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近藤譲と平田オリザ

平田オリザの演劇を観ながら、わたしはある作曲家のことを思い出していた。そして、後に平田の著書を読むことで、その思いは間違っていなかったことを知った。

本論は、平田オリザの思想を対象としながら、ある作曲家との類似性を見出すことによって、新しい「モダニズム芸術」について論じる。

その作曲家の名を近藤譲という。

 

平田オリザは著書『現代口語演劇のために』の中で自身の演劇を「記述」的と定義し以下のような芸術区分を行っている。

 

主観の系列(前近代) 作為→主観→嘘―――――――→(神)

客観の系列(近代)     客観→リアル  ≠   真理

記述の系列(現代)     無為→記述(描写)   →世界

 

彼によれば、近代の近代主義における「人間の合理的理性は社会を正しく把握し、さらにその把握に基づいて、社会を理性によって変革、管理しうる」という理念が崩壊したのち、演劇は前近代の方向へと回帰してしまったという。つまり、作為によるメッセージの伝達へと。

この流れに対して、彼は第2の近代主義ともいうべき戦略を取る。それは、客観が一種の作為に過ぎないという近代主義の挫折を把握したうえで、意識的に「無為」の状態を記述しようというものだ。たしかに、彼の劇における物語的流れの欠如、現代口語の徹底、「同時多発会話」などはこのような日常を立ち上げようとする試みといえるだろう。

彼は、自身の作風を真善美から距離を置くものだと言っている。

しかし、この言葉を素朴に受け止めてはならない。真善美から離れて作られた演劇が真善美と全く関係を持たないとは限らないからだ。どういうことか?

 

近藤譲が本格的に作曲活動をはじめたころ、音楽における前衛の時代は終焉していた。ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンらの「音列主義」は音楽の構成における記号的システム化を徹底的に推し進めた。しかし、理性によって厳格に管理された音楽の構造が一定の複雑さを超えた時、そこに立ち現れてきたのは全く無秩序的に響く音響だった。最も高度に自律して作られたシステムが、構造なき一つの音響群としてしか立ち現れないということ。前衛音楽はこの事実の前に、音符の記号的操作の探求から新規の音響体の造形に主眼を置き始める。しかし、音楽は時間芸術である。音符間の記号的関係=内的構造を失った音たちをつなぐものは、音響群同士の大まかな繋がりだけとなる。結果そこには、静寂からクライマックスへ至るような、極めて古典的な物語形式が回帰することとなる。

この状況において、近藤譲はアメリカ実験音楽の作曲家ジョン・ケージに注目した。ジョン・ケージの偶然性(不確定性)の音楽は、作為によるメッセージから離れた「無為」によって作られている。近藤は著書『聴く人』の中でジョン・ケージの偶然性・不確定性の音楽をこのように評している。

 

こうした「偶然性」(不確定性)の音楽」では、その作曲者も聴き手も、どちらも同じ立場で、訪れてくる音響(そこでの表現の実質、すなわち、「音楽〔曲〕」)に出遭う。つまり、その「音楽〔曲〕」は、確かに人工物ではあるのだが、あたかも雷鳴や虹といった自然現象のような、人の(作曲者=聴き手の)外に存在する客体である。(『聴く人』p65-66)

 

なぜ近藤はジョン・ケージに注目したのだろうか。近藤譲は初期の数作を除いて、ケージのような偶然性・不確定性を用いた曲を作曲していない。

そのことについて述べる前に、近藤の自身の作曲法についての言葉を引用しよう。彼はある講演で以下のように述べている。

 

私が関心を持っている音相互間の関係性というものは、特に目新しいことではなくて、むしろ非常に伝統的な種類のものです。それは、例えば旋律とかリズムとかあるいは調性とかいった、非常に伝統的な音楽の構造の諸要素を成り立たせているのが、そうした関係性にほかならないからです。(中略)三つの音をそれぞれABCと呼ぶとすれば、AとBによってできる関係が、BとCによってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そしてさらに、四つ目の音Dを書く際には、ABCによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく。そんな仕方です。つまり常に何らかの関係性が成立してはいるのだけれど、しかしいつもその関係性が曖昧なものでしかないという状態(『現代音楽のポリティクス』 p158,160-161)

