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〈幸せな時間〉――濱口竜介『ハッピーアワー』について

濱口竜介『ハッピーアワー』。

この5時間17分にも及ぶ長大な映画作品には「幸せな時間」という意味のタイトルがつけられている。一見してこれは不可思議なことだ。実際のところ、今作で描かれているものは、あらかじめ成立していた交友関係の崩壊――アンハッピーな出来事――だからである。

では、『ハッピーアワー』における幸せな〈時間〉とは何を指すのだろうか。

 

この物語は、神戸市で暮らす4人の女性、看護師のあかり、学芸員の芙美、専業主婦の桜子、純を中心にして展開される。

仲睦まじく交友をしていた4人は、アーティスト(?)の鵜飼によって行われた「「重心」に聞く」という複数の身体間に生じる「重心」を探ることを目的としたワークショップをきっかけにして、お互いの、あるいは自身の夫婦間等の関係性を変化させていく。その変化の中心となるのは純とその夫による離婚裁判である。純がその事実を隠していたこと、そして純の失踪は物語と登場人物にとって「重心」、あるいは「重心」の欠如として焦点化される。

この「重心」について精緻に分析した『ハッピーアワー』評として三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』が挙げられるだろう。三浦は登場人物間の「重心」の位置とその崩壊の演出論的生成を科白の癖や多数のリヴァースショット、配置されるいくつものモチーフなどを分析することで論じている。

例えば、純の「せやな」といった言葉の持つ肯定と残酷さ。例えば、桜子の「わからへん」といった言葉に代表される判断の宙吊り。

リヴァースショットによって生じる合わされる正中線(鵜飼のワークショップには互いの正中線を合わせるプロセスがあった)。裁判のシーンにおけるあらゆる登場人物の向く交わらない方向。

三浦が論じていないところでいっても、例えば序盤の桜子の家庭における、透明のガラス戸で透明に仕切られて交わらない、桜子と夫の視線と音。あるいはワークショップ後に純の言う「あかり、鵜飼さんこわいんやろ」という台詞。これらはのちに起こる「重心」の変化を予期するような無数の微細な断片の一部である。

このように『ハッピーアワー』にはその水面下であらゆる関係性の生起と崩壊の兆しが構成的に蠢いていた映画であるといえるだろう。

ではここにある「幸せな時間」とはなんなのだろうか。

 

ここまでの論を振り返ると、あたかも『ハッピーアワー』という作品が〈目的的時間〉に導かれているように思われる。どういうことか。

そのことについて述べる前に、ここでは音楽美学者ジゼール・ブルレの議論を参照しよう。ブルレの『Le temps musical』によれば、音楽というものは「合目的性」によって時間の流れに意味を与えるものであるべきだという。そして彼女は無調音楽を批判し調性音楽を礼賛する。調性とは「主音」となる1音とそこから導かれる「主和音」を目的としての中心として駆動する記号的な連接体系である。その体系の中で各和音は意味付けがなされ、各和音の中で各音の機能が移り変わっていく。ブルレによれば、このような全ての運動が最終的に主音に向かう合目的性による音楽的形式=時間を「主体の純粋行為を体現する」ものであるという。

ここで、重要なのは、彼女の礼賛する調性音楽における「主音」の働きは、むしろそれが隠されることによって強まるという事実だ。

ソナタ形式の展開部と呼ばれる部分では複数のモチーフが自在に変形され、いくつもの転調を繰り返す。つまり、ソナタ形式は形式的――提示部/展開部/再現部――な調設定による転調のダイナミズムのみではなく、小さな構造の中でいくつもの小さな調性間を移動し、迂回路を通っていく運動である。そこでは、決定的な「主音」は遅延させられ続ける。このようなモチーフの運動はロマン派の時代に至り拡張されるとともに、次第に大きな形式感も失われ、常にあらゆる調の間を躍動する時間構成が重視されていく。

つまりソナタ形式は、目的地が不在でありながらも、「重心の欠如」によって導かれる新たなる〈不在の重心〉=〈来るべき別の主音〉の引力――「主音」の働きはしばしばこの比喩で語られる――によって駆動されるという点こそが重要視されてきたのであり、むしろ不在の引力こそが強固に〈目的的時間〉を形成するわけである。

そして、純の不在という「重心の欠如」によって来たるべき別の主音=作品の結末に向かっていく『ハッピアワー』はソナタ形式のような〈目的的時間〉として捉えることができるように思われる。

しかし何かが、決定的に何かが違う。『ハッピーアワー』の「幸せな時間」は目的論的で主体的なもの時間が前進していく快楽とは圧倒的に異なった質感を与えてくる。

そもそも鵜飼のワークショップは、相手と自分の間に生じる重心を探ることによって、暫時的な間主観が形成され、閉鎖した「主体」が揺さぶられることではなかったか。

それならば、「重心」の変化は、それが「幸せな時間」に至る契機であったとしても、「幸せな時間」そのものではないと考えなければならない。つまり、焦点化すべきものは「重心」ではない。真に焦点化すべきは、作品に埋め込まれたもう一つの自己言及的イベントである。

 

作品の後半では、芙美の夫が編集を務める作家能勢こずえの朗読会が行われる。その内容はひたすらに有馬温泉に地質調査のために行った女子大生の一つ一つの知覚をただトレースしたかのような内容だ。その小説の内容を、純の夫である公平は「過ぎ去っていく出来事」を「そのまま描写」していると語っている。

意味を含めず、ただ知覚すること。たしかに前述した三浦もまた、終盤における桜子の突然の不倫や、あかりと鵜飼の関係性の生起が極めて非必然的なものであることを著書の中で語っている。

しかし、このような物語の非必然性――事後的な物語の説得性――だけでなく、『ハッピーアワー』にはただ、そこにあるとしか言えないような、物語の生起の過程で偶然起こりその後展開されることのなかった可塑性の断片が多く収められていることに気がつくだろう。純の隣に偶然座った女性による、一見物語とは何の関係もなさそうな家族の話。あかりと鵜飼の妹により行われる口づけ。

世界が、水面下の潜勢力を伴って唯、在ること。能勢こずえは朗読の中で、「あり得たかもしれない別の自分」について思いをはせていた。

また小説家の柴崎友香は本映画のパンフレットに寄稿した文章の中で、この映画が、そして神戸という場所が、「どこにいても、坂を登ればいつか海が見える」土地であることを指摘している。

繰り返されるたびにその意味性を絶えず変質させる抽象である海。

純粋持続する時間の、そのほとんどが現実として結実化することのない可塑性の海に知覚を傾けること。

故に、この極めて具体的な5時間17分の「幸せな時間(hour)」は、それが固有の非日常的生成の場としてあることによって、極めて抽象的な〈幸せな時間(time)〉に通じている。この〈時間〉は一切の具体的な意味内容や、善/悪、快/不快、功利の価値判断を超えて、永遠に持続し続ける可塑体である。

しかし、このような〈時間〉が日常に立ち現われることは容易なことではない。日常や現実の煩雑な時に悲惨な諸問題はあまりに単一の意味内容の層でもって海の流れを滞らせる。この日常世界を無化し異なる〈時間〉を開くことができるのはきっとごくごく限られた、それ故に貴重な、芸術的時間だけなのだろう。

思えば、「ハッピアワー」という用語には、元々限られた時間という意味が内包されていた。

だからきっと、〈ハッピーアワー〉は一瞬の〈永遠〉である

 

 

■ 参考文献

・椎名亮輔『音楽的時間の変容』(2005 現代思潮新社)

・三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』(2018 羽鳥書店)

 

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