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機械と考える

機械は心を持つのか。この問いとそれに付随する無数のことがらついては幾つもの分野で議論がなされている。例えば分析哲学の一分野である心の哲学では、物質としての脳と現象としての心の関係について認知科学などと連携しながら多くの理論が提出されている。

あるいは、近年のいわゆる「思弁的実在論」と呼ばれる哲学的潮流にはグレアム・ハーマンのような汎心論的傾向を持つ存在論体系を構築している者もいる。

また、情報工学者である西垣通は近著の『AI原論』で、前述した「思弁的実在論」の他、「オートポイエーシス」というシステム論で用いられる概念に注目し、AIと人間の脳について考察している。

このような学術知は、AIの社会的運用に基づく諸問題が日々具体的なものとなる現代社会や、AIアシスタント機能を用いることも多くなった我々の日常において極めて重要な意味を持っている。

 

しかしここでわたしは、本課題に沿って機械は心を持つのかについての議論を行うことはできない。この問いは非専門家が扱える範疇を遥かに超えるハードプロブレムである。

故に、ここでは機械と人間をめぐる興味深い連帯に基づく作品を一つ紹介したい。

 

 

 

小宮知久という作曲家がいる。前年度の日本音楽コンクールにて、半ば自動作曲による極めて演奏困難な同音連打に満ちた楽曲 《Obsessive Paroxysm for orchestra》*1で第2位を取得した彼であるが*2 、その作品は機械と人間による奇妙な共同作業によって成り立っているものが多い。

その中でも《Vox-Autopoiesis》(西垣通が『AI原論』で「オートポイエーシス」に注目していたことを思い出させる題名)というマルチメディア作品に注目してみたい。

この作品では、コンピュータにより自動生成される楽譜が人間の奏者によって歌われ、その声の「演奏ミス」が再びコンピュータに入力・分析されてプログラムに従った楽譜の生成を変容させるというフィードバック・ループが形作られている。*3ここでは人間とコンピュータは別々の目的を持ちながら自律つつも一つのシステムを成しており、人間の身体(演奏能力)の有限性によりリアルタイムで音楽作品が生成されていく。

つまり機械を通した身体的実践により、人間存在が逆照射されているわけである、

非常に興味深いのは小宮がこの作品により生成された楽譜を出版しているということだ。この演奏用でも観賞・分析用でもない楽譜は、銀色のジッパーバッグの中にまるで非常食のように収められていた。

これは人間が機械「と」身体的に生きた時間の痕跡であるところの「音楽」である。

 

機械が心を持つか否かに関わらず、わたしたちは機械と連帯しながら日々を暮らし何かを生成するだろう。

機械「と」考えることは機械についての理解を深めるのみならずわたしたちの存在を照射する。そしてそれは、人間と機械による新しい共同身体を形作るだろう。

 

[1] ちなみに前年度より日本音楽コンクールは演奏審査を撤廃し譜面審査のみとなっている。この状況下においてこのような作品が受賞したことについても小宮自身がSNS上などで自虐的に言及している。  ( https://twitter.com/bydgiyerhc/status/1032915095200755714?s=21 )

[2] http://chikukomiya.com/obsessive (小宮知久のウェブサイト)参照

[3] http://chikukomiya.com/VA の他、2018年に東京藝術大学ART MEDIA CENTERで行われた川島素晴と小宮知久のトークイベント「楽譜の新機軸」を参照

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