 

彼は、自身が古典的な前衛以前の音の関係性を用いていることを述べている。しかし、彼はその関係性を「曖昧」に未完結なものとして配置する。

ここでケージの無為に話を戻すならば、近藤が関心を持ったのはケージの「無為」の音楽にこのような構造が見出せるという点だろう。事実、ケージの音楽の演奏を聴くとき、そこに何らかのメロディやリズム、ハーモニーを見出してしまうことは多くある。そして彼はケージを自然に喩えたように、自身の構造というものに対する興味を自然物に喩えている。

 

こうした「構造」に対する考え方は、喩えて言えば――少し飛躍した比喩に聞こえるかもしれませんが――、夜空の星を眺めることに似ています。空の星は、基本的にはランダムに散らばっていますが、私たちはそれを或る程度グループとして見ることによって、例えばオリオン座とか、白鳥座といったように星座をイメージします。ランダムなconstellation(布置)を、何らかの形でグループ化することによって、そこに形を見てとる。(お茶の水女子大学最終講義「私の作曲について」2013 3/17より)

 

自然物は人工物ではない。しかし人間の感じ取る構造の完全な外部にあるものではない。それは開かれている。つまり曖昧な構造をもっている。受け手としての人間はそこに偶発的に何かを読み取ってしまう。近藤は内部構造を失っていく前衛音楽に対して抵抗を試みていた。ケージ的な「無為」を、行為ではなく聴き手の現象に対して作為的に強調して引き起こすことで。

 

平田オリザは真善美というから遠く離れようとしていた。しかし、作者の意図から離れ、ただ「無為」に記述されたものが、断片的で開かれた構造を生み出すことは近藤の曲が示した通りである。事実、平田の劇において描かれる状況が、サナトリウムや戦地、革命家の夫婦間の対話といった極めて真や善、そして美と関わりの深いものであることに注意しよう。

平田の劇はそれが「無為」であるがゆえに、何気ないシーンにも、観客は何らかの名状しがたい情動を受け取ってしまう、というよりも自動的に生成してしまう。例えば『S高原から』のチャイムを何回も鳴らすシーン。例えば『南島俘虜記』における妊娠を巡る対話。そこには曖昧な真善美が「無為」に潜在しているのだ。

このことは平田オリザもどこか自覚していたのだろう。彼は言っている。

 

観客は、この「もの」をめぐって、想像力を膨らませる。そこにのみ、作り手と観客の間に出来事が生まれる可能性がある。(『現代口語演劇のために』 p35)

 

今日のモダニズム芸術とは自然のように立ち現れる芸術のことだろう。それは、自然であることを主義として掲げる近代でもなく自然なるものの美を模倣し神を賛美する古代の芸術でもない。

それは、厳格に「無為」に構成されているが故に、真善美から遠ざかるがゆえに、瞬間的に無数の真に、善に、そして美に開かれてしまう、ただそこにある、雷鳴や虹のような芸術である。

それは、主体的に現在と未来を作り出していく強い芸術ではない。むしろ、受け手に開かれる、つまり受け手の無数の経験を基盤とする、過去を眼差す芸術である。そこでは、作品は無数の過去に触れている。一人の受け手の断片的情動は現れてはすぐに立ち消えていく。そして彼は次の瞬間、不可解で曖昧な、あり得たはずの誰かの情動を体験するだろう。

 

■参考文献

小林康夫編『現代音楽のポリティクス』 書肆風の薔薇(現水声社) 1991

平田オリザ『平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために』晩聲社  1995

近藤譲『聴く人 音楽の解釈をめぐって』 ARTES  2013

近藤譲(「私の作曲について」)

 

文字数:3310

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