくて、弱くて足りていない人が着る機能服みたいなものをやりたいなって思っていて。で、その感覚にカワイイとかを入れたりしているわけですね。その感覚と同時に、人間の感覚の拡張のバーチャルリアリティだったりとか、メカニカルなものへの憧れみたいなテイストをコレクションの中に入れたりだとか。*3

つまり、Chlomaの服は弱い身体をフラットに覆って守ると同時に、そこに新しい機能を投影するわけである。主体にとって「足りていない機能」を付与するある種のフェティッシュな形態はBALMUNGのデザインにもみられるものだろう。

これらの服は、性のイメージが解離した後に生じる、浮遊する運動(時間)の形である。

 

(ツモリチサト O&O https://www.fashionsnap.com/article/2019-01-07/o-and-o/)

 

(Chloma シェルターコート ロング バイオネイビー http://dl-chloma.com/?pid=122375005)

 

(BALMUNG ビッグセーラートップ – 灰 https://shop.crackfloor.com/?pid=131635825)

 

[1] 千葉雅也『意味がない無意味』(2018 河出書房新社) 所収

[2] https://www.fashionsnap.com/article/2014-11-04/hatra-kotatsu/

[3] https://uncannyzine.com/posts/54647

 

 

■ セリーしすぎてはいけない――「線の音楽」のトランスジェンダリズム

千葉のLGBT運動への懐疑は世界のフラット化への懐疑であった。そして、これは彼の博士論文にして最初の単著『動きすぎてはいけない』にもつながるテーマだ。

彼はドゥルーズの哲学に対してリゾームの「切断」を重視する立場をとっている。権力から解放されたリゾームのモデルは無数に接続していく。それは一見するとすべての差異をすべてが繋がった同一性のもとに均一化してしまうものに見える。しかしこの接続過剰に対して千葉は第2の「切断」の重要性を語る。それはリゾームを有限化し、それらの微粒子が組み替わり可能性をもったまま固有性をもつことを可能にする。

ところで「動きすぎる」ことによる逆説的な単一化は現代音楽の世界で20世紀後半に起きていたことである。無調音楽、とくにその「セリエリズム」と呼ばれる作曲法は戦後の前衛音楽で完成された。具体的にはダルムシュタット三羽烏と呼ばれる作曲家、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンらによる「トータル・セリエリズム」によって。そこでは音を構成する各要素(音高/音価/強度 等)は数列的パラメータでもって別個に操作される。その操作は極めて厳格なプロセスに則ったもので、そこでは作曲者の恣意的な判断はほとんど存在しない。
しかし、この厳格にそれぞれの内部構造が自律し全体性に対して反旗を翻す――ある種リゾーム的ともいえる――音楽を聴くとき、極めて奇妙なことが起こる。わたしたちはそのそれぞれの系列の構造がほとんど聴き取れないのである。音楽のあらゆる聴取的伝統を破壊したトータル・セリエリズムは、乱数的なただ一つのフラットな音響としてしか我々の耳には現前してこない。トータル・セリエリズムは「動きすぎている」のである。

この事実に対して批判的応答を行った作曲家が日本にいる。
彼の名を近藤譲という。
近藤譲の音楽は極めて伝統的なグルーピング法によって構造化されている。メロディ、リズム、ハーモニー、その反復。近藤は我々が認知し得る音楽の構文装置は有限であるという認識を持っている。実際、近藤の作品は耳馴染みの良い音響に満ち溢れている。そこにはダルムシュタット三羽烏のような革命性はないかもしれない。
しかし、彼は伝統的な西洋音楽語法を断片的に用いつつ、それを音楽的ナラティブから「解離」させ「曖昧化」させる。そこには全体を統制する物語はなく、ただ部分的に立ち現れる微粒子によるミクロな構造が前の音から予想される構造化を裏切り再領土化を続ける非目的的時間だけがある。近藤譲の音楽をアナリーゼ――それは部分と部分との関係を分析して全体性を仮構する行為である――しようとするならば必ずその結果は多様で曖昧な組変わり可能なものとなるだろう。構造が非隠喩的(非意味的)に無数に切断されることによって、意味と無意味が複数性をもって立ち現れるのである。
わたしには近藤譲の音楽はこのように主張しているように思われる。

セリーしすぎてはいけない。セリーしすぎると解離とトランスが止まってしまうから。

 

 

 

 

■ 終

加速しすぎないこと。一方で、伝統や理想化された秩序を夢見すぎないこと。トランス状の美学。
主体を安定させながらも「解離」する精神と肉体を意識すること。「解離」から時間を、目的的なものだけでなく時に非目的的な時間を生み出すこと。つまり「解離」を再解釈し、意味がない無意味と戯れること。意味を断片化させること。二鳥修一の筆跡のように。「BALMUNG」のシルエットのように。近藤譲の音楽のように。

これは、いささか微温主義的すぎる思想だろうか? しかし、日常の生を小さな革命とするために必要なのはこのようなことではないだろうか? 世界のフラット化に飲み込まれるぎりぎりのところで、日常系の抵抗を――欲望の発明を――すること。
つまり、眠りながら覚醒すること。世界は常に覚醒し続けることも、常に夢を見続けることもできない。わたしたちは巨大な布の中で微睡むことがいかにしてラディカルなものとなるかを考える必要がある。

本論が千葉雅也とは別の仕方で、それでもなお彼と同じように、フラット化する世界に襞を見つけることに成功していれば幸いである。

文字数:8304

